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DAWN  作者: あかざ
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吸血鬼もどきケビン

何かが追ってくる。迫ってくる自分以外の足音に女は自然と足を速めた。見知っている筈の道に恐怖し、一刻も早く安心感を得たいと心が求めている。次の角を曲がれば人通りの多い場所に出られる。もう少しでこの恐怖から解放される。角を曲がろうとした時だった。首筋に感じた熱さに女は仰け反った。押し当てられた鋭いモノが女から体中の血液を奪っていく。女よりも大きな手の中に断末魔の悲鳴は消えた。何も映さなくなった瞳の先で満月が白く輝いていた。

■□■□■□

ケビンの耳に鐘の音が届いた。彼がかつて住んでいた部屋の三十倍はあるかという書庫室の一角で、黒髪の少年ケビンは手にしていた厚い本を二、三冊ほど落としかけた。慌ててそれらの本を元の場所に押し込むと、ケビンは書庫室から駆け出した。向かうべき場所はただ一つ。ケビンに言わせれば、無駄の二文字しか思い浮かばない豪華な邸宅。赤絨毯の上をケビンは遠慮なく走る。途中、数日前までは見かけなかった壷や絵画を見つけてケビンは舌打ちした。

(そんなに金があり余っているなら、オレに恵んでくれよ!あんの金持ちキザキザヤロー!)

三階建ての邸の中でただ一つだけ銀の扉の部屋がある。ケビンはそこを目指して走っていた。廊下を右に曲がり、目的の扉を視界に捉えるとケビンは走る速度を上げた。そのまま銀の扉へと突進し、容赦なく扉を開け放った。

「…遅いよ、ケビン君」

「フニャア」

ケビンの顔を目がけて飛んで来た、奇声を上げたこの邸に住まう猫をケビンはキャッチする。そして、猫を邸の主人の元へと投げ返すが、小憎らしい事に空中で回転した猫は絨毯の上に降り立った。

「…っ、アンタなぁ、ちゃんと躾けとけよっ」

灰色の毛並みの猫を指差し、ケビンは憤った。これが初めての事ではない。優雅に長椅子に腰掛けている邸の主人は、無言でケビンに空のティーカップを差し出した。白い花柄のそれを見たケビンの眉間に深い皺が寄る。

「アンタ、まさかお茶のおかわりとか言うんじゃないだろうな?」

「おや、それ以外に何の用があると言うの?ケビン君。さっさと淹れて来てよ」

「他の奴に頼めよっ、オレはアンタに頼まれた書庫室の整理をやってたんだよ」

邸の主人、クリストファー・J・クローナは自慢の金髪をかき上げた。愛称のクリスで呼ばれる彼は、白く長い指でクルクルとカップを回し始める。とても豪華な邸宅の主人らしくない彼の行動を下町生まれのケビンがやめさせた。絨毯の上で猫のエレナが欠伸をした。ケビンとそう年齢の変わらないように見えるクリスは大仰に肩を竦めた。

「それを頼んだのは一時間も前だったような気がするんだけど。君、一体いつまでやっている気?」

「書庫室の広さがどれくらいあると思ってんだっ、この馬鹿貴族!だったら、他の奴にやらせろよっ」

「それがねぇ、皆はいないんだよね」

クリスの言葉にケビンは自分の耳を疑った。この邸に居候、いや小間使い代わりに住み始めてからケビンが失っていったのは、常識だった。そして、培われたのは精神力だ。ついに、耳までおかしくなったかとケビンは混乱する。

「いないって、いないってどういうことだよっ」

ケビンは思わずクリスの胸倉を掴んだ。ケビンには見当もつかない値がつくであろうスーツに皺が寄る。ケビンの足元でエレナが絨毯の上に寝そべった。

「そのままよ。皆、休暇なの。だから誰もいない」

少女の声で話す猫のエレナ。ケビンが驚いたのは最初の内だけだった。この邸の奇怪さにケビンは慣れてしまったのである。この邸はこの周辺一体で幽霊屋敷と呼ばれている。実際に幽霊が住んでいるわけではない。幽霊に順ずる、ケビンに言わせれば幽霊よりもタチの悪いモノが住む場所なのである。

「休暇って、ついに使用人全員があんたに愛想を尽かしたのか?」

首が絞めあがっていてもクリスは顔色一つ変えず、苦しそうにもしていない。ケビンにはそれが腹立たしかった。

「僕が捨てられる訳がないじゃないか。酷い言い様だね、ケビン君」

やれやれ、と肩を竦めるクリスを解放し、ケビンはため息をついた。今現在邸にいるのはケビンといけ好かない邸の主人と寝そべる猫だけである。使用人がいるにも関わらずクリスは何かにつけてケビンを扱き使う。使用人が誰も残っていない状況で、ケビンはこれからの生活を想像して青くなった。いつこのいけ好かない主人の元に彼らが戻ってくるかケビンにはわからない。それまでケビンにはいびられ続ける生活に耐え抜く自信はなかった。

「やっぱり、嫌だ。もう嫌だ。こんな生活。居候なんかじゃないだろう。従者ならまだいい。奴隷じゃないか、オレ」

「もしもしケビン君?」

「出て行く。実家に帰らせてもらいます」

決意を胸に抱いたケビンは一歩進もうとしたところで派手に転んだ。売ればさぞ高値で取り引き出来そうな絨毯に顔をしたたかに打ってしまった。赤くなっているであろう鼻を押さえながら、ケビンは身を起こした。

「そんな目で僕を見ないでよ。君が無様に絨毯とキスをする羽目になったのは、僕のせいじゃないんだからさ」

そんな事は嫌味たらしく言われなくてもケビンにはわかっている。転ぶ羽目になった原因は、足に巻きついている小憎らしいメス猫の一部分だったのだから。ケビンは乱暴にしっぽを掴み、エレナを宙吊りにした。彼女はその状態を嫌がり、解放されようと精一杯もがく。ケビンは手に引っ掻き傷をつくりながらも彼女に応戦した。一人寂しくクリスは一人と一匹に冷たい視線を送る。恨みがましいクリスの視線に気付かず、一人と一匹の戦いは続く。

「…っ、この馬鹿猫!」

「馬鹿に馬鹿って言われたくないわ!」

ケビンが手を振り上げればエレナは牙と爪で威嚇する。何度目かの攻防の末にエレナの爪がケビンの頬を掠めようとした時、爪よりも早く何かが頬を掠った。ちりちりと頬が熱い。飛んできた物体の進行先の壁にスプーンが突き刺さっていた。ありえないほど深く刺さっているスプーンを見て、ケビンの傷つかなかった側の頬がひくひくと震える。

「危ないじゃないか!スプーンは投げるものじゃないだろっ」

「フォークやナイフじゃなくてよかったわね」

逆さにされたままのエレナが楽しそうに笑ってケビンの怒りが増長する。

「この馬鹿猫!その毛を剃って売っぱら…うわわっ」

罵倒を最後まで言い終わる前に飛んできた角砂糖に驚いて、ケビンはエレナを掴んでいた手を放した。エレナが着地するのと角砂糖がスプーンの横に突き刺さるのは、ほぼ同時だった。スプーンよりも角砂糖よりも壁の方が硬い筈―。形を崩すことなく壁の一部となった角砂糖を見てケビンの背に冷たいものが走る。ゆっくりと振り返ると壮絶な笑みを浮かべるクリスと目が合った。

(顔は笑ってんのに目が笑ってない!)

声には出さずに悲鳴をあげるケビンには部屋を包む沈黙が痛かった。頬も痛むし、何だか胃も痛み出してきそうな気配だ。

「…ケビン君、出て行かないよね?出て行ってどうするの?帰る当てもないでしょ」

「……」

「ね?」

手に握られた角砂糖を見てケビンは勢いよく首を上下に動かした。ここで首を横に振ろうものなら間違いなく今度は自分の身体に角砂糖が埋まる。死因が角砂糖なんて笑いの種にしかならない。それに死んだ後のことも心配だ。死体にどんなイタズラをされるかわかったものではない。目の前の人物は平気な顔でとんでもないことを仕出かすタチの悪い生き物なのである。再度ケビンの頬を何かが掠めた。先ほどと同じ場所が痛みで熱い。目の前の人物の手から、つい先ほどまであったものが消えてなくなっている。後方で大きな音がした後に、金属が床に落ちる音と粉状のものが床に散らばる音がした。

「今さ、何か失礼な事考えなかった?」

細められた青い瞳を冷たく感じて、ケビンは首を横に振るしかない。勢いよく首を横に振る事で質問の答えを肯定してしまっている事にケビンは気付かない。

「そう?ならいいんだけどさ。お茶のおかわりをよろしく」

機嫌が直ったらしいクリスの笑顔に背を押され、ケビンは扉を力なく開けた。

「あ、お茶の後に本の整理を続行だからね。それからゴミ出しもよろしく」

開かれた時とは逆に扉は大きな音を立てて閉められた。ケビンのささやかな反発だった。

■□■□■

お茶を淹れ直し、クリスに押し付けられた用を全て終えた頃には陽が沈みかけていた。夕暮れ時の赤く染まった空の下をケビンは街に向かって歩く。夕暮れから夜にかけての時間はケビンにとって至福の時間だ。一日の内でいけすかないクリスを忘れていられる時間なのである。自然と早足になるケビンの足と高揚する心。人目がなければ今にもスキップでもしそうな勢いだった。邸から街へと続く下り道を残された時間を有効に使おうとケビンは急いだ。その道の中程で中年と見られる男性にぶつかってしまう。全身黒ずくめの男は季節外れの厚着で、ケビンの注意を引いた。謝罪の言葉を無視されてケビンは少なからず気分を害すが、男から漂ってきた異臭に眉を顰めた。どこかで嗅いだ事のある臭いだった。街へ入る際に顔馴染みとなっていた花売りの姿を視界に捉えると、ケビンは彼女に近寄った。男への疑念は彼女に笑いかけると綺麗に忘れ去られた。

「もうこんばんはかしら、ケビン?」

「ああ、そうだね。花、売り切れ?」

「残念ね」

彼女の言葉にケビンは落胆する。クリスの元で暮らすようになってから、毎日花を一輪だけ買うのが日課だった。毎日違う種類の花を彼女から買う。その花を押し花にして残す事でケビンは一日の経過を確認していた。別の花売りを探せば花を手に入れられるかもしれない。思い直したケビンは次の瞬間には明るい笑顔になり、彼女の傍を離れようとしたがケビンの腕を彼女が掴んだ。訝しげに彼女の顔を見ると彼女は困ったように笑っていた。

「冗談よ。あなたが来る事はわかっていんだから、ちゃんととってあるわよ」

「へ?」

間抜けな声をあげたケビンの鼻先に何種類かの花が押し付けられた。くすぐったさにくしゃみをしてしまいそうになるのを、ケビンは飲み込んだ。

「で?どれにする?」

「えーと…」

何種類かの花の中からケビンはオレンジ色のマリーゴールドを選び取った。花の代金を彼女の掌に置く。

「また明日も来るのよね?」

「当然!」

「だったら明日はもっと早い時間に来てよね」

帰り支度をしながら彼女はため息をついた。

「あ、ごめん。何か用でも?」

手早く帰り支度を終えた彼女は「知らないの?」とケビンを見上げた。彼女のツインテールが揺れた。

「昨夜この近くで殺人があったの。なんでも首筋に牙で噛まれたような跡があったらしいわ」

おいおい、それってまさか…!

彼女の恐怖に青ざめた顔色を、ケビンは内心で冷や汗をかきながら見守る。

「殺されたのは若い女の人で全身の血が無くなっていたって…」

「…へぇぇ」

「だから皆が犯人は吸血鬼だって…」

「ま、まさかそんなわけないよ!」

いっそ不自然なほどにケビンは否定してみせる。買った花を落としそうになりながらも何とか堪えた。訝しがる彼女にこれ以上の不信感を抱かせなくて、ケビンは別れの言葉を彼女に告げると足早に帰宅の途についた。

■□■□■

「それは僕への挑戦かな♪」

使用人の使う通用口ではなく堂々と正面から帰宅したケビンを出迎えたのは、邸の主人の思わず冷や汗を流したくなるような笑顔だった。ぎこちなくクリスを見たケビンだったが、はっきり言って怖い。普段なら私室か書庫室にいる彼をこの場所で見た事のなかったケビンは油断していた。何かと衝突する二人の仲裁をしてくれる人物は、今はいない。それにしても心が狭すぎる。ケビンは使用人ではない。例えそれ以下の扱いを彼に受けていようと一応居候だ。

「…何だよ。使用人用の通用口を使えって事かよ?」

小さく反論したケビンにクリスはわずかに目を見開いた。不満そうなケビンの表情を見て、クリスはそのまま無意識に零れた笑みをかみ殺す。

「ん~、君が使用人だったらね。僕が言ったのは別の事なんだけどな…まあ、いいや。君、わかっていないみたいだから」

「…はい?」

「いいからいいから。気にしない気にしない」

ケビンは納得がいかなかったが、クリスはおかしそうに笑うばかりで尋ねても答えてはくれそうにない。それ以上追求する気にもなれず、ケビンは彼の横を通り過ぎようとし、すれ違いさま彼に腕を掴まれた。力が込められているせいか腕が痛む。

「…何?」

「何か変わった事がなかった?」

「別にいつも通りだけど」

ケビンが毎日花を一輪だけ同じ花売りから購入している事はクリスも知っている。不審な男と出会った事はケビンの記憶からはなくなっていた。直接自分に関係のない事はすぐに忘れてしまうのがケビンだった。その事をケビンは後に悔いる事になるのだが…

「本当に?」

「何でだよ?いつも通りだよ。いつもと同じ道で街まで行って、同じ娘から昨日とは違う花を一輪買って来たんだよ」

「………よりにもよってマリーゴールドをね」

冷たい目でケビンの手の花を見ると彼は腕を放した。解放されたがケビンの腕は痛み続けた。腕を擦りながらケビンは窺うようにクリスを見つめた。

「何、怒ってんだよ?」

「別に。怒ってなんかいないよ」

そう言う彼は明らかに不機嫌でケビンは居心地が悪くなる。普段はふざけた態度しか見せないくせに、ふとした瞬間に彼は冷たい表情を見せる。その顔を見るのをケビンは嫌っていた。

「…何かあったら僕が何とかすればいいし。それが君を拾った僕の責任だから」

「はあ?」

訳のわからない事を言われて素っ頓狂な声をケビンは上げてしまう。彼はそれ以上何も言わず、ケビンを残して私室へと戻っていった。訳がわからない。ケビンは一人その場に残されて立ち尽くした。

「花言葉よ。その花の花言葉でクリスは機嫌を悪くしたの。それよりも前に少なからず機嫌を悪くする要因はあったけどね」

頭上からの声に見上げて見ると、階段の手すりの上にエレナが器用に寝そべっていた。一度欠伸をしてから、彼女は手すりを滑ってケビンの傍に降り立った。ケビンへと歩み寄ってくる内に、ゆっくりと確実に彼女の足元の影が伸びてゆく。増幅した影が大きく揺らめいた。次の瞬間、そこにいたのは灰色の猫ではなく黒いドレスを纏った少女だった。

「花言葉ぁ?」

猫のエレナが少女の姿になってもケビンは驚かなかった。この邸に滞在が決まった夜に彼女が変身する場面を見ていたのだ。そして、今日に至るまで彼女は気まぐれに変身した。いちいち驚いていてはケビンは身がもたない。彼女は切り揃えられた黒髪を揺らして頷いた。彼女は手に持っていた新聞と開封された手紙をケビンに投げつけるが、威力もスピードもなかったので容易に受け止める事ができた。

「まあ、あなたにはわかってないみたいだけど」

馬鹿にしたような笑みを浮かべたエレナに苛立ったが、ケビンはさっさと自室に戻る事にした。新聞と手紙をエレナにつき返して。

■□■□■

雨が降っていた。朝方から降り出した雨は、昼になると嵐のようになり街に降り注いだ。横殴りの雨の中、彼が街を歩いていたのはいつもの気まぐれだった。たまたま散歩をしたくなっただけ。彼の思考は常人からはかなりかけ離れた位置にあった。誰一人外出しようとはしない雨の中を彼は歩いていた。水溜りを避けても避けなくても同じ事で、彼の足元はぐっしょりと濡れている。彼は不意に足を止めた。目の前の何かが彼の足を止めたのだ。人だ。人が倒れている。いつからそこにいたのか、正確にはわからない。こんな天気ではすぐに濡れ鼠になってしまうのだから。

「…何、しているの?」

彼は目の前の物体に話しかけた。返事はない。死んでいるのだろうか?いや、違う。彼には生きる者の鼓動が聞こえていた。返事をするまでの余力がないのだろう。目の前の物体、薄汚れた人間に彼は、ただ視線だけを送った。動かないものに彼は興味を抱かない。彼は通り過ぎようとし、一歩を踏み出した。そのときだった。彼の視覚には薄汚いものとして映っていたものが、笑った。ただ、笑ったのだ。彼は驚きで目を見開いた。雨がうるさいほどに降る日の事だった。

■□■□■

「…やな夢見た」

ケビンはベッドの上でため息をついた。彼と初めて逢った時の事を夢に見た。夢に見るのは一度や二度の事ではない。この邸に住まうようになってから、数え切れないほど彼との最悪の出逢いを夢に見てきた。あのとき自分は一度死んだ。ささいな理由だったと思う。餓死だったかもしれない。つまらない正義の為に殴られ、打ち所が悪かったのかもしれない。とにかく自分が死んだ理由など覚えていなかった。目の前が完全に暗くなり、次に目を開けた瞬間、ケビンの虚ろな視界に映ったのは金色だった。身体は痛いほどに硬直していて、首筋のわずかな痛みがケビンの意識を現実に留めていた。

『おはよう。気分はどうだい?』

金色は誰かの髪だった。視力が戻ってくると見た事のない天井がケビンの視界に入った。逢った事もない人物がケビンの顔を覗きこんでいた。疑問がそのままケビンの口から吐き出される。

『…あん…た、誰?』

掠れた声がケビンの喉から出た。その声が今の状態の限界らしい。ケビンの身体が痛んだ。

『人の名前を聞く前に自分から名乗ったらどう?』

『…ケ、ビン』

彼はケビンが名乗るとベッド脇の椅子に座り、足を組んだ。彼の金髪が微かに揺れた。彼は身なりもよく、良家の子息然としていて、この部屋自体もかなり金がかけられていた。ケビンは彼の青い瞳を仰ぎ見た。

『よろしく、ケビン君。僕の名前はクリストファー・J・クローナ。取り敢えず君に言っておきたい事があるんだけど。…いいかな?』

彼の言葉にケビンはゆっくりと頷いた。ぎこちない動作になってしまうのは仕方のない事だった。頷いた時にケビンの身体がまた痛んだ。先程よりも強い痛みだった。

『じゃあ言うよ。君は死んだ。死んだけど甦った。甦生させたんだ、僕がね』

艶然と微笑む彼をケビンは見上げる事しかできなかった。そんなケビンを彼もまた見下ろした。

『あのまま放って置いてもよかったんだけど。…まあ、気まぐれかな?で、生まれは下町。身寄りはなし。合ってるよね?君が死んでから結構経つけど捜索願いやら何やらは出されてないし』

ケビンはただ彼を見て、彼の言葉だけを聞いていた。彼の言葉がすべて真実でも肯定する気力がなかった。

『もう一つ、君はもう人間じゃない』

短い沈黙の後、彼は面白そうに笑って言った。ケビンは働かない頭で信じがたい彼の言葉を理解しようとした。

『人間もどきで化け物もどきだ』

彼が白い歯を覗かせて笑った。鋭く尖った二本の牙が前歯にある。彼の青い瞳が血のように赤く輝いて見えたのは、ケビンの見間違いではなかった。彼は吸血鬼だった。一度死に、彼によって甦生されたケビンは中途半端な存在だ。もう人間ではない。しかし、彼と同じ存在でもない。

「普通に甦生させろっ、吸血野郎!」

ベッドから降りる際にケビンは彼に向かって毒づいた。それは彼がいないからできる事だった。自室に引きこもった後、ケビンは仮眠を取った。この邸の夕食の時間は遅い。真夜中に近い時間帯なのである。それでケビンは外出後のわずかな時間を仮眠にあてている。でなければ睡眠不足になってしまう。当に睡眠不足かもしれなかった。中途半端な存在にされてしまった。かと言って特質した肉体になったわけでもない。生前と同様の肉体疲労、精神疲労。それを与えてくるのが彼一人となっただけで、そう日常生活に変化はない。ただ不定期に彼の血が少なからず必要になった。一日置きだった時は突然の目眩にその場に倒れ、痙攣した後、指一本動かす事ができなくなった。彼が気付かず、彼の指から滴り落ちた一滴の血がわずかに開いたケビンの唇に入らなかったら、もう一度死んでいた。今度こそ確実に。一度止まった心臓が人間ではない彼の血の力によって動く。もう一度死んだらどうなるのかケビンにはわからない。死体は残るのだろうか?それとも灰となって消えてしまうのだろうか?彼は知っているのだろうか?ケビンが死んだ時、どうなるのかを。日光を浴びても灰にはならない。ニンニクも十字架も平気だ(第一そんなものは邸にはない)。彼には苦手な事がケビンには全く問題にはならない。そのかわりに彼にはできる事がケビンにはできない。例えば彼は変身できる。おとぎ話のように狼やこうもりには変身しないが。変身できるにはできるが、彼は狼やこうもりには変身しないのだ。彼の独特の感性が許さないらしい(彼の感性を理解できる人物がいたら、ケビンは会ってみたいと思っただろう)。この事を聞いた時ケビンはただ呆れたものだった。彼が変身するのは鷹や猫などだ。どこが違うのかケビンにはわからない。馬鹿正直に彼に言ったら、ため息をつかれて呆れられた。ケビンは彼の就寝前の夕食の(と言っても赤ワインだけだが)、準備をするために部屋を出た。邸内は薄暗かった。いつもなら使用人の何人かが起きているのでもっと明るい。邸内を照らす明かりは玄関ホールと彼の寝室へと続く廊下に点在する照明くらいだったので、ケビンはまず自室にあった手持ちのランプを持って玄関ホールへと向かった。そのまま階段を上り、二階の彼の私室へと足を向ける。この時間ならばまだ寝室ではなく、私室にいる筈だ。案の定彼はそこにいた。読書中の彼に近寄ると彼は何も言わず、ケビンに錆びた鍵を差し出した。無言でそれを受け取るとケビンは邸から出て、庭にあるワインの貯蔵庫へと向かった。途中から後ろをついて歩く猫姿のエレナを放って置き、ケビンは貯蔵庫の鍵を鍵穴に挿した。鍵が錆びていてケビンは開けるのに苦労した。貯蔵庫の中は完全な闇でケビンの背筋が冷たくなる。手持ちのランプだけでは頼りなかった。貯蔵庫内の柱に取り付けられたロウソクに火を点けると、ぼんやりとワイン樽やワインの瓶が見えた。明かりを点けても貯蔵庫内は不気味だ。真っ暗闇の方がましだったかもしれない。足を動かせないでいるケビンにエレナは嘲笑を浴びせた。エレナを踏みつけようとしたケビンの片足は、あっさりと彼女にかわされてしまう。いつまでもここから貯蔵庫内を見ていても仕方がない。ケビンは意を決して一歩を踏み出した。

■□■□■

読みかけの本のページをめくろうとした彼は誤って人差し指を傷つけてしまった。一本の赤い筋が走っている指の腹を彼が舐めると、次の瞬間には傷口は塞がっていた。ゆっくりと傷口が消えてゆく様を彼は眺めていた。裂かれた皮膚同士が合わさると、数秒前までの元の皮膚の状態に戻っていた。自分の中に赤い血が流れている事が彼にはひどく滑稽だった。人間ではない自分にふさわしい血の色は赤ではない気がするのだ。ケビンに「あんたの血の色は緑かっ」と叫ばれた事があった。すぐさま彼は目が笑っていない笑顔を向け、暴言を吐いたケビンの顔色を青にした。緑でなくてもいい。ただ赤である事がひどくおかしかった。いっそ毒々しい色だったらよかったのに。興味を失くした本を彼が閉じかけたときだった。彼は何かを感じた。異質な気配が近付いて来る。まっすぐに、迷いを一切感じさせない何かが彼へと向かってくる。違う。彼ではない。狙いは彼ではなく…

「…やれやれ、仕方ないなあ。まあ退屈しないですんでいるけどね」

彼はため息をついたが、楽しそうな笑みを浮かべていた。本を閉じ、テーブルに無造作に置くと彼は部屋を出た。

■□■□■

暗闇に恐怖しながらもケビンは地下へと続く階段を下りていた。手近のワインを取ろうとしたらエレナに手の甲を引っ掻かれ、地下のワインを取りに行くよう促された。傷口からわずかに血が浮かんだ。ケビンに反論は許されなかった。適当なワインでは彼は納得しない。ケビンは渋々貯蔵庫の地下へとワインを取りに向かうしかなかった。貯蔵庫の地下はさらに不気味でケビンを震え上がらせた。エレナがいるおかげで少しは暗闇に対する恐怖が和らいでいたが、怖いものは怖い。びくつきながらもケビンは地下へと辿り着き、エレナに選んでもらったワインを引っ掴むと急ぎ足で一階に戻った。一階の先ほど点けたロウソクの火を吹き消すと、ケビンは逃げるように貯蔵庫を出た。ゆっくりとした足取りで貯蔵庫を出るエレナを恨めしそうに見てからケビンは鍵をかけた。錆びた鍵のおかげで、ケビンは開けるとき同様に閉めるのにも苦労した。

(後で文句言ってやろう)

錆びた鍵をポケットに放り込み、地面に置いた手持ち用のランプを掴むとケビンは邸へと足を向けた。ふと邸を見上げると二階の窓に人影が見えた。クリスだ。急いでいるらしい彼の姿は窓からすぐに見えなくなった。彼の様子を不審に思いながらもケビンは歩みを止めなかった。早く邸に戻りたかったのだ。誰にも言えない事だが、ケビンは夜の闇が怖かったのである。自然と早足になりながら、ケビンは足元を見た。誤って転んでは、せっかくのワインが割れてしまう。早足で歩きながらも足元に注意を向ける事をケビンは怠らなかった。玄関が視界の端に映った。もうすぐだ。もうすぐで邸だ。走り出そうとしたケビンの足が止まった。後方でエレナの甲高い鳴き声が夜の闇に響いたのだ。悲鳴に近く、威嚇しているようにも聞こえる彼女の声にケビンは何事かと後方を振り返った。ケビンの目に月光と黒い影が映り、ワインの瓶が割れる音が耳に届いた。何がどうなったのかわからなかった。ケビンは地面に仰向けに倒れていた。黒い影がケビンの腹の上で切れ切れの呼吸を繰り返している。ケビンよりも大きい黒い何かは人のように見えた。両肩を抑えつけているのは人間の手だった。感触から指は五本あるとケビンは理解できた。地面に落としたランプと月光が黒い影を照らし、ケビンを襲った者の正体を暴いた。人間の男だ。ケビンには男に見覚えがあった。どこかで見た姿形。夕方、街へと向かう道でぶつかった黒ずくめの男だった。狂気を宿した両目がケビンを見下ろしている。荒い息を繰り返す口からは今にも唾液が滴り落ちそうだった。抑えつけられた両肩に男の指が食い込んで、ケビンは痛みに呻いた。

「…お…まえ…何故…生きて…る?」

ケビンの心臓が恐怖で激しく鼓動を繰り返している。鼓動の音が男の言葉をかき消してしまうほどだ。

(な、何?なんて言った…?)

自分の鼓動を静めようとするが、まるで自分の身体の一部分ではないかのように自由にする事ができない。静まるどころか激しく心臓は脈打つ。ケビンは髪がワインによって濡れていくのを感じた。動揺している思考の中でクリスの人を見下したような満面の笑みを思い出す。恐怖と怒りが交互にやってきてはケビンの思考を支配した。時折、恐怖よりもクリスに対する日頃の恨みが勝ってケビンは男を押し退けようと奮闘した。男はケビンよりも身体が大きく、抑えつける力も強い。どんなにケビンが腕に力を込めても男はびくともしなかった。ケビンの両肩を抑えつけていた片方の手が外された。その隙に何とか抜け出そうとケビンはもがく。ケビンの抵抗をものともせず、男の手がケビンの首を締め上げてきた。喉を圧迫されて、まともに呼吸などできたものではない。両手を使っても男の手は動かせそうになかった。

「…何故…息…している?何故、お前は生きている?……殺した…のに……オレが…」

男が気味の悪い笑みを顔中に広げた。男の顔色はとても血が通っているようには見えなかった。男の顔が白く闇に浮かんでいるように見える。ケビンは男の言葉に抵抗をやめた。何と言った?殺した?誰が?誰を…?目の前のこの男が、ケビンを。怒りが溢れてきた。理性が、恐怖がなくなり、目の前の怒りに思考と身体が支配される。何故?と問いたいのはケビンの方だった。記憶などない。自分が死んだ時の記憶などいらなかった。どうせ必要のないものだと切り捨てていた。それが今、ケビンの中から綺麗に消えていた。知りたい。何故?何故自分は殺された?何故死ななければならなかった?何故自分だったのか?死にたくなどなかったのに…!

「…怒ったか?…お前…あのとき邪魔をした。オレの獲物、逃がした。だからオレ怒った。だからお前、死んだ。オレが殺した」

男がもう一度気味の悪い笑みを浮かべた。大きく開いた口から鋭く尖った犬歯が覗いた。ケビンはぞっとした。クリスと似ていて非なるものだった。クリスの牙は白かった。だが目の前の男はどうだ。牙はクリスよりも大きく、黄ばんでいて異臭さえ漂っている。鉄臭く錆びついた匂いが微かにした。ケビンの背筋に冷たいものが走る。この匂いを嗅ぐのは二度目だった。夕方、この男とぶつかった時に微かにした異臭。血の匂いだ。ケビンは花売りの少女の言葉を思い出した。街で殺人があった。その遺体からは血が抜き取られていた。犯人は吸血鬼。この男だ。この男が街で殺人を犯し、ケビンを殺した犯人。思い出せ。ケビンは脳を掻き回したかった。それで記憶が戻るなら、と。目の前で男が嘲笑を繰り返している。

「…今度こそ…殺す。今度こそ」

男が強くケビンの喉を掴んだ。呼吸が止まる。心臓が、脳が、身体が酸素を求めている。鈍器で頭を殴られたような感覚に陥って、視界が狭まっていく。もう駄目なのか?今度こそ本当に死ぬのだろうか?ケビンは首筋に鋭い痛みを感じた。男の牙が押し当てられたのだ。どうせ殺すなら血を抜き取った方がいいと男は判断したのだろう。血を飲めば男の腹は満たされるのだから。血を吸われる奇妙な感覚に襲われながらケビンは何も見てはいない視線を、ただ夜空が広がっているであろう前方に向けた。そういえばエレナはどうしたのだろう?彼女なら自分を見捨てても良心は痛まないだろう。そもそも良心があるのかもわからない。もうどうでもいい。自分は死ぬのだから。もう駄目か、とケビンが瞳を閉じかけた時だった。男の悲鳴が響いた。首筋から顔を離していたが、相変わらずケビンを大地に抑えつけたままだった。男の唇の端から血が滴っていた。ケビンの血だ。汚れた口を拭おうともせず、男は荒い呼吸を繰り返してケビンを見下ろしている。男の瞳は驚愕に揺れていた。先程までの余裕はどこにいってしまったのか。もはや獲物を狩る獣ではなくなってしまったようだ。

「お…まえ…何?…人間、違う。でも…オレとも…違う…?何?お前、何?お前、誰の祝福受けた?…お前、誰の下僕?」

誰が下僕だ!ケビンは叫びたかったができなかった。男が喉を掴んだままだったからだ。喉を圧迫されて息ができない状態が続く。

「お前、誰の…?」

「僕の、だ」

クリスの声がした。その後に頭上で一度鈍い音が響き、その後さらに遠くで衝撃音が響いた。ケビンはゆっくりと身体を起こした。酷く喉が痛む。目の前でそれなりの大きさがある木が一本倒れていた。それは見事としか言えない倒れ方だった。ケビンが喉を擦りながら隣を見るとクリスが立っていた。その肩に猫のエレナが乗っている。どうやらクリスが男を蹴り飛ばし、木にぶつけたらしい。クリスの足が少しの間だったがケビンの真上にあったのだ。

「だぁから聞いたじゃないか。何かなかったかって。まったくもって馬鹿だね。馬鹿以外に形容しがたいね」

クリスがため息をついてケビンを見下ろした。その肩の上でエレナが彼に賛同し、二度三度と頷いた。

「…あれ、あんたの仲間?」

片方の手で喉を擦りながら、ケビンは前方の木を指差した。どこまで飛ばされていったのか、男の姿が見えない。だが、男が死んだとも逃げたとも思えなかった。まだ、いる。すぐ傍に。

「あんなのと一緒にしないでくれるかな。理性も誇りもなくしたできそこないと裏切りの塊なんかと」

クリスは二度目のため息をついた。ケビンはようやく喉を擦る手をとめたが、喉はまだ痛んでいた。

「…誇り?そんなものあるのかよ。化け物に」

「あのねぇ、もどきの君にはわからないのは当然だけど、僕らは人の噂ほどに化け物じゃないんだよ。殺すまで血を吸う事はないし、わざわざそれとわかるように牙の跡なんか残さない。それに血を吸われたら自分も化け物になる訳じゃない。実際は逆。吸われるんじゃなくて、因子を送り込まれて身体中の血液と同化するから、化け物にな…」

「ちょっと待て。俺の首筋にはなかなか消えない跡があったぞ。それに因子って」

「跡があった方がわかりやすいでしょ。吸血鬼に血を吸われて自分も仲間になったって。僕は吸ってないけどね。ちなみにその跡はあの男がつけたものでしょ。あの男の跡から因子を送り込むのは嫌だったけど、一応同族のつけたものだから、その跡を使った方が君を甦生させるのに都合がよかったからね。あ、因子を送り込むのは勿論口からだよ」

クリスは自分の唇に人差し指を当てた。クリスの視線はケビンに向けられていたが、エレナの視線は別の方向にあった。男が消えた森の方だ。

「僕ら一族…とは言っても皆、人間みたいに血の繋がりがあるわけじゃないけど、好き勝手に暮らしてるけど、戒律がある。人を欺かず、殺さずの戒律がね。皆それを守りながら静かに暮らしている。でも、時々ああいう馬鹿が出るんだよね。血を吸いたいという本能に従いまくりの馬鹿が。だから人間たちが恐れてある事ない事言い始めてさ。僕らも困ってるんだよね。いい加減にしてほしいよ。あんな奴の始末を僕がやらなきゃいけないなんて…」

「始末?あんたが?」

「そうだよ。同族としての尻拭いだよ。仕方なくね。…久々に仲間から手紙が来たと思ったら、馬鹿の始末だなんて…新聞で同族に馬鹿が出たと思ったら老いぼれどもから、その馬鹿の始末の依頼だよ。なんで僕が」

「クリス!」

「馬鹿の相手をしなくちゃならない」

エレナの叫びにクリスがすばやく身を翻らせた。ケビンの目の前を何かが目にも止まらぬ速さで駆け抜けた。通常の十倍はある鴉だった。その目が妖しく赤い色を宿している。一目でわかる。あの男だ。男が鴉に化けているのだ。

「び、びっくりした」

「邪魔、ケビン君」

そう言うなりクリスはケビンを突き飛ばした。ケビンはその場に尻餅をついた。足手まといというか、まったくの邪魔だという事はわかりきっていた事だったが、少なからずケビンは悲しかった。もどきでも人間ではないのなら彼らのような力があればいいと、今始めて思った。自分を殺したあの男を倒せるなら、と。

「そこで大人しくしてなよ、ケビン君」

鴉を見上げるクリスには余裕が窺えた。その瞳が紅く光ると、そこにはもう彼はいなかった。いたのは一羽の鷹。男に合わせたのか、いつもの五倍以上の大きさの鷹に変身している。通常の大きさでは男の相手をしきれないと判断したのだろう。鷹の肩と思われる部分からエレナが下りると鷹は鴉を目指して飛び立った。風を切る音がする。月光がなければ夜空を滑空する彼らの姿は見えなかっただろう。

「…なあ、祝福って何だ?」

すぐ傍で同じように夜空を見上げているエレナにケビンは疑問をぶつけた。エレナはじっと夜空を滑空している彼を、まるで恋人を見るように見つめている。彼らの関係は何だ?吸血鬼と人間に変身する猫。飼い主と飼い猫。それだけのようにも見て取れるし、それ以上にも見れる。彼らと共にある内に、常識ではありえない事がありえるのだという事がケビンにはわかった。あくまでもケビンの知る人間の常識では彼らも、彼らの世界の事も測りきる事などできはしないのだ。

「自分の因子を分け与えて仲間にする事を祝福と言うのよ」

エレナはケビンに一瞥もくれない。エレナの声は闇に冷たく消えた。

「因子?…化け物の遺伝子みたいなものか?」

エレナが視線をケビンに向けた。彼女の瞳に純粋な怒りが宿っている。ケビンは少なからずたじろいだ。転びかけたのをケビンは誤魔化した。

「な、何だよ?」

「クリスを…彼の事を化け物と呼ぶのはやめて。あんたなんか甦生させるべきじゃなかったのよ。何で?何で、クリスはあんたなんかを…」

エレナの言うとおりだ。彼は何故ケビンを助けるような真似をした?傲慢で慇懃無礼、他人の事などお構いなし。世界の中心は常に彼自身、気まぐれの塊で何を考えているか一パーセントも理解できない。彼の事を理解できないのはケビンだけではない。邸の使用人も(ケビンの推理では彼らもクリスやエレナと同じ世界の人間。でなければクリスに仕える事はできないと思っている)、誰よりもクリスに近い位置にいるエレナも彼を理解できていないのだろう。でなければ、エレナがこんなにも歯痒そうな表情をしているわけがない。彼は単純そうで難解だ。地上のケビンたちの心中など気にするような心をまったく持たないクリスは、今だ夜空を飛んでいる。何度も鴉と鷹の激しい攻防が空中で繰り返された。鴉の方が分が悪かった。分が悪いと判断した鴉は攻撃を避け、地上を目指して急降下した。鴉が目指す先にはケビンがいる。

「さっさと逃げて!」

エレナの忠告も役には立たなかった。大きな翼が風を切る音にケビンの耳が悲鳴をあげそうになる。ケビンの足は耳の痛みが引いたころには地には着いていなかった。段々とケビンは地上を離れていく。鴉の両足に掴まれ、空中に宙吊りにされた状態でケビンは周囲を見た。地上が遠い。夜の闇のせいで正確な距離はわからなかったが、月光のおかげで足元に広がる森が見える。空を飛んでみたいと思い、夢見た事もあった。しかしケビンはその夢を撤回する。空を飛びたいなんて二度と思うもんか!

「…ケビン君。さっさと逃げればいいのに」

「あんた鈍臭過ぎよ!」

空中と地上から呆れ返った雑言がケビンに投げかけられる。鷹がしゃべる姿を見るのはケビンには何だか新鮮だった。無茶を言うなとケビンは叫んだつもりだったが、空しくも叫びは空中に霧散した。彼らのようにケビンは身体的機能を特化されてはいない。認めるのは悔しいが、彼らの言うところの『凡骨』な肉体なのだ。高速で向かってきた巨大鴉から逃げられる筈がない。

「仕方ないなあ」

いかにも面倒な様子でクリスは身を翻した。エレナもその場から森の中へと姿を消した。どうやら追ってきてくれるらしい。

「…あいつ…強い。あいつ…倒せなくても…お前殺す」

鴉が押し潰されたような不気味な声を吐き出した。ケビンは宙吊りにされた状態で足元の森を見る。鴉の足を引っ掻き、上手く森に落ちる事はできないだろうか。この高さだ。落ちたらただではすまないだろう。しかし、このままの状態でいるわけにもいかない。この男はケビンを殺す気なのだから。前方では鷹の姿をしたクリスが見える。段々と距離は狭まっていくが、まだ距離はある。後方を振り返ると街の明かりが近付いていた。大人しく男に宙吊りにされたままでは街の上空を通り過ぎる事になる。もしこの姿を数少ない知り合いに見られでもしたら、変な噂を立てられ(クリスはそんな事は気にしない)生まれ故郷の街に足を運ぶ事もなくなるだろう。親はいない。兄弟も。クリスの邸に居候するまで満足に食べられない日は珍しい事ではなかった。だが、あの街に愛着はある。息を吹き返してから初めて街を訪れた時、知り合いはケビンの身を案じてくれたのだ。街は優しくケビンを受け入れた。男が街にどんな被害をもたらすかわからない。住人が男の被害に遭っていた事もある。男の軌道が街から外れる事をケビンは祈ったが、無駄に終わりそうだ。近付いてくる街にケビンは決意のまなざしを向ける。ためらいは一瞬だった。鴉の足に歯を立てて爪を使い、精一杯の力を込めた。鴉の痛みによる悲鳴が夜空に響いた。その声はしわがれた男の声のようにも鴉の鳴き声のようにも聞こえた。鴉は痛みから解放されるため、その身体を大きく揺らしてケビンを振り下ろした。空中に投げ出されたケビンは嘔吐感に苛まれながらも闇に手を伸ばした。その手を掴んだのは闇でも、ましてや冷たく輝く月でもなかった。誰かの手がケビンの手を掴み、二人は宙を舞っている。クリスだった。クリスはもう鷹の姿をしておらず、いつものスーツに身を包み、その背には月光でわずかに見える黒い翼が生えていた。

「…やっぱり馬鹿でしょ、ケビン君。僕がいなかったら地上でぺしゃんこだったよ」

いつもの憎まれ口。しかし、ケビンは苛立ちを感じなかった。それどころかいけ好かない彼に感謝の気持ちすら抱いていた。彼がいたおかげでケビンは生き延びる事ができたのだから。

「結果オーライだろ?あんたがいたんだし。こうして今生きてるんだから」

下を見ないようにケビンはクリスの顔を見上げた。クリスはものわかりの悪そうな幼子を見るような顔でケビンを見ていた。その瞳はルビーのように紅くて美しい。態勢を整え、猛然とこちらに向かって滑空してくる鴉の獰猛な赤い目とは比較する事すらできないほど美しかった。鴉が後方に迫ってくるとクリスもまた飛ぶ速度を速めた。黒翼が力強く羽ばたく。ケビンは速度を速めた彼の手にすがりついた。身体が大地とは水平になって飛んでいる。今まで体験したことのない感覚だった。冷たい風がケビンの頬を打ち続ける。

「ちょっ、ちょっと待て!落ちるって」

目が風によって痛むのでケビンは目を閉じていた。半狂乱になりそうになりながらも、ケビンはクリスに不平を訴えた。頭上近くで彼がため息をつく気配がした。

「暴れないでよ。今すぐ落ちたいなら別だけどね」

今度のクリスの言葉にはケビンは怒りを覚えた。が、落とされてはたまらないので身体の力を抜いて黙った。一瞬の更なる浮遊感にケビンは包まれ、目を開けた。クリスの顔が見えなくなっていた。見えたのは高そうな彼のネクタイだった。浮遊感はクリスがケビンを抱きかかえたせいで起きたらしい。手だけでは心許なかったので、クリスに抱えられる形になってケビンは安心した。手だけで支えられるよりは落ちる心配が少なくなったおかけだ。クリスはケビンを抱えながらも鴉との距離を一定に保っていられた。鴉は必死に追いかけてきている気配だったが、クリスはまだまだ速く飛べそうなほど余裕がありそうにケビンには見えた。

「…あんた、わざとだろ。わざとあいつが追って来られるような速さで飛んでいないか?」

クリスが笑った気配がした。ケビンの予想は的中していたらしい。

「だって仕方ないじゃないか。僕はあの馬鹿を倒すよう頼まれてるんだ。君には悪いけど付き合ってもらうよ。でもよかったじゃない。被害者の君としては犯人がわかって。僕もどこの馬鹿が馬鹿を殺したのか知る事ができたし」

馬鹿が馬鹿を…という後者の馬鹿はケビンの事だった。しかしケビンは怒る気力もなかった。現在の飛行旅行のおかげで日頃の疲れが出てきたらしい。早くこの飛行旅行から解放されたかった。

「…おい、どこに向かってるんだ?」

「取り合えず君が邪魔だから街にでも置いてこうかと思ってね。街に向かってるよ」

夜空の闇が薄れて見えてきたのは、ケビンの気のせいではなかったらしい。街の明かりが真っ黒な夜空を少しばかり薄い黒に見せている。ケビンは彼のネクタイを引っ張った。

「待てっ!街には行くなっ。こんなところを誰かに見られたら、俺は二度と街には行けなくなるっ」

喉をネクタイによって絞められながらもクリスは少しも苦しそうな素振りを見せなかった。一定の速度で保たれていた鴉との距離が広まった。クリスが飛ぶ速度を速めたせいだ。きっと鴉はひどく驚いているに違いないだろう。

「僕には関係ないね。誰にも見られない事を祈ってなよ、あの月にでも」

予想通りの言葉だった。ネクタイを掴むケビンの手が緩まった。結局何を言っても無駄なのだ、クリスには。自分のしたいようにするのだから。

「…なあ、あんた何で俺を生き返らせたんだ?」

小間使いを増やしたかったから、なんて言ったら殴ってやる。ケビンは近付いてくる街を見下ろしながら決意した。

「ああ、それは…」

彼の答えを聞く事はできなかった。街に入ってしまったのだ。街灯が立ち並ぶ通りに家家の灯りが漏れ出ている。その灯りもわずかばかりだった。ケビンは少なからずほっとした。真夜中と呼ばれる時間なので外を出歩いているような人の姿は見当たらない。どうか誰も出てきませんように。誰にも見られませんように。ケビンは彼に言われた通りに祈った。ただ月にではなく、偶然にだった。クリスは明滅を繰り返す街灯近くの木にケビンを下ろした。まだ追ってくる鴉の姿は見られない。クリスが姿を変え、鷹になった。今度は通常の大きさだった。その大きさで巨大な鴉に敵うのか、とケビンは思ったがその事を口に出す前に鷹は空中で旋回すると夜空に消えてしまった。このままでもどうしようもないのでケビンは木を下りる事にした。真夜中とはいえ、誰かに見られる可能性だってある。間違って見られでもしたらケビンは間違いなく不審者にされてしまうだろう。その扱いを受けるのは嫌だったので、ケビンはゆっくりと恐々しながらも木を下りた。

「へっぴり腰。臆病者」

地に足をつけると呆れたような声がケビンに投げかけられた。振り向くと少女の姿のエレナが立っていた。森の中を駆け抜けて、街に下りてきた割には呼吸が乱れていない。ケビンは仏頂面のエレナを見つめ返した。

「…足手まといにならないよう隠れていたら?」

辛辣な言葉にケビンは眉を顰めたが、エレナがいる反対側に足を向けた。

「…お前も足手まといだから、ここにいるのか?」

ケビンはエレナの返答を期待してはいなかった。「そうよ」とエレナが吐き出した吐息を不思議に思ったくらいだった。まさか肯定されるとは思っていなかったので、ケビンは居た堪れなさにその場で固まった。エレナが心底憤慨しているのがケビンにはわかっていたので、下手に振り返って彼女の顔を見るような真似はしなかった。

「私は鳥には変身できないし、力も強くないわ。クリスの手助けには役立たない。足手まといで役立たずよ」

はっきりとした物言いだった。だからこそ彼女の複雑な心中を察する事がケビンにはできた。

「…あいつはどうやってあの男を倒すつもりなんだ?杭でも胸に刺すのか?それとも日の出まで待つのか?」

ケビンはゆっくりと頭を回した。完全にはエレナを振り返らず、彼女の黒髪がわずかに視界に入ったところで頭を止めた。

「日光浴びて灰になる吸血鬼なんてもういないわよ。第一それだったらクリスは地下暮らしよ。昔はいたみたいだけど。人間も進化してるように私たちも進化してるの」

エレナの瞳がケビンをじっと見つめていた。近くの家から物音がすると、エレナは暗がりに向かって歩き出してしまう。その背中がついてこいと言っているように見えたので、ケビンは彼女の後を追った。寝静まっているのか、人がいないのかわからないが、灯りのついていない路地を歩いているとエレナが歩く速度を緩めた。

「吸血鬼同士の戦いでは心臓を奪い合うのよ。相手の心臓を見つけて壊した方が勝ち。負けた方は消滅しかない。何?クリスの心配でもしてるの?そんな顔して。大丈夫よ。あんな奴にクリスは負けないから」

エレナの自信がどこからくるのかケビンにはわからなかった。が、彼女がそう断言しているのだから、クリスの心配をする必要はないのかもしれない。先程の空中での攻防を見てもクリスの方が優勢だったし、あの男もクリスの事を強いと言っていた。いきなりエレナが立ち止まったので、ケビンは少し驚いて自分の足を踏みそうになった。エレナがケビンを振り返る。

「それとも、クリスが死んだら自分も死ぬから心配しているだけ?」

エレナの瞳が細くなりケビンを睨んでいた。彼女の縦に長い瞳孔がやけに鋭く見える。

「…あ!そういえばあいつから血を貰わないと死ぬんだったっ」

ケビンがあまりにも慌てふためくのでエレナは呆気に取られてしまう。どうやら完全にエレナの思い過ごしのようだった。彼女は目の前の少年があまり頭の回転がよくないと思い出す。

「なぁ、なんであいつの血が必要なんだ?面倒だろ、俺もあいつも」

「それは従僕として仕えさせるためよ。傍を離れないように、縛り付けておくため…に…?」

エレナは答えながらケビンの『面倒』という言葉が引っかかった。確かにそうだ。クリスは極度の面倒くさがりで自分勝手だ。それはエレナも認めるほどだ。誰かに縛られる事を嫌って一族の元を離れて暮らしている。つまり同族でさえも鬱陶しいと感じているのだ。それに自分自身さえにもほとほと無関心だ。そのクリスが何故死んだケビンを仲間に引き入れたのだろう?わざわざもどきにして血を与え、自分の元に置いている。従僕が欲しかった?違う。彼の世話をする低級の従僕が数え切れないほどいる(今は彼が気まぐれに出した休暇を謳歌しているだろう)。仲間が欲しかった?それも違う。だったら戻ればいい。昔馴染みのいる場所へ。何故?面倒を犯してまで、もどきの相手をしているのだろう?完全な吸血鬼にする事だってできる。幾度もそうして仲間を増やし、存続の危機を免れてきた事だってあるのだから。その方が面倒だって少ない。エレナは「やっぱりあいつ人のことを奴隷か何かと思ってたなっ」と叫ぶケビンを見た。ケビンの頬は紅潮し、地団駄を踏んでいた。わからない。何故?ケビンがクリスに何かしたのだろうか?彼が興味を抱く何かを。エレナはケビンを見つめたが、わからないものはどうしようもなかった。

「おい、どうした?やっぱりあいつの心配でもし始めたのか?」

物思いから意識を浮上させると、ケビンの手が目の前で左右に揺れていた。エレナは反射的にケビンの手首を掴み、動きを止めさせた。

「…違うわよ。クリスの心配をするわけがないじゃない。する必要性がないわ。彼が負けるわけないんだから」

乱暴にケビンの手を払いながら、エレナは視線を逸らした。手を叩かれたケビンは払われた手を擦りながら、彼女を見た。クリスの事が理解できないエレナは自分でもわかるほどひどく苛立っていた。苛立ちを何もわかっていないケビンにぶつけていても仕方がない。エレナは頭をふった。さらさらと黒髪が揺れる。

「…なあ、お前らの関係って何?」

頭を振っていたエレナはケビンの言葉に一層激しく頭を振った。ケビンが心配したほどだ。突然エレナが頭を振るのをやめた。ケビンは声をかけようかどうか迷った。まず何と声をかけたらいいかわからなかった。

「……あんたにはわからないわよ」

私でさえよくわかってないんだから…エレナはそれだけ言うとゆっくりと歩き出した。ケビンは何を言われたか理解するのに時間がかかった。彼女の言葉を理解したころには、エレナは路地の闇に消えていた。慌ててケビンはその後を追うしかなかった。

■□■□■

路地を抜けると鴉と鷹が宙を滑空する姿が見えた。エレナが路地の闇から夜空を見上げている。またあの目だった。ケビンは音を立てないように路地に少し戻った。家々の窓からは少しばかり灯りが漏れ出ていた。しかし誰も窓から顔を出しはしなかった。鴉の鳴き声が大きく聞こえたところで人々は気にはしないようだ。それとも灯りを点けながらも眠ってしまったのだろうか?空の攻防は身体を上手く使って滑空している鷹の方が鴉を翻弄しているようだ。小回りが効く鷹に鴉が戸惑っている。鷹は旋回すると鴉へと体当たりした。体当たりの瞬間に鷹が姿を変え、クリスは鴉へとしがみついた。クリスを振り払おうと鴉はもがくが、翼を掴まれて上手く飛べなくなったようだ。

「お前みたいな馬鹿な奴は大抵…」

クリスの言葉は鴉の醜い鳴き声でよくは聞き取れない。ケビンは彼らを見つめながら路地から出た。エレナもそれに続く。鴉の鳴き声が一層大きくなり夜空に響いた。鴉の胸元から背中にかけて大きな穴が開き、そこからクリスの手が突き出ている。その手の中で何かが脈打っていた。あの男の心臓だ。

「やっぱりね。自分で持っていた。自分で持っている方が守りやすいのはわかるけど、わかりやす過ぎだよ」

クリスの手の中で男の心臓が激しく動いた。だが、それは無駄な抵抗だった。心臓は元の場所へと戻ろうとしたが、クリスには心臓の好きにさせる気はない。クリスが力を込めると心臓は手の中で潰れた。ケビンは血が飛び散るのだろうと思ったが、予想に反して心臓から噴き出したのは光の粒だった。きらきらと光り、光の粒は街へと降り続けた。心臓を握りつぶされた鴉は男の姿に戻る事なく、光の粒となって霧散した。凶悪な化け物らしくない最期にケビンは見惚れながら夜空を見上げた。男を倒したクリスは、その背に翼を生やして地上に下りた。ケビンは辺りを何度も見回したが誰もいない。降り注ぐ光の粒に気がつく者もおらず、窓に人影も見えなかった。誰もいない事に安心しながらケビンは夜空を見上げた。光の粒が降り終わるまで…

■□■□■

「ふっざけんなーっ」

ケビンの絶叫が使用人が戻ってきた邸に響いた。驚いた使用人が何かを落とす音が後に続く。肩を上下させ、ケビンはクリスを睨みつけた。

「まあまあ落ち着きなよ、ケビン君。お茶でもどう?」

「いるかっ、てめぇが俺をもどきにしたのは退屈しのぎってどういう了見だっ」

男を打ち倒し、訪れた平穏の時間にまたもや暗雲が立ちこめた。エレナがケビンをもどきにした理由を尋ねると、クリスがお茶を片手に「退屈しのぎ」と答えたせいだ。よくよく聞けば完全な吸血鬼にする事もできたという事だ。それはちょっと嫌だったが(ケビンはちょっとばかり変身してみたいと思っていた)、今の時代ではクリスのような吸血鬼(クリスは吸血鬼の中でもちょっと変わっているらしい)は赤ワインだけでも生きていけるらしい事がわかったので、どうせなるなら彼の血を必要とするもどきよりもましだった。

「つまりクリスは退屈しのぎが欲しかったのね?」

膝の上でくつろぐエレナにクリスは微笑んだ。肯定の意味だ。エレナは少なからずその答えに安堵して、彼の膝の上でわずかに微笑んだ。しかしケビンにはちっとも嬉しくなどなかった。

「てめぇ今すぐもどきから吸血鬼にしろ。そっちの方がましだっ」

そうしたらすぐさま出てってやるっ、というケビンの決意がその顔にありありと出ている。クリスはやれやれと肩を竦め、膝の上のエレナを撫でた。

「あー、無理だね。諦めなよ、ケビン君。仲良くやろう」

クリスは稀に見る友好的な笑顔をケビンに向けた。再び「できるかーっ!」というケビンの絶叫が部屋中といわず邸中に響いた。品のいいカーテンが風に吹かれたように揺れたような気がする。エレナは「うるさい」とケビンに飛びかかった。ケビンは彼女を引き剥がそうともがいたが、いきなりぱたりと豪華な絨毯に倒れた。胸元が苦しくなったのだ。胸を掻き毟るようにしたので服にしわが寄った。もどきの発作だった。エレナの肉球がケビンの頬を打ったが、ケビンはそれどころではなかった。

「ケビン君、大丈夫?ああ、駄目そうみたいだね」

ケビンを苦しみから救える唯一の存在は楽しそうに笑っている。その笑顔にはエレナも「鬼ね、クリス」と呆れた。

「苦しい?」

クリスの無情な問いかけに切れ切れの息の元でケビンは力なく頷いた。胸が苦しいし、痛い。

「助けてあげてもいいけど。君を助ける事には慣れているし。どうする?これからも仲良くする?」

優雅に椅子に腰掛けているクリスが立ち上がる気配がした。そのまま彼はゆっくりとケビンに近付いた。腰を折ってクリスが片手をケビンの目の前にかざした。

「どうする?」

ケビンの意思は決まっていた。この痛みから解放されたい。その望みのためにケビンはただ頷いた。それだけでクリスはわかったようだ。彼の手がケビンの視界から消え、再び現れたときには彼の人差し指の腹から彼の血が見えた。彼の手が近付き、零れた血がケビンの口の中に入る。ケビンは乾いた口の中から全身が温まっていくのを感じた。身体が動かせるようになるとケビンはエレナを睨みつけながら立ち上がった。

「仲良くしようね?ケビン君」

クリスの笑顔にケビンは渋々だったが頷いた。クリスは立ち上がるとケビンにお茶のおかわりを頼んだ。ケビンは気が向かない様子だったが、頷くと足早に部屋を出て行った。ケビンの足音が遠ざかるとエレナはクリスへと近付き、椅子へと飛び乗った。そのまま伸びをして椅子に寝転ぶ。

「…退屈しのぎね」

エレナはクリスを見つめた。納得半分、疑い半分だった。クリスが退屈を嫌う心理は理解できる。でも本当にそれだけ?エレナの窺うような視線を受けてもクリスはおかしそうに笑うだけだった。絨毯の上を歩き、エレナの横を通り過ぎて窓へと近付く。窓の外では青い世界が広がっていた。その世界にどこでも見れる白い雲を見つけて、クリスは窓ガラスに触れた。ケビンと初めて出会った時の天気は雨だった。嵐と言っても良いくらいだった。あの天気の中を外出したのはいつもの気まぐれだった。理由などどこを探してもない。帰り道の途中でケビンを見つけた。どこにでもいる自分には何の関係もない人間だった。その人間は今にも死を迎えようとしているのに、クリスを見て笑ったのだ。ケビンは笑ったわけではないのかもしれない。何故?と問うてもケビンは笑った記憶などないだろう。クリスには死に逝くケビンが自分を見て笑ったという認識だけで充分だった。初めてだった。死んでゆく人間が笑ったところを見たのは。今まで生きてきた時間の中で初めての出会い。生かそうと思った。二度目の生をケビンがどう生きていくのかを見ていたいと思った。それだけだった。確かに退屈しのぎという理由も満更間違いではなかったが…

「…そう、退屈しのぎだよ」

クリスは姿の見えない誰かに呟いた。椅子の上ではエレナがまだ納得できない顔をしていたが、階下からケビンの足音が聞こえてくると彼女は考える事をやめたらしかった。まだ怒りが収まらないらしく、ケビンの足音は大きかった。

「ケビン君は退屈しないからね」

クリスの囁きと共にケビンがティーカップを割る音が邸に響いた。何人かの使用人の悲鳴とケビンの悪態が後に続いた。クリスの元にお茶が届けられるのは、いつになるやら…

「…ね、退屈しなくて済むでしょ?」

クリスの青い瞳が子供のような色を宿していた。お気に入りのおもちゃを褒めているようだった。エレナは母親のように彼に「そうね」と頷いた。

お茶が届けられたのは、それから十分後のことだった。ケビンの特上の仏頂面付きで…


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