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読み切り集  作者: ナハラ
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カーナビ

暖冬の、午後二時晴天下。上に緑色、下に黄色、右に緑色、左に橙色。裏がマグネットになっている高齢者マークを、和子(かずこ)はじっと見つめていた。

「今日からよろしくね、四つ葉さん」

マークを赤い車の前後に貼り、ドアを開けて、運転席に座る。黒い所がなくなり、随分白くなってしまった髪がバックミラーに映る。和子は、徐にハンドルを握って、深く息をついた。

「……行きましょう」

エンジンをかけ、アクセルをいつもより慎重に踏む。住宅街に住んでいるのだが、突き当たりの所なので、そのまま真っ直ぐに車を出せるのだ。

「そうだわ、忘れてた」

突き当たりから顔を出す前に、和子はブレーキを踏んだ。そして、左手でカーナビを操作する。目的地は、美味しいと噂のケーキ屋。もうすぐ高校生になる、孫娘の誕生日ケーキを買うため。その後、息子の家に行って、誕生パーティをするのだ。操作が終わると、カーナビは明るい女性の声でペラペラ喋り出す。

「目的地まで、およそ一キロメートルです。 四分くらい、かかります」

「あら、意外と近いのね」

和子は後ろを見た。孫娘が欲しがっている手編みのニット帽は、後部座席にちゃんとある。ブレーキから足を離し、アクセルを踏んだ。慣れた道も、今日はいつもより慎重に通った。

(あの人も、こんな気持ちだったのかしら)

ふと、今は亡き夫のことを思い出す。七十六で癌によりこの世を去った、最愛の人。口を大きく開けて笑う皺だらけの顔に思い馳せていると、カーナビが道を告げる。

「右です」

「はいはい」

和子は、目の前にある道路の様子を窺った。車の往来が激しい、ほぼ一本道の大通り。ガードレールがあり、歩行者が歩く道も車線と同じくらいの幅がある。歩行者用道路には、一定の距離に土があり、そこに小さな草木が生えている。もう秋でもないのに、草はところどころ赤い。

「慎重に、慎重に……」

夫は、前にこの場所で猫を轢きそうになったことがあった。和子はタイミングを見計らい、素早く、そっと右折する。何事もなく曲がれて、いつの間にか入っていた肩の力を抜いた。

「あら?」

和子は、右折してすぐに、道路の左端に青く塗装されたスペースを見つけた。ついこの間までなかったものだ。不思議に思いながら車を走らせていると、青く塗装されたスペースは途絶え、信号の手前に何か描かれている。しかし、運転している和子には何が描かれているのか判別ができない。信号が黄色に変わり、和子はブレーキを踏んだ。やがて信号は赤になる。

「ここの道路は前から危なかったから、信号があって助かるわ」

実は、信号の手前までの道路は緩やかな上り坂になっていて、向こうが見えづらいのだ。オマケに、十字路になっている。少しして、左側から自転車が飛び出して左折する。何気なく見ていると、なんとその自転車は、車道の路肩を走り出したのだ。

「まあっ!」

自転車に乗っているのは若い男性だった。しかし周りは男性を気にすることもなく、普段通りに通行している。やがて青に変わり、和子はアクセルを踏んだ。案の定、自転車に追いつき、和子は黄色い中央線を越えない程度に右に寄って、距離を取り、自転車を抜く。和子は、恐怖に震えながら、そういえばと思い出した。

「自転車は車両だからって、車道を走るようになったんだったわ」

先程の青い道路は、自転車専用の道路だったのだ。そうとわかると急にあの青い道路が恋しくなった。路肩を走られては、ぶつかりはしないかとひやひやして仕方ない。

「早くこっちも青く塗ってちょうだいな」

その後も、ちらちらとバックミラーやサイドミラーを見て、後ろから来るものはないかと気をつけながら、一本道を進む。やがて、カーナビが告げた。

「この先、踏切です。 ご注意下さい」

和子は停止線で止まった。信号があって、赤だったからだ。しかし、目の前に踏切はなく、信号の上に架けられたレールを電車が通るのみ。このカーナビは、地図を更新できないカーナビだった。ないものに注意しろと言われ、和子は考える。

「買い変えようかしら。 このカーナビ、随分古いものね」

この車は、自分と一緒でドライブ好きだった夫と、店に行って買ったものだった。お前はよく道に迷うからとからかわれながらも、普段ケチな夫がここぞとばかりに大金をはたいいた、とても使いやすい車だった。まだ髪も白くない頃で、カーナビは更新できないのが当たり前だった。

「あっ」

突然短く大きなクラクションが鳴らされ、和子は現実に引き戻される。信号を見ると青になっていて、和子は慌ててアクセルを踏んだ。信号と入れ替えに、和子の顔が赤くなった。

(すみません、すみません……)

道路は相変わらず一本道だが、数メートルごとに信号があり、鬱陶しい。クラクションを鳴らした後ろの車から逃げるようにスピードをあげ、黄色信号でもアクセルから足を離さなかった。次の信号で赤が見え、和子はようやくブレーキを踏む。

「おちつけ、おちつくの」

和子は深呼吸して、口に出して、ゆっくり繰り返して、青に備えた。

「慎重に……慎重に……」

ハンドルを持つ手が震えて、止まらない。横断歩道の信号が赤になった時、和子は目の前を睨みつけた。

「女ドライバーとして、しっかりするのよ和子!」

ぱっと目の前の信号が青になり、アクセルを踏んだ。鬱陶しい信号地帯を過ぎると、右側に警察署が見えてくる。悪いことは生まれてこのかたした覚えはないが、先程の危険運転を省みて、思わず苦笑いになってしまった。

「これからは注意します」

暫く、何事もない運転が続いた。安全運転を心がけ、信号のない横断歩道に差し掛かると、血眼になって人がいるかどうか探した。左に消防車や救急車の車庫が見えたが、発進する様子は微塵もない。夫が急に倒れ、救急車に運ばれていく時のことを思い出したが、浸ることなく、ハンドルを強く握って夫を頭の外へ追いやった。

「まもなく、目的地です。 運転、お疲れ様でした」

何事もないことを決めつけているカーナビの、軽快な声が聞こえた。すると、左の方に、ケーキ屋が見える。だが、ガードレールのせいで、簡単には駐車スペースに入れない。停止線で一旦止まり、左ウィンカーを出して曲がる。そのあとすぐに、駐車スペースへ前向きに駐車した。

「ふうっ!」

ドライブからパーキングにして、ブレーキから足を放し、電源をオフにして、背もたれに体を預ける。しばし心を空っぽにした後、和子は車を降りた。忘れていたシルバーマークが目に入り、和子は車の後ろに回った。しっかり車にくっついている。

「シルバーマークもお疲れ様」

和子は、車にカギをかけ、車のドアが開かないか確認してから、ケーキ屋に入った。カワムラという名前だった。買ったケーキはとても美味しく、孫娘の笑顔も輝いていた。

「私ね、カーナビを買い換えようと思うの」

ケーキを食べている時に、突然、和子は話を切り出した。これには、息子も、息子の妻も驚いてしまった。

「おじいちゃんとの思い出じゃないの?」

孫娘の質問に、和子はええ、と微笑んだ。

「けど、いつまでも古くてはいけないわ。 新しくないと、色々困るのよ」

言葉の意味がわからず、孫娘は父の顔を見つめる。しかし、息子も肩を竦め、母を見た。しかし、一同の視線を意にも介さず、もう少しそちらで待っていて下さいな、と、和子は夫に想い馳せて、暫く戻らなかった。

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