第三話 おれ、決意する。
ゴブリンと思われる存在に襲われてから数分が経つ。
こうして物思いに耽っているということは幸いにも死んでいないということだ。
剣道において、技を繰り出すときには先の先を読むことが肝心だ。
相手の足の運びと目線を読んでいけば自ずと次の動きを読むことができ、また面を打たせたい場合には竹刀を数センチ下げたり、籠手を打たせたい場合には中心を取るためせめぎ合う竹刀を気持ち相手側に押し込む。
そうすることで相手の行動をある程度誘導することができる。
とはいえそれは技術と身体能力が伴って初めてできること。
十年以上続けているために無駄に技術だけは身についているが、身体能力は追い付かなかった。
特に足の運び。
すり足をしつつ細かに動かし続けるのはなかなかに骨の折れることだ。
しかし、もし身体能力が追い付けば、どうなるか。
おれは今、自分の体ではない体を持ち、それは驚異的な身体能力と不可思議な察知能力を有している。
これゆえにおれは殺意をむき出しに、こん棒を振り回し噛みつこうとしてくるゴブリン相手に、まるでダンスを踊るが如くひょいひょいと軽いステップで翻弄することができている。
正直自分でも驚いている。
自分はこんなにもできるやつだったのか、と。
もちろんこの体によって能力を補正されたこともあるだろうが、技術面においては完全におれが培ってきたもの。
命を奪いにきているものを目の前にしながら思わず笑みがこぼれてしまう。
傍から見ればおれは狂人に映ってしまうだろう。
だが、そんなことはどうでもいい。
おれは嬉しいのだ。
自分の半生を注ぎ込んでも勝率が低く、勝つことへの渇望を忘れてしまっていた。
辛い練習から逃げ、あの屈辱にも似た敗北感を甘んじて受け入れていた。
自分には才能がないのだと、腐ってしまっていた。
だが、それでも続けてきたことによってそれが報われたのだ。
継続は力なり。
まさにこの言葉の通りだ。
親に無理やりやらされながらもずっと続けてきた甲斐があったというものだ。
剣道をおざなりにし勉強面へと逃げていたが、今なら少しだけ胸を張って親に顔向けできる気がする。
「そうか、親か」
ここでふと思い出す。
この状況を受け入れていたが、自分はどうなってしまったのだろうか。
自分がいなくなってしまって両親や祖父母、親族一同心配しているに違いない。
もともと人付き合いが苦手だとはいえ、親戚は親戚だ。
おれ自身も彼らに対する愛情はある。
もしこのまま帰れないかもと考えると少し悲しい。
ただ何よりも湧いてくるのは申し訳なさだ。
親孝行できたことといえばそれなりの大学に入ったことくらい。
それもおれがいなくなってしまったことで帳消しだ。
まあ、ゴブリンを前にしながら考えることでもないか。
もしそうならばそうだと受け入れるしかない、どうしようもないのだから。
そして、おれはどうするか。
この相手を翻弄する気分は快感にも似たものがある。
努力をしている人々はこういった感情を得んがためにひたすらに努力し続けているのだろう。
そしておれは知った、知ってしまったのだ。
この感情を、勝つということを。
ならば、これからも勝ち続けるために、そして勝つために戦うしかない。
あの敗北感を、屈辱を二度と味わわないために。
ゴブリンの渾身のスイングを軽く避けながらそう決意するおれであった。
お読みいただきありがとうございます。改善すべき点などがございましたらどうぞ感想にてご指摘ください。