1-3 アースフィアの現状
明日、用意された学園都市の居住へと身を移す事を告げられた透は、最低限の身支度を終え、後は就寝するだけとなった。
コンコンと、控えめにノックされる。風音は学園都市で準備することがあると言付けているので、この家にはいない。
よって、三人しか住んでいないこの家でノックする者は一人しかいない。
透は入室の許可をその人物に与える。
「鈴音、入ってきていいよ」
「うん」
鈴音は透に入室の許可を貰うと、すぐさま入室するが、何処かおどおどした態度である。
鈴音は着物を纏っていた時には結い上げていた髪を下ろし、就寝用の薄着の着物を纏っている。
鈴音が夜間に透の部屋を訪れるのは珍しい事ではない。彼女が透に執着している事実から顧みれば、それは必然の出来事でもある。
「その……いい?」
おずおずと恥ずかしげに言葉を省き、用件だけを伝える鈴音。
「いいよ」
例え主体となる言葉を省かれようとも、幾度の回数をこなしている透には用件の内容は分かっている。
透に了承の意を得た鈴音は、満面の花が咲いたような笑顔を浮かべ、嬉しげに透のベットに入る。そして、招き入れるように自身の隣のスペースをポンポンと叩く。
尻尾を振って待っていそうな鈴音を、透は苦笑し、部屋の明かりを消す。
透がベットに入ると、鈴音は着物が乱れぬようにそっと寄り添い、透の懐へと入る。互いの温もりも、息遣いも、心臓の鼓動までも聞こえる程の密着。これが就寝時の二人のスタイルであった。
鈴音は囁き声で透に話し掛ける。
「これから私達の世界はどうなるのかな?」
「さぁ?」
ムッとしたような気配が鈴音からは伝わるが、透としてはそういうより他はない。さすがに不確定要素が多すぎて、不確かな未来を見通すのは困難なのである。
「四界の住民達が与える影響が大きすぎる。特に今のアースフィアにはね」
「……」
鈴音としてもそれは承知している。
彼女もその渦中にいる一人なのだから。
アースフィアは人種の問題で二分している。国や主義、肌の色などで二分している訳ではない。魔法を使えるか、否かで二分しているのだ。
超越者――通称、ユーヴァーと呼称されることとなった存在が、人類史に顔を出す事になったきっかけはある因子が原因となっている。
可能因子――あらゆる物体に潜んでいるこの万物の因子は、人を神の地平へと押し上げる奇跡の神の因子と称賛され、同時に人を誑かす悪魔の因子と批判されている。
ヒュレーはあらゆる要素に変換可能な万能の因子とされている。炎や風などの物理現象、土や金属等の物体、振動や移動などの物理的作用にも変換可能な事から、各国の研究対象となった。
では、ヒュレーと超越者はどのような関係にあるのか。
超越者とは個体情報を示すイデアの他に、個体情報が登録されていない純粋なヒュレーを蓄えることが可能な者を指す。
超越者はヒュレーを固有情報、つまり現実態に変化させ、様々な現象を意のままに操ることが可能なのだ。
エイドスとは情報体である。エイドスは仮想的にその情報を現実に反映させ、現実にある物体へと影響を及ぼす媒体なのだ。
例えを挙げるのであれば、氷は水分子を固体化させたものである。エイドスによって生み出された氷は、そのままではずっと氷の状態が保たれている。術者と繋がっている状態でその氷を掌に乗せると、氷は冷気を発し、重量も見た目通りに再現されるが、掌の熱で溶ける事はない。術者との繋がりが消えれば、その氷は跡形もなく消え去り、後には氷が乗っていた部分の掌が冷たくなり、僅かに湿っているという結果だけを残すのだ。元となった氷は何処にも存在していないというのにだ。
これまで空想の中でしか存在しなかった魔法を現実世界に投影することが可能な魅力的な技術の宿命か、これまで機械で行ってきた現象を、個人でも使用可能か試行されることとなり、結果としては、成功を収めた。――ただし、一部の人間にだけに限りだが。
この結果を妬みに感じた大多数の人々――通称、通常人は、強大な力を持っている彼らを兵器と詐称する事により、超越者を自分達の管理下へと置いたのであった。
「私達は人間として扱われるのかな?」
鈴音が不安に思っていることは、アースフィアでの超越者が抱いている懸念でもある。超越者はその出自から道具として扱われてきており、今現在もその考えは強く根付いている。
また、通常の法律は超越者に対して適用されず、国の管理下に置かれ、さらに通常人が認可した場合だけ普通の人間として適用されるのだ。
その中で鈴音は特殊な立ち位置にいる。彼女は通常人と超越者との間に生まれたハーフ。
通常人と超越者が交雑してできた子供はやや超越者が生まれる確率が高いだけで、必ずしも超越者として生まれるわけではない。ちなみにだが、超越者と超越者が交配した場合は子供も超越者となるのだ。
鈴音は幼少の頃は通常人となっていたのではあるが、ある時期を境に超越者となった珍しいケースとなっているので、彼女にどちらの法が適用されるか不安定な立場にいるのだ。
透は鈴音を安心させるように優しく抱きしめる。
「俺は別に人間であろうが、化物であろうが一切気にしないけどね。俺は俺と認識できていれば、それでいい」
透は超越者が通常人から人間である事を認められようとは思った事は一度もない。彼は人間に幻想を抱いた事はない。彼の胸の内にあるのは、人間としての誇りではなく、己という意識。圧倒的なまでの自我が彼の存在を認識づけている。
「鈴音……人間だろうが、化物だろうが俺は気にしない。鈴音の事を変わらず受け入れてやる。だから詮無い事を気にするな。周囲がどう扱おうとも、自身が望むままにすればいい。自分が何者であるかを定義づける事ができるのは自分だけだ」
「――うん」
透は僅かに零れる涙を唇で掬う。
「――ところで……」
「ん、なぁに?」
陶然としていた鈴音は、透の声に我に返る。
「鈴音は一夫多妻に不満はないかな?」
「ないといえば嘘になるけど……」
言い澱む鈴音だが、不満があるけど言いにくいというよりも、自身の気持ちに対する適切な言葉を探しているかのようだった。
「透君は一夫多妻には賛成なんだよね?」
「俺を好きという物好きがいれば、条件付きで受け入れるよ。俺の恋愛に対する価値観は、いうなれば家のようなものだからね」
住人達の帰るべき場所。安らげる場所。自分でいられる場所。透は恋愛に関しては、自身の異質と判断している感性からか、受け身の姿勢を取っている。だからこそ、透の言う条件とはすなわち……
「だから、前からいる住人や後から来る住人を受け入れないのであれば、家には入れさせないよ。俺の家は単身用じゃないんだ」
「だよね……」
ただ事実確認をしただけだった鈴音は、透の言葉に落胆することも憤ることもしない。
「今現在、住居が確定しているのがフィンで、仮確定が他の四人だけど……鈴音はどうする?」
「むぅ~」
拗ねた様子を見せる鈴音。彼女は自分が仮確定というのが気に入らなかった。
「私は透君のことが好きだし、フィンちゃんのことも好きだよ。だから、フィンちゃんと一緒に透君のお嫁さんになるのは賛成だよ……何の気兼ねもいらないしね」
フィンと鈴音は今回の件が起こるきっかけとなったヴェルディンとのある共同実験の際、最初は不仲ではあったが、透を縁として友誼を結ぶこととなったのであった。
「なら、住居確定かな」
「よし!」
望んだ答えを得られ、思わず鈴音はガッツポーズをとる。
「透君、私達夫婦になったんだよね?」
暫く余韻に浸っていたかと思うと、鈴音はそう切り出した。
「まだ婚約者だけどね」
「別れる気はないんだから気にしない」
ピシャリと言い放つ鈴音からは、気迫、躊躇、期待、恥じらいが混じったような雰囲気が漂い始める。
「その、ね……折角、だしね……必要な事、だし……するのが当然というか……」
次第に鈴音の声が尻窄みになっていく。風邪でも引いてしまっているかのように顔から熱を発している鈴音を、透は何も言わず見詰める。
「その……わかるでしょ?」
「何が?」
透は鈴音が何を言いたいのかを承知しているが、恥じらう鈴音をもっと見たいがために惚ける。
透は表面上は笑顔ではあるが、瞳に嗜虐の感情を乗せていることから、鈴音には透が惚けている事を見抜いた。
「うぅ~いじわる……」
「さて……」
あまりの恥ずかしさから顔を背け、縮こまる鈴音に、透はそろそろいいかと、鈴音がしてほしいことを実行ために、鈴音の頬に手を寄せた。
透に何をされるか分かった鈴音は、そっと目を閉じた。