欲情と優しさは紙一重
「小津君――。昨日はお疲れさん」
俺の事を小津君と略して呼ぶのは、バイトの上司にあたる小森加奈子。
「あ、小森さんもお疲れ様でした――」
俺は条件反射で軽く会釈する。
見た感じは俺より年上の女性。
俺がこのバイトを始める以前から勤めていた古参の人で、店長代理人だ。
大人でスラッとした小綺麗な顔立ちに反して、少し毛先の痛んだ茶髪を無造作に伸ばす大雑把な彼女である。
この青と白のストライプの制服に着替える前は大抵、灰色の地味なジャージ姿で来ているところを見かけるものだ。
「……小津君がこの仕事を始めて四年になるのね。――どおりでクレーム対処が上手いわけよ」
「いえ、小森さんに比べれば俺なんて……」
小森さんは昨日にあったクレーム客問題について話している。
話せば少し長いが、購入した商品に異物が混入していたという事件だ。
異物は裁縫などによく使う細く小さな針。
商品も開封済みで何とも言えない状況だった。
だが、俺は怒り狂う客に対応しながらも袋に開けられた不自然な小さな穴を見つけた。
その時点で俺はこちらに問題はないと判断し、小森さんと近隣の警察へ連絡を取った。
――その後、小森さんと駆けつけた警察と共に、商品購入時間や防犯カメラを細かくチェックした結果、その異物がクレーム客が行為的に入れた物であるという証拠が映っていて、呆気なくお縄となった。
それを小森さんは俺のお陰だと言う。
――別に、たまたま俺が穴を見つけただけで、後の面倒なところは全部小森さんが対応したのだ。
だから別に大したことはしていない。
「そんなに低まることはないって。――言われたことしか出来ない奴らに比べたら大した判断だったよ」
「――あ、ありがとうございます……」
力強く叩かれた背中が少し痛む。
細い身なりに反して、元柔道三段の腕の立つ人。
今は足を洗ってコンビニの店長ということらしいのだが、その片鱗はまだ残っている。
「とりあえず、そういうことで少し時給を上げておいたから――」
「まじすかっ!」
時給という言葉に固着している俺は思わずそう叫ぶ。
少しでも上がってくれれば嬉しい物なのだ。
そんな俺に小森さんはしたり顔をするとこう言った。
「――小津君が連れて来たあの子の話。聞かせてもらってもいいかな?」
商品がズラリと並ぶ棚の向こう。
雑誌などが置かれているスペースに、あの少女が目を凝らして立っている。
店内は白く狭い。
白くて細身の少女はまるで保護色の様に同化していた。
――正直、ここに連れてくるのには迷った。
ただ、バイトの時間も押していて、一旦家に帰る時間なんて無かったのだ。
自転車も都内で二人乗りは厳禁――。
ここまで数キロあったのだが、押して歩いたのだ。
その俺が連れてきた少女を小森さんは目で指し、興味深そうに尋ねたのだ。
そう来たか――。
まぁ、キスしたこととかを話さなければ問題はなさそうだ。
髪が白くて目が金色なのは――外国人と結婚した親戚から産まれたハーフとでも言っておこう。
「――偶然、親戚の子と出会ったんだ。両親はここにいないみたいで、放っておくわけにはいかなくて――」
ここまで話を作っておけば問題はないだろうと、でっち上げの設定を語る。
「それは難しい問題だね……。家族の問題に口を出すつもりはないのだけれど、親戚に連絡はつけられないのかい?」
「――俺、彼女の両親とは仲良くなくて連絡先とかは……」
「そう……」
レジで客の対応をしながら、出来るだけスマートに違和感なく答える。
少女の頭が非常識なのはどう説明しようか――。
夢事を語っていても許される歳ではないし、あれを暴露されれば小森さんの気を引かせてしまう。
ゲームが好きで変な日本語を覚えてしまったとでも言おうか――。
小森さんが少女に少しでも興味を持ってしまえば、俺と少女が親戚でもなんでもないのがバレ、とても気まずくなる。
――犯罪を犯したことに自首をしろ。
なんて恐い顔をしながら言うに違いない。
「……今晩は家にでも泊めてあげるの?」
「いえ――流石に年頃の子なんで今日はホテルを予約してあげました」
これから一緒に住みます――。
そんなことを言えば毎回、少女の様子を聞かれそうで怖かった。
「へぇ、小津君は優しいのね。――そんなんじゃ折角上げた時給もチャラね」
「本当ですよもう……」
優しいなんてあるか――。
本当に優しい人間なら少女を警察に突き出すべきだ。
なのに、俺の興味本位でこの少女は同居することになったのだ。
――もし、少女が本当に女神であっても、どうせ異世界に戻る方法なんてこの世にはない。
時空の女神とやらの連絡が取れたら、それはそれで帰ってもらえて万々歳だ。
――いや、時空の女神との連絡が取れたら俺も勇者として異世界に旅立つのだろうか。
魔法や魔物の存在するゲームの様な世界へ――。
とてもロマンチックで――スリリングで――毎日が冒険……。
ただ、コンビニのアルバイトを繰り返して平凡な生活を送っている俺とは正反対の魅力的な世界。
最初は怖いかもしれない――。
けど、俺は勇者だ。
平民よりも優れた能力がきっとあるはずだ。
すぐにでも強くなって――異世界を悪から救って――美しい姫を嫁に貰って――。
美しい姫も捨て難いが、あの女神が全を持って褒美をくれても良いかもしれない。
唇以外の、まだ俺の知らない快楽をたんまり堪能できるまで……。
いかん――。
仕事中に悶々とした事を考えてはいけない。
客は接客する俺の顔を見ているのだ。
鼻の下を伸ばしてニヤニヤしている場合ではない。
――ただ、この距離からでも確認できる少女の体の凹凸。
とても滑らかで柔らかそうで……。
どこを触れば気持ちよくて――どこを触ってあげれば感じてくれるだろうか――。
やはり、股の方とか胸だろうか。
いや――案外耳とかお尻とかかもしれない。
あの時のキスから、俺の体はそういった興味を少女に持ち始めていた。
――よくないのは分かっている。
まだ出会ったばかりで、どこの娘かも分からない奴だ。
下手に行動すれば回収できない問題を招きかねない。
――それだけは、避けないと……。
「――小津君。手が止まってるぞ」
「あ――すみません!」
俺としたことが、暖めるつもりの弁当を手に持ったままボーッとしていた。
そんな俺を「飯、しっかり食べてるか?」と心配してくれる小森さん。
なんだか申し訳なくて――恥ずかしくて――。
「大変お待たせしました」と、温め終わった商品を客に提供する俺。
そんな俺に客は、表情を曇らせたまま釣り銭と商品を受け取る。
なにやってんだ――。
客観的に見る己が実に情けない。
これは寺にでもいって邪念を取ってもらうに限る。
まぁ、行ったことなんてないが――。
「……今日は早く上がったらどうだ?」
「え――」
棚の奥にある商品を前出しする俺に、小森さんはそう言う。
普段は鬼の様にこき使うのだが、珍しく情けをくれた。
「昨晩は遅かったし、疲れが見えるわよ。今日は客足も少ないし――それに、あの子の面倒もあるでしょ?」
「そう――ですね……」
俺がふらっと連れてきた少女に小森さんは気をかけてくれる。
本当はたまたま出会った知らない少女で、ディープキスまでして、なんか放っておけなくなりました――。
なんて言えたものではない。
かと言って――。
本当はあの子は異世界の女神で、俺は選ばれた勇者なんですよ――。
なんてもっと言えたものではない。
言ったら最後、精神科に行くことを進められるだろう。
「じゃあ――お先に失礼しますね」
「あぁ、お疲れさま。――これ、期限今日までだし、あの子と食べな」
バイトを上がろうとした俺に、小森さんはそれなりの弁当を2つ渡してくれた。
豚肉生姜弁当――わりと人気な商品だ。
なんか泣けてくる――。
小森さんの優しさもだが、少女に欲情していた己の情けなさにも泣けてくるのだ。
「あ、ありがとうございます――」
「明日にはしっかり体調を治すように」と、小森さんの笑みの向こうに鬼の形相が伺え、俺は少し震える。
きっと明日は激務だ――。
そう覚悟しながら俺は更衣室で制服を脱ぎ、黒い粗末なシャツに草臥れたジーンズ姿になる。
そして、鏡に映る俺の姿――。
なんとも情けない疲れ切った顔で、冴えなく幸がなさそう。
我ながら酷い罵倒だが、自信と未来という希望は遠い昔に捨てた。
だから、これが普通の俺。
欲を言っても今が現実なのだ。
「――家に帰るぞ」
並べられた雑誌を手に取り、真剣に目を通す少女に俺は声をかけた。
気づけば窓ガラスの外はもう暗い。
店内は蛍光灯に照らされてとても明るいのだが――。
「――あ、はい」
少女は俺の存在に気付き、目を通していた雑誌の一面をサッと閉じて後ろへ隠す。
――何か見られたくない物でもあったのだろうか。
まぁ、それは俺にもあるし深くは追求しない。
俺は背を向け、少女が棚へこっそりと雑誌を戻す音を聞き届けると足を進める。
「――じゃあ、小森さん。お先に失礼します」
接客を続ける小森さんにそう言って、軽く会釈をする。
そんな俺に「あいよ」と言って手を振る小森さん。
後ろから付いてきていた少女も、俺に倣って軽く会釈していた。
こうして見るとまるで出来る我が子のよう。
子にしては少し大きいか――。
そんなことを考えながら、俺と少女はコンビニを後にした。
「……寒くないか?」
薄暗い夜を街灯や電光掲示板、車のヘッドライトが照らす夜の街外。
春とはいえ夜はまだ少し冷え込み、薄手の少女に俺は気を配る。
何か上着を――。
と言っても俺もシャツ一枚だ。
さすがに脱ぐわけにはいかない。
「だ、大丈夫です……!」
少女はそう言うが、大丈夫じゃないはず。
俺でも肌寒く感じるのだ。
風邪を引かれては困る。
ただ、身を冷やさない方法はあるものか――。
考えた矢先――。
俺が思いついた方法は一つ。
「ほら……寒ければくっ付けよ……」
自分の体をカイロ代わりに。
片手を広げ、冷え始めている少女の体を優しく寄せた。
「あ――じゃあ……お言葉に甘えて……」
少女は遠慮なく、その冷えた体を寄た。
互いに足を絡ませないように、俺たちはゆっくり慎重に歩く。
側から見れば、仲の良いカップルにでも見えただろうか。
それは少し恥ずかしくて、俺は少女の感触をあまり覚えてはいない。
けれど、少女を通して伝わっていた鼓動がとても速かったのを今でも俺は覚えている――。