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1人分の足音が響く。
人通りから離れた通路には、目の前を歩く少年以外、誰もいない。
男は息を殺すようにして、足音を重ねながら、少しずつ少年に歩み寄った。
緑のイヤホンを付けたその少年は、まだ背後から近づく男に気付いていない。
音楽に聴き入る彼に、足音を消した男の気配が感じられるはずがなかった。
……気付いたところでお前の運命は変わらない。
男の眼光が真紅に輝いた。男は一見、完全な人間の姿をしていたが、人間ではない異質な存在である事を隠しきれてはいなかった。
少しずつ、確実に、ゆっくりと、少年との距離が狭まっていく。
悪いな。と、男は心の中で呟いた。
少年に恨みは無い。これもあの御方のご意志なんだ。悪く思わないでくれ。
今まさに少年の魂を奪おうとする黒の男は、依頼者の事を思い出していた。
彼女と出会ったのは、つい最近の事だ。
初めて奈落の内へと足を踏み入れた時、私はまだ若く、本当に自分の力だけで奈落を攻め滅ぼせると信じていた。
九層地獄に居た頃、私の力は四階層の君主をも凌ぎ、もはや比べる者も無いとまで思い上がり、慢心しきっていた。
ーー彼女に会うまでは。
ブレイザ・エルゼ・ド=ソル・レティシアの噂は耳にしていた。強大な魔力と力でアヴェルレジアを支配した無敵の魔女だと。
だが、私が奈落の地で目にした彼女は、私の想像を大きく裏切った。
私が闘いたかった相手、全てを力のままにねじ伏せる奈落の支配者は、こんな女性のはずではなかった。
彼女を殺す為に出向いた私を、レティシア卿は暖かく迎え入れてくれたのだ。
あろうことか、その時私は完全に戦気を失ってしまった。
思えばそれが彼女の能力だったのかもしれない。相手の敵意を奪い取り、またそれでもいいと思えてしまう。
それ程までにレティシア卿は、支配者としてあまりに儚く、むしろ私の目には守られるべき存在にしか見えなかったのだ。
彼女は私に〝眼〟を与えてくれた。真実を写す魔眼を。
それまで見えていた世界は全て虚構に変わってしまった。
彼女が嘘で出来た世界から私を連れ出し、真実を見せてくれたのだ。
物質世界の劣情を、私の頭は理解する事が出来ない。だが、恐らく私は、彼女に対し特別な感情を抱いてしまったらしい。
それが彼女の策略だったとしても、抗う気など起きなかった。そんなことはどうでもいい。私の心を惑わす魔術であろうが、この気持ちから醒めたくはなかった。
今なら彼女のどんな願い出も叶えるだろう。彼女のお願いなら、この命を懸けてでもその身を守り、死ねと言われれば、喜んで選択をためらわないだろう。
この少年を殺す事が彼女の頼みなら、それを叶える事に理由はいらなかった。
前を歩く少年はイヤホンをしているせいで、音もなく忍び寄る黒い影に気が付かない。
男は一気に間合いを詰めると、後ろから少年のイヤホンを掴み取り、そのまま少年の首を力ずくで締め上げた。
「ひグッ」
ひきがえるを潰したような奇妙な声を出し、突然の苦痛に驚いた少年が暴れ出す。
首に手をあてても喉元に食い込む細いイヤホンのコードは、爪を掛けても引き離す事は出来なかった。
男は両腕を少年の首の後ろで交叉して、首を絞める手に力を込める。
「ぐっ、……がっ」息の詰まる少年の苦しそうな声が漏れる。
渾身の後ろ蹴りが、男の膝をしたたかに打ちつけた。
少年は首元に食らいつくイヤホンのクリップを引き、コードの緩んだ隙間を屈んでくぐり抜けると、身を翻し男と対峙した。
顔を上げた少年は、突然の襲撃者に眼を見張った。
黒いスーツを着た短髪の男が、無表情な顔に片目だけの灼眼を光らせ、少年を見据えている。
ーー間違えたか。
男の次の攻撃は少年の咄嗟に顔を庇った両腕の間をすり抜け、既に頭部を捉えていた。
男は少年の頭を鷲掴みにした右手に〝力〟を流し込む。
その途端少年は声を上げる間もなく両目と口腔からオレンジ色の炎を噴き出し、瞬く間に魂を奪い取られた。
少年の頭上に小さな水滴が浮かび、宙で静止する。
炎を噴き終えた少年の眼腔はみるみる落ち窪み、全身が水分を奪われていくように萎んでいった。それと反比例して、頭上に浮かぶ水滴がどんどん大きくなる。
数秒前までの少年の姿は、見る影もない残骸へと変わり果てた。無くなった筋肉により下顎が開き、折れた腕が垂れ下がる。
男の片腕に持ち上げられているモノは、もはや、乾燥した皮膚が骨に張り付いているだけのミイラとなっていた。
重量は右腕で持ち上げられる程に軽くなり、全身から絞り尽くされた水が球体となり形を変えながら空中に浮いている。
男が手を放すと、脱水しきってもろくなった死体は地面にぶつかる端からバキバキと砕け落ち、粉になって舞い上がった。
男が右腕を下げると同時に、浮遊する水の塊も落下し、風化した死体に当たってバシャッっと飛び散り、道の真ん中に広がっていった。
ベキリ。
乾いた肋骨を踏みつぶす生々しい音が路地に鳴り渡る。
男は死体を踏み越えると、次の標的に向かって歩き始めていた。