第二話 おれ、会敵する。
落ちていたいい感じの木の枝を地面に垂直に立てて倒れた方向へと歩き始めて一時間が経過しようとしている。
この体、どうやら疲れ知らずのようで、前の体で全力疾走してやっと出せるような速度を軽々と出してしまえる。
おかげで、視界の果てに見えていた森へと辿り着き、現在はその森を探索中だ。
先のいい感じの木の枝で邪魔な枝葉をバシバシとはらいつつ、ズイズイと中へと進んでいく。
たくさんの生き物が生息していることがわかる。
しきりに聞こえてくる動物の鳴き声からもわかるのだが、おれにはなんとなくそうだとわかるのだ。
さらに言えば、なんとなくいる場所もわかる。
こっちに大きめの動物がいるなと思ってそちらに目を向けると鹿だと思われる動物が草を食べていたり、ちっさいのがいっぱい集まってると思って見てみると鳥が雛に餌をやっていたりと、百発百中の確率で発見することができるのだ。
アニメや漫画で、目をキラリと輝かせて敵の奇襲を防ぐ人たちの気持ちが少しだけわかった気がする……ちょっと違うか。
気配というよりは、こう、生命? を感じているような感じがする。
うまく説明できないが、なんとなくそう思える。
自分を中心に生命の反応は点のようなもので感じ取ることができて、その点の反応が大きければ大きいほど図体の大きな動物に出会うことができる。
不思議なこともあるもんだとさらに踏み進めていると、生命を探知できる範囲の中に新たなものが現れた。
それは今まで感じた中で最も反応が強いもので、そして何か嫌なものを感じ取った。
おれはすぐにその場で姿勢を低くしてその反応の場所へと向かっていった。
このまま反対側へと進むという手もあるが、いやむしろそのほうが最適解であるはずだが、おれはそれは選ばない。
なぜか。
答えは簡単、面白くないからだ。
だいぶ近づいてそろそろ視界に入るだろうという距離にまで近づいてきた。
おれの推論によると、鹿よりもだいぶ反応が大きいことを考慮すると、少なくとも鹿よりは図体が大きいはずだ。
おれは熊ではないかと睨んでいる。
それよりも大きいものとなると、日本では野生で見られないような動物となってくる。
ただ、ここが日本だという確証がない以上それも心の隅に留めておかねばとは思っている。
そしてとうとうすぐそばまで到着して、身を隠し音を立てないように努める。
必ずしも襲われるということはないだろうが、万が一を考えるのは大事なことだ。
そんなことを考えながら、木の裏からそっと目を向ける。
そして驚いた。
まず驚いたのは相手が熊どころかおれよりもずっと小さいことであった。
目測で約百二十センチほどで、小学生くらいの大きさであろうか。
このことからおれの推論が間違っていることがわかった。
生命の反応の大きさは体の大きさには比例しないようだ。
であればいったい何が関係しているのだろうか。
気になるところではあるが、次に進むとしよう。
第二に、驚いたのはその容姿だ。
全身を緑色の肌が覆い、頭には髪が一本も存在しない。
耳は大きく、そして尖っていて、鼻は歪な鷲鼻のようだ。
口元には黄ばんだ鋭い歯が乱雑に並び、しきりに意味不明なことを発している。
背筋が大きく曲がって老人のように見え、お腹は中年男性のごとくぽっこりと出ている。
腰には申し訳程度に布が巻かれ、ほとんどその意味をなしていない。
そして何よりその目だ。
黄色い瞳とその周りを塗り潰す黒色の目にははっきりとした害意が見受けられる。
人の感情に疎いおれですらわかるのだ。
誰でもわかるだろう。
そしておれはこいつに見覚えがある。
「ゴブリンか?」
思わずそう口からこぼれてしまう。
ゲームでよく見かける雑魚モンスターの典型例だ。
それが今、現実に目の前にいる。
「おいおい、勘弁してくれよ」
この状況に頭がクラクラしてくるがなんとか足を踏ん張り姿勢を保つ。
今は考えている場合ではない。
幸い、ゴブリンはこちらに気付いていない。
気付けば有無を言わさず襲ってくるに違いない。
勝てるかどうかもわからないような中で、戦いを挑むのは愚策中の愚策。
三十六計逃げるに如かず。
いよいよ頭がパンクしそうだ。
そんなことを思いながら撤退するために一歩下がる。
パキッ。
枝の折れる音がなぜかはっきりと響き渡り、おれの耳を突き抜ける。
どうやら落ちていた枝を踏んづけてしまったらしい。
こんな状況でこんなことをしでかすなんてある意味おれは持ってるんだなと馬鹿なことを考える。
そして、ゴブリンの耳がピクリと動き、顔をこちらへと向けておれを視線で捉える。
どうやらあちらさんにもしっかりと聞こえてしまったようだ。
口元から涎を垂らしながら走って向かってくるゴブリンを目にしながら、冷静にどうしようかと考えるおれであった。
◇◇ 第三話 おれ、決意する。
ゴブリンと思われる存在に襲われてから数分が経つ。
こうして物思いに耽っているということは幸いにも死んでいないということだ。
剣道において、技を繰り出すときには先の先を読むことが肝心だ。
相手の足の運びと目線を読んでいけば自ずと次の動きを読むことができ、また面を打たせたい場合には竹刀を数センチ下げたり、籠手を打たせたい場合には中心を取るためせめぎ合う竹刀を気持ち相手側に押し込む。
そうすることで相手の行動をある程度誘導することができる。
とはいえそれは技術と身体能力が伴って初めてできること。
十年以上続けているために無駄に技術だけは身についているが、身体能力は追い付かなかった。
特に足の運び。
すり足をしつつ細かに動かし続けるのはなかなかに骨の折れることだ。
しかし、もし身体能力が追い付けば、どうなるか。
おれは今、自分の体ではない体を持ち、それは驚異的な身体能力と不可思議な察知能力を有している。
これゆえにおれは殺意をむき出しに、こん棒を振り回し噛みつこうとしてくるゴブリン相手に、まるでダンスを踊るが如くひょいひょいと軽いステップで翻弄することができている。
正直自分でも驚いている。
自分はこんなにもできるやつだったのか、と。
もちろんこの体によって能力を補正されたこともあるだろうが、技術面においては完全におれが培ってきたもの。
命を奪いにきているものを目の前にしながら思わず笑みがこぼれてしまう。
傍から見ればおれは狂人に映ってしまうだろう。
だが、そんなことはどうでもいい。
おれは嬉しいのだ。
自分の半生を注ぎ込んでも勝率が低く、勝つことへの渇望を忘れてしまっていた。
辛い練習から逃げ、あの屈辱にも似た敗北感を甘んじて受け入れていた。
自分には才能がないのだと、腐ってしまっていた。
だが、それでも続けてきたことによってそれが報われたのだ。
継続は力なり。
まさにこの言葉の通りだ。
親に無理やりやらされながらもずっと続けてきた甲斐があったというものだ。
剣道をおざなりにし勉強面へと逃げていたが、今なら少しだけ胸を張って親に顔向けできる気がする。
「そうか、親か」
ここでふと思い出す。
この状況を受け入れていたが、自分はどうなってしまったのだろうか。
自分がいなくなってしまって両親や祖父母、親族一同心配しているに違いない。
もともと人付き合いが苦手だとはいえ、親戚は親戚だ。
おれ自身も彼らに対する愛情はある。
もしこのまま帰れないかもと考えると少し悲しい。
ただ何よりも湧いてくるのは申し訳なさだ。
親孝行できたことといえばそれなりの大学に入ったことくらい。
それもおれがいなくなってしまったことで帳消しだ。
まあ、ゴブリンを前にしながら考えることでもないか。
もしそうならばそうだと受け入れるしかない、どうしようもないのだから。
そして、おれはどうするか。
この相手を翻弄する気分は快感にも似たものがある。
努力をしている人々はこういった感情を得んがためにひたすらに努力し続けているのだろう。
そしておれは知った、知ってしまったのだ。
この感情を、勝つということを。
ならば、これからも勝ち続けるために、そして勝つために戦うしかない。
あの敗北感を、屈辱を二度と味わわないために。
ゴブリンの渾身のスイングを軽く避けながらそう決意するおれであった。
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