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向こうで、パトカーの出すサイレンの音が聞こえてきた。
「鑑識、到着したみたいですよ」と、木津の声が帰ってくる。
田村刑事は頷くと、ガラスが綺麗に吹き飛ばされ、金属の枠だけになっているドアをくぐった。
丹代駅に着いたのは十数分前だった。
駅で人が殺されているという通報が入り、事件発生現場周辺にいた警察官全員にすぐ現場へ向かうようにと無線で指示が伝わっていた。ちょうど駅へ向かう途中、車の中で連絡を聴いた田村達二人が、まっさきに事件現場へと駆けつけたのだった。
田村達は既にその凄惨な事件現場の視察を終えて、他の警察官の到着を待っていた所だった。
田村はパトカーを降りてくる鑑識課達を引き連れて、駅のエントランスホールの奥へと突き進んで行く。
無線から入った情報によると、通報してきたのは陵南高校の女子生徒で、「空中に浮き上げられた少年が爆発した」などと言っているらしい。錯乱した彼女の証言では、紫色のドレスを着た女性が、宙に浮く少年の前で片腕を上げる動作をしていたという。まるでその女性が、超能力か何かを使って人を殺したように見えたらしい。
また紫のドレスの女だ、と田村は思った。先程の事件で目撃されている犯人と同一人物なのだろうか。
通報を受け取った警官の話では、電話をかけてきた女の子は終始声が震えていて、今にも泣き出しそうだったという。今、その女の子は精神的ショックによる心的外傷の為丹代市民病院に搬送され、話を聞く事は不可能だそうだ。
その会話の内容から、警官も彼女の正気を疑ったらしいが、現場を見てきた田村にはもう疑う余地は無かった。
田村は死体の前にしゃがみ込んだ。
誰なのか分からない程に服までバラバラにされた肉片が、駅のフロア一面に散らばっている。
鑑識が数人、現場検証の為の写真を撮っていた。確かそっちには、不自然に離れた所に、死体の一部と思われる右腕の破片が落ちている場所だ。
田村は床に散乱する人体の欠片を見下ろした。
その断面は、服や骨などが層になって一つの塊になっている。着ている服は学校の制服のように見える、丸い金ボタンが付いていた。頭部も脳や頭蓋骨を綺麗にかち割り、一直線に両断している。
肉片の切り口はガラス玉を割ったように滑らかで、決して刃物や水圧カッターでも出来る業ではない。
奇跡的に無傷で転がっていた眼球が一つ、田村を見上げていた。
何十年も前の記憶が蘇る。
田村はこんな光景を、以前にも目にした事があった。
学生の頃の楽しい思い出。田村は大学時代、友人と化学サークルに入っていた。化学は好きでは無かったが、リベラルアーツとしての学問的な活動をしていると見せかけ、毎回先輩方が始めるやりたい放題な実験を観て楽しんでいたのだ。
ある日先輩の一人が、どこから仕入れてきたのか大量の液体窒素を持ってやってきた。
当然、仲間達はそれを部屋中にぶん撒いて遊んだり、皮膚に触れた瞬間に蒸発する事を利用して一瞬だけ手を突っ込んでみたりして楽しんでいたが、いつしか友人の大事に飼っていた金魚を、その液体窒素に入れてみようという話になった。
予想では、凍った後すぐに常温の水に戻せば、彼の愛する金魚は無事に生還出来るはずだった。
ぶくぶくと彼のペットをマイナス百九十六度の液体に浸し、箸で摘み上げる。しかし元の水槽に戻そうと持ち上げた途端、案の定彼の手が滑り、哀れローザちゃんは再び水の中を自由に泳ぎ回る事は永遠になくなってしまったのだ。
本当は生物を生きたまま凍らせたりすると、細胞液が膨張するので細胞膜が破壊されて死んでしまう。この実験を成功させるには、落ちて粉々になる程まで冷やしてはいけなかったのだ。
当時は笑い話にしかならなかったが、今の田村には嫌悪感しか湧かなかった。
自分が楽しむ為だけの生体実験。若さ故の好奇心というのは、時に残酷なものだ。と、田村は床に広がるバラバラ死体を見つめながら思った。
それを、人間でやったのか。
田村は立ち上がって、駅の構内を見渡した。
「今日、三体目の身元不明遺体ですね」いつの間にか隣に立っていた木津が、田村に言った。「最初の変死体も、同一犯なんでしょうか」
「ああ……そうだろうな」一日でこんなに立て続けに怪事件が起こっているのだ。関連性を疑わない方がおかしい。
「目撃者が、通報してきた女の子一人だったのもおかしくないか?」
「はい。駅への入り口は、電車から人が降りてくる線路側を除いて、僕達が入ってきた南側と、トンネルを通る西側だけですが、二カ所とも事件発生の数分前まで入り口を怖い人達がたむろしていて、駅に入れなかったっていう話がありました」
「そうか……駅員も探したが、なぜか一人も居なかったぞ」
木津は少し、真剣な表情になった。
「田村さん。これって、けっこうヤバい……組織的な犯行なんじゃないですか……?」
「その可能性は高いな。マル害は三人とも顔が潰れているし、薬品を使って遺体の身元を分からないように加工するなんて、いかにも暴力団がやりそうな事だ」
木津は頭上を見上げた。
「ワイヤーか何かで遺体を吊るしていたんでしょうか」
田村も顔を上げると駅の天井には、太い梁のように、横に白い鉄柱が通っている。
「そうだな。死体に繋いだロープを天井に通して、端を引っ張れば浮かせられる」
「片手を上げていたというのは、遠目では見えないピアノ線か何かを引っ張っていたからですね?」
「いや、犯人が目撃証言通りの女性なら、凍らせた遺体を片手で持ち上げるのは不可能だ。その場に必ず共犯者が居たはずだ。たぶん……男の」
田村は考え込むように下を向いた。
「じゃあ……なんで犯人はそんな事したんでしょう。わざわざ持ち上げてから落とす必要ないのに」
ううん、と田村は唸った。
「……見せる、為じゃないか。犯人の狙いがある女の子に目撃される事だとしたら、それまで入り口を塞いでいた理由がつく。持ち上げた死体はガス銃が何かで撃ち壊したんだろう。銃を向ける為に、その女は片手を挙げていたんだ。後はその子が逃げ出している間に西門のトンネルを通って抜け出し、犯人達は車を使って逃走すればいい」
「……ちょっと、意味が分からないですね」木津が言った。「それだけの為に、駅に居る人全員を追い払って空にしたんですか? 犯人の意図が全く読めません。死体で遊んでいるのを、見せびらかしているだけのようにしか見えないんですけど」
田村も同感だった。何の目的で犯人がこんな事をするのかが分からない。今もどこかで常軌を逸した規模の邪悪な計画が進んでいるのかと思うと、急に悪寒を覚えた。
「それより、僕らも署に戻りませんか? ここは鑑識に任せておきましょうよ。そろそろ捜査本部も立ち上がってる頃ですし」
「ああ。その前に、もう一度西側を見てから行こう」
田村が歩き出すと、側で携帯電話のバイブ音が鳴り出した。
「はい木津です」木津が携帯電話を耳に当てる。
田村は一人で広間を横切ると、西側の出口へ通じる階段へと辿り着いた。
階下を見下ろすと、出口へと繋がるトンネルが続いている。ここにも数人の警察官が現場を調べていた。
地下通路の両壁は、なぜか炎で焦がされたように真っ黒の煤が付いていた。
「田村さん」木津が後ろから駆けてくる。「先に戻ってて下さい。今、連絡が入って、別の事件が起きたみたいなんです。また変死体らしいんで、僕がそっちに行ってきます」
「分かった」
田村は階段を下りようとして、
ふと、南口の、ガラスの抜けたドアの向こうを振り返った。
今、一瞬。
紫のドレスを着た女が、入り口の前を通り過ぎたような気がした。