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3章 眠り姫と愛娘


 病室の無機質な、一見しただけでは他のものと区別がつかないような扉の前に立つと、不意に襲ってくる感覚がある。

 焦燥か、緊迫か。

 一種の気分の昂りでありながら、同時に鬱屈とした心情をも内包する不可思議な心地。

 果たしてこの扉の向こうにいる彼女は、少しでも快復しているだろうか。

 それとも、容態が悪化しているだろうか。

 まさか…………死んでしまっては、いないだろうか。

 言うなればそれは、高校や大学の受験結果を見る時の心境に似ている。早く見たい、でも見たくない――――相反する二つの気持ちが、矛盾も澱みもなく混じり合った、一言で言えば、純粋な不安。

 それを俺も、今更ながらに感じていた。

「…………さて」

 トン、トン。

 人差し指の第一関節を用いてのノック。当然ながら、中から返事はない。

「入りまーす」

 意味もあまりないだろうに、巫山戯たようにそう宣言して、俺は扉をがらがらとスライドさせた。

 純白の病室。

 無数の機械と、それから伸びるコード。

 日光が窓から燦々と降り注いでくる病室には、一人の先客がいた。

「…………ああ、桜桃? 久し振り?」

「久し振り、唄七(うたな)ちゃん」

 先客は、幼い少女だった。

 病室の奥にある、患者用のベッド。その手前に用意された小さな椅子に、少女は座っている。こちらを振り向いた時、彼女は目を真っ赤に泣き腫らしていたが、俺はそれを見ない振りをした。心配や同情を、この娘は望むまい。強くはないけど、酷く意地っ張りな娘なのだ。

 曳薗(ひきぞの)唄七ちゃん。

 俺の盗みの師匠の、その娘。


 ちりん


「…………どうしたの? 仕事、忙しいんじゃないの?」

「忙しいと言えば、まあ、忙しいんだけどね」

 朗らかに笑いながら、俺は唄七ちゃんの方へと歩み寄っていく。

 対する唄七ちゃんは、時折疲れたように首を上下させているものの、全く俺の接近を警戒してはいない。ちりん、ちりんと、三つ編みの先にぶら下がった鈴を鳴らしているだけだ。

 安心、しているのか?

 だとしたら、豪く暢気なものだ。近付いてきているのは、忌避すべき殺人鬼だというのに。

 信頼されたものである。

 無論、その信頼を裏切る腹積もりは微塵もないが。

「俺は知っての通り、泥棒さんだからね。勤勉に労働に勤しまれちゃ、世界的には迷惑なのさ。だから、俺はあまり忙しくない方がいい。その方が、世界はよっぽど平和だからな」

「そうとは思えないけど?」

 冷めた目線で俺を射抜く唄七ちゃん。刃のように鋭い視線に呼応したのか、また一つ、ちりん、と鈴が鳴った。

 唄七ちゃんの髪型は、はっきり言えばかなり変わっている。彼女は、右目の上辺りから足元まで伸びる、異様に長い薄茶色の三つ編みを持っているが、その部位以外は残らず肩より上で切り揃えられているのだ。しかも三つ編みの下端には、先程から美しい音色を奏でている鈴が取り付けられている。これ以上なく目立つポイントなのだが、頭髪に限定せず、唄七ちゃんの身体全体において、その三つ編み以外は至ってシンプルなのだ。

 薄ピンクやクリーム色など、地味で目立たない色のシャツとスカート、いわゆるツーピースと呼ばれる服装だが、如何せん三つ編みのインパクトを考えると地味過ぎる。俺自身は長い付き合いだから別だとしても、下手をすれば顔さえ印象に残らないかも知れない。

 相手に与える印象を恣意的に制御(コントロール)する。

 この娘の母親から――――師匠から、俺が教わった、基礎中の基礎の知識だ。

「…………で、どうだい? その、師匠の、容態は」

「……師匠、ねぇ? お母さん、その呼称は嫌っていたと思うけど?」

「師匠が師匠と呼ばれるのを嫌ってどうする。誰が何と言おうと、彼女は――――曳薗手毬(てまり)さんは、俺の師匠だよ。…………で、どう?」

「百聞は一見に如かず、って知ってる?」

 なんてこともないように、唄七ちゃんは最低限の動きだけで椅子から立ち上がり、俺の視界を一気に広げてみせた。

 真っ白なカーテン。

 その隙間から降り注ぐ、暖かな木漏れ日の中。

 ベッドの上で、彼女は眠っていた。

 天然パーマの黒髪を枕のようにして、口と鼻を覆う人工呼吸器で強引に息をしながら。

 師匠――――曳薗手毬さんは、眠っていた。

 傷だらけの、その身体のまま。

 3ヶ月前と、少しも変わらない姿で。

「容態? そんなもの、決まっているわ? 変化なし? その四文字が、何より如実にお母さんの容態を物語っているわ?」

 独特の、語尾を柔らかく上げる口調で、唄七ちゃんが言う。

 3ヶ月前、つまり昨年の11月末。

 手毬さんは、少年たちが万引きを行ったのを咎めた。

 俺の師匠というだけあって、手毬さんの盗みのテクニックは達人級だ。警備の厳重な博物館から美術品を盗み出すことから万引きに至るまで、こと盗みに関して曳薗手毬の右に出る者はいないし、左に出る者だって、相当に遡らなければ出ては来まい。

 そんな師匠だからこそ、他人の盗みを看破する術にも長けている。

 そして、師匠は少年たちが行うような、遊び半分巫山戯半分の窃盗を許さない。

 盗みというものは、他人を犠牲にして自身を保たせようという行いだ。謂わば自己犠牲の対極である。それは決して娯楽でやっていいものではない。自身の生活の為だと、言い訳がましく呟きながら行うものでもない。

 1盗んだら10返せ。

 10盗んだら100返せ。

 100盗んだら1000返せ。

 1000盗んだら10000返せ。

 盗人として、俺が最初に教えられた言葉だ。

 人に対して罪を犯したのなら、その罪に対して報いらなければならない。無論、それで許されるなどと思ってはいけない。自己満足に過ぎないと開き直るなどもっての他だ。盗みの罪に報いる為に盗みを働くなど愚の骨頂。

 なのに、彼らにはそれが分からなかった。

 それどころか、少年たちは師匠を様々な凶器によって暴行し、道端にゴミのように捨てたのだ。

 ボロ雑巾のようになった師匠を見つけたのは、不幸にも、娘の唄七ちゃんだった。以来彼女は、学校も休みがちになり、ずっと母親の傍にいるのだという。

 花屋の店員――――逸見(いつみ)椅織(いおり)曰く、

『んー? あー、唄七ちゃん? 五〇二号室の患者さんの、娘さんですよねー? えぇ、めっちゃ悄気てますよ? 元気なのって、桜木さんが来た時くらいなんですよねー。ああ、元気って言ったって、あのげんなり状態と比較して、ってそういう意味でしかないんですけどー』

 ……………………。

 まったく、俺はいつの間に人の支えになれるような奴になったんだか。

 自分と、そして唄七ちゃんの両方とに、少し呆れる。

「唄七ちゃん、学校へは…………?」

「行ってない? …………なにか文句でも?」

「いや、別にいいさ。義務教育すら受けていない俺が、とやかく言うことじゃない。ああ、そうだそうだそうだった。はいこれ」

 言って、手に持ったままになっていた花束を唄七ちゃんに手渡す。師匠が好きだった、チューリップの花束…………季節にはまだ2ヶ月ほど早いし、花言葉やらなんやらには疎いので、本当にこの花束が見舞いの品として相応しいのかは皆目分からないのだが、しかし手ぶらで来れるくらいに師匠不孝な奴でもない俺としては、これは結構精一杯の見舞い品である。

 果たして、唄七ちゃんはその花束を受け取ってくれた。

 なんだか少し、頬を赤らめながら。

「お、お花……? あ、そ、その……ありがとう?」

「いやいや、これくらいは当然だよ。敬愛する師匠が怪我をして、意識不明の昏睡状態が続いているんだ。弟子として、これくらいはやらないと」

「……ああ、そっかそうだよね常識的に考えてそうに決まっているか?」

「ん? どうかしたかい?」

「なんでもない? ありがとう?」

 そんな風に口では言いながらも、不機嫌そうに唇を歪めた唄七ちゃんは、慣れた手つきでベッドの脇の花瓶を、出口近くにある洗面台で洗い始めた。

 その慣れた手つきが、彼女の感じている寂しさの裏返しのようにも思えた。

「…………唄七ちゃん」

「なに?」

 こちらへ振り向くことすらせず、どこか怒ったような声音で応える唄七ちゃん。俺がなにやら不始末でも仕出かしたのか、豪い不機嫌な様子だ。頬でも膨らませてくれたのならこちらとしても対応がしやすいのだが…………なにせ、彼女は現在中学3年生、一番扱いが難しい年頃だ。特に男の俺には、女の子のそういった心の機微が全く分からない。下手に応対でもしようものなら、本気で激怒させかねない。

 それを意識していた為か、俺の口調は自然、相手の出方を窺うような慎重なものになっていた。

「その、あれだ。…………師匠を、お母さんを襲った奴らのことを、あー……どう思う?」

「どう思う?」

 声が、変わった。

 癇癪を起しそうになっているのを必死で抑えるような、子供染みた可愛らしいものから、一気に。

 地の底から響くような、怨みに満ち満ちたものに、変容していた。

「そんなの、決まっている? 決まり切っているわ? 改めて言うまでもないことだと思うけど?」

 蛇口の水を止め、握り締めた花瓶が割れそうなほどに指先の力を強めて。

 ぎりぃ、と歯軋りをしながら、唄七ちゃんは言う。

「そんなの――――殺してやりたいほど憎んでいるに、決まっているじゃない?」

「…………ま、それが妥当だよなぁ」

 殺してやりたいほどに、憎んでいる。

 自然な感情だ。

 ごくごく自然な、感情だ。

 ここで『彼らにもなにか理由があったのでしょう。私は怒ってなどいません』などと言えるような聖者は、この世にいないだろう。唄七ちゃんの気持ちは、人間としてごく普通の、ごくごく自然の、ごくごくごくごく必然の、当たり前過ぎる感情だ。俺だって、弟や妹が誰かに殺されたとしたら、その犯人を殺してやりたいと思うだろう。そして、実際にその想いを行動に移すことだろう。

 何故なら俺は、殺人鬼だから。

 人殺の――――鬼だから。

「そういう桜桃はどうなの?」

 花瓶に俺の買ってきた花たちを丁寧に挿しながら、唄七ちゃんが訊ねてきた。

 目付きが、ナイフの切っ先のように鋭く尖っている。

「あなたが師匠とまで呼んで、敬愛する私のお母さんが、こんな酷い目に遭わされて、それでもまだ黙っているの? 悪いけど、私には桜桃がそこまで温和な人間だとは思えないんだけど? …………ああ、人間じゃなくて、殺人鬼なんだっけ?」

「随分明け透けに物を言ってくるねぇ、唄七ちゃん。相手取っているこの俺が殺人鬼だと認識していて尚その物言い…………豪胆なところも、師匠そっくりだ」

「惚けないでよ? ねえ、桜桃? あなたはどうなのよ? お母さんがこんな状態にされて、なにか思うところはない訳?」

 色鮮やかな花で満たされた花瓶を枕元の台に置き、唄七ちゃんは視線を合わせることもなく問い詰めてくる。てんでバラバラの方を見ているのに、拳銃でも突き付けられているような気分だ。

 やれやれ……こりゃ、相当にお冠だな。

「勿論、俺だって唄七ちゃんと同じさ。師匠をここまで痛めつけた奴らが憎いよ。憎くて憎くてしょうがない。俺は師匠のことを、本当の母親以上に母親のようだと思っていたからね。まあ、その派生で、唄七ちゃんのことは妹のように思っている訳だが、それはひとまず置いておいて――――そうだな、唄七ちゃんの言葉を借りるなら、矢張り、『殺したいほど憎んでいる』というところか。ハハハ……ダメだなぁ、俺も。もう三十路近いおっさんだというのに、思うことも感じることも子供染みていて、まるで成長していない。みっともないと思うだろう?」

「思わないわよ? あと、26っていう年齢はおっさんに分類(カテゴライズ)されはしない?」

「……そうかい」

「寧ろ、同調するわね?」

 言って。

 唄七ちゃんは何を思ったのか、俺と師匠との間に強引に入り込んできた。

 さっきから俺は、師匠の傷だらけの痛々しい顔を覗き込んでいた訳なので、当然師匠が横たわっているベッドと俺が座っている椅子との間に、隙間などと呼べるものはほとんど存在していない。俺の膝とベッドは、あと数ミリで接触するという位置まで肉薄している為、唄七ちゃんが紙のようなペラペラの身体でない限り、その空間に収まることはできない。で、言うまでもないことだが唄七ちゃんはそれなりの厚みを持った肉体を持っているし、純粋な意味で彼女が『俺と師匠との間に強引に入り込』むことなど不可能である。

 閑話休題。では唄七ちゃんがどうやって『俺と師匠との間に強引に入り込んできた』のか。

 答えは簡単――――唄七ちゃんは、何故だか俺の膝の上に乗ってきたのだ。

 玩具の木馬に跨るような、自然な動作で。

 日常の延長であるかのような滑らかな動きで、俺の膝に跨ってきた。

 俺の顔を正面から見据えられる、その位置に。

 唄七ちゃんは、やってきたのだ。

「う、唄七、ちゃん? ど、どうし、たんだい?」

「私の口調をパクるな? …………どうしたもこうしたもないわ? 桜桃、あなたが私を妹みたいに思っているのと同じように、私もあなたを兄のように思っている? いえ、実際はもうちょっと違うかも知れないけど…………まあ、それは置いておくわ? ねえ、ねえ桜桃? お兄ちゃんってさぁ、妹のお願いを聞いてあげるものよねぇ? 桜桃だって、妹がいるんでしょ? その妹さんたちのお願いだったら、なんでも聞いてあげちゃうでしょ?」

「…………なんでもってことは、ないけどなぁ」

 少なくとも、一番上の妹に自殺の手伝いを依頼されたら、俺は即行で断る。

 でもまあ、その他のなんてことないお願いだったら…………聞いてしまうかも知れない。一番上の妹が『ライトノベルを買いたいから金貸して』と言ってきたら、無利子無担保無催促で貸してしまうし(『それは最早あげているんじゃないのか?』という疑問は基本無視)、二番目の妹が『ガソリン買いたいから金貸して』と言ってきたって貸してしまうし、三番目の妹が『気に入った骨董品を買いたいから金貸して』と言ってきたって貸してしまうし、末の妹が『とにかくお金貸して』と言ってきたって貸してしまうし…………。

 …………あれ?

 俺って、単なる金蔓になってねぇか?

「……どうしたの? 桜桃、顔色悪いけど?」

「いや、少しだけ兄としての自分の存在意義について無闇な思考をしちまっただけだ…………。ああ、大丈夫大丈夫、なんとか持ち直せた…………らいいのに」

「持ち直せてないわね? …………まあ、桜桃の都合そっちのけで私は話し続けるけど……いいわよね?」

「それはいいんだが……なんなんだ? こんな、なんか改まっちゃって。改まり方がまた凄いけど」

「お願いがあるの、桜桃?」

 ちりん。

 俯いた拍子に、三つ編みの鈴が一つ、音色を奏でた。

 スカートの端を、ぎゅっ、と握り締め、唇を噛むようにしながら、唄七ちゃんは言う。

「……お母さんを、あなたの師匠をこんな風にした奴らを、殺して欲しいの? ううん、ただ殺すだけじゃ飽き足りない、世にも惨たらしく残忍に、人間の最期じゃないっていうくらいにズタズタにして殺して欲しいのっ!? できるでしょ!? だって桜桃は、殺人鬼なんだから!?」

「……そういうことね」

 そんなことじゃないかとは、薄々勘付いていた。

 唄七ちゃんは、気が強くて意地っ張りな娘だ。滅多に他人に弱いところなど見せはしないし、人に頼み事をするなんてこともない。他人を嫌っているのではない、他人に依存するのを良しとしないのだ。

 その唄七ちゃんが、俺に頼むこと。

 そんなもの、人殺しに決まっているじゃないか。

「……………………」

「私、知ってるよっ!? 桜桃は、殺人鬼の一族なんでしょっ!? 先祖代々殺人を続けてきた家系なんでしょっ!? だったら――――だったら、奴らを殺してよっ!?」

 語尾が不自然に吊り上がる口調だけは消えないものの、唄七ちゃんは完全に取り乱していた。

 クールを気取った凛々しい顔は、涙でぐちゃぐちゃに濡れ。

 口からは嗚咽と涎が、堪え切れずに溢れ出している。

 ずっと、ずっとずっと我慢してきたのだろう。

 こんなことを――――人を殺したいなどという汚れた欲望を、誰にも話せないでいたのだろう。

 確かにこんなことは、俺くらいにしか、話せはしまい。

「名前も知らないし、顔も分からないけど――――でもっ!? でも私は、奴らが憎くて憎くてしょうがないんだよっ!? お母さんをこんな風にした奴らを、殺したくて殺したくて、もう気が変になりそうだよっ!? 助けてよっ!? 桜桃っ!? 犯人たちを全員、一人残らずぶち殺しちゃってよっ!?」

「……………………」

 なにも言葉を返すことができず、俺は黙って唄七ちゃんの背中を擦ってあげた。その行動で、唄七ちゃんの中の堰が壊れてしまったのか、あとはわんわんと声を上げて泣きながら、俺にしがみついてくるだけだった。

 背広が、ネクタイが、シャツが、涙と涎と鼻水とで、濡れていく。

 唄七ちゃんの抱えていた悲しみで、濡れていく。

「…………殺したくて殺したくて、か」

 唄七ちゃんの小さな身体を、軽く抱き締めながら呟く。

 俺の出自は《無々篠》――――この世の魑魅魍魎共が巣食う《裏の世界》でも異端中の異端として忌み嫌われ恐れられる、殺人家系だ。

 生まれついて、御し切れないほどの殺人願望と、殺人に適した特殊で異様な能力とを有した、生粋にして純血の殺人鬼。それが《無々篠》の特徴である。それはこの俺だけでなく、両親や、他の六人の兄弟にしたって同じことだ。どいつもこいつも、人間離れした殺意と、人間を失格した異能の持ち主であり、今日この瞬間も、誰かがどこかで誰かを殺していることだろう。

 呼吸するように殺人を犯す人間はいるが。

 俺たちにとって、殺人こそが呼吸なのだ。

 故に、殺人鬼――――人殺の、鬼。

 人間ではない、化物。

「…………唄七ちゃん」

「ひっ……ひぅ…………はぅ……ひっ……」

 流石に嗚咽にまでは口調も反映されないらしく、ワイシャツに顔を埋めたまま、唄七ちゃんは泣き疲れたように荒い呼吸を繰り返していた。華奢な身体もゆっくりと上下動を行っており、心臓の荒々しい拍動を感じさせた。

「……唄七ちゃん、そんなことを言っちゃダメだよ」

 俺の言葉は、もしかしたら人間としてなら、正しかったのかも知れない。

 でも、それ以上に、彼女にとっては、酷薄に過ぎる言葉だっただろう。

 唄七ちゃんは、嗚咽を漏らしながら、黙って、その言葉を聞いている。

「殺人鬼の俺がなにを、と思うかも知れないけど、でも、殺人鬼の俺だからこそ、言わせてもらうよ。人を殺したいっていう感情はね、言ってしまえば、人間として一番劣悪な感情なんだ。もうはっきりと、最悪、と言ってもいいくらいにね」

「…………」

「俺もそうだし、師匠も――――唄七ちゃんのお母さんもそう言っていたんだけど、唄七ちゃんには、そんな最低な人にはなってほしくないんだよ。人を殺して、汚れるのは自分の手だ。穢れるのは自分の心だ。貶められるのは――――自分自身だ。泥と血に塗れるのは俺一人で充分なんだよ、唄七ちゃんまで汚れる必要なんかない」

「…………桜、桃……?」

「だから、そんな悲しいことを言わないでくれ。そんな寂しいことを思わないでくれよ。許せ、とは言わない。でも、君が彼らを殺したいなんて思うべきじゃ、ないんだよ。彼らを殺してしまったら、今度は君が『悪』になってしまう。正義の鉄槌を下したつもりが、人の命を奪った人でなしに堕ちてしまう。唄七ちゃんがそうなったら、俺は勿論、師匠だってとても悲しがると思うよ?」

「………………」

「だから、そんなことを言わないでくれよ。誰かを殺すことを人に頼むなんて、君がやるべきじゃない。殺人なんかに染まらないでくれ、復讐なんかに呑まれないでくれ。俺は――――生まれつきの殺人鬼でもない妹に、殺人鬼になって欲しいとは、思わない」

「……ズルい、よ……? そんな……言い方、は……?」

 ようやく俺の胸から顔を離し、唄七ちゃんは頭を上げた。彼女の視線の先にあるのは、柔和に微笑んだ俺の顔。思いっ切り、遠慮忌憚なしに泣いた唄七ちゃんは、どこかすっきりしたようにも見えた。

「……私だって、分かってるよ……? そんなこと……言われなくったって…………?」

「……君は、頭もいいからな」

「でも……やっぱり、考えずには、いられなかった? 敵討ちだって、復讐だって…………想像することを、止められなかった……?」

「…………」

「抑えることが、できなかった……?」

「…………そうか」

 そのまま黙って、俺は唄七ちゃんを再び抱き締めた。

 さっきも言った通り、自分の肉親を酷い目に遭わせた奴らを殺したいと思うのは、驚くくらいに普通の感情だ。最早凡庸、陳腐とすら言っても差し支えない、有り触れに有り触れた感情。

 それくらいに普通な癖して、一気に人を最底辺にまで貶めてしまう、最悪の感情。

 殺人鬼よりもよっぽど化物なそれを、たった一人で我慢するのは、辛かっただろう。

 耐え切れないほどの、苦痛だっただろう。

「でも……」そう前置きして、唄七ちゃんは言う。「今日、桜桃に話して、少しだけ気分が晴れた? なんか、背中の荷物をようやく下ろせたっていう、そんな感じだよ?」

「…………そりゃ、よかった」

 殺人鬼の俺でも、人の救いになることがある。

 そう思うと、なんだか涙が出てくるようだった。

「……それじゃ、悪いけど俺はこれで――――」

 これ以上長居していたら、本当に、不覚にも泣いてしまうんじゃないかと思って(実際、さっきから目頭が熱くて堪らないし、なにより涙腺がはち切れそうになっているのが自覚できてしまっている)、不自然でもないように病室を辞そうと思って、そういった思惑で発した一言だったのだが。

 唄七ちゃんは、俺のその言葉を聞いて、瞬時に身体を硬直させた。

 言い方は頗る悪いが、まるで妖怪の児啼爺のように。

 ひしっ、と俺にしがみ付いて、動かなくなった。

「う、唄七ちゃん?」

「……お願い…………もう、少し……?」

「…………?」

「もう少しだけ――――このままで、いさせて……?」

「……………………」

 断ることも、了承することもできずに、俺はただ黙って唄七ちゃんの声を聞いていた。

 声が途切れても、唄七ちゃんの華奢な身体を抱き締めることもせず、かといって振り払うこともしないまま、ただその場で座っていた。

 憎しみに囚われたお姫様を救う騎士(ナイト)の役目なんて、この俺には相応しくもなんともないのだけど、でも。

 俺の存在で、彼女の心が少しでも癒されるのなら。

 こんな俺でも、誰かを助けられるのなら。

 そう思って、黙っていた。

 眠りに就いたかのように、二人で黙り込んでいた。

 心地のいい静寂。

 包み込んでくれるかのような沈黙。

 無音の世界。

 それが――――多分、10分かそこら、続いた頃だっただろうか。


「…………えーっとぉ……お邪魔、だったかな?」


「「っ!?」」

 スライド式の扉が開かれ、その声が発せられるまで、俺は、彼女の存在に気が付かなかった。とはいっても、それは彼女自身が特別な生まれという訳でもなんでもなく、単に俺が油断していた、というか気を抜いていたというか……まあ、その、うん、そんな感じだったからなのだが、しかし、それにしたって驚いた。二人して思わず飛び上がりそうになるくらいに驚いた。

 現れたのは、一人の少女だった。

 青いジーンズ地のオーバーオールの下に、黄色のTシャツを着込み、天然のものであろう混じりっけのない茶髪を覆い隠すように麦藁帽子を被っている。背丈は唄七ちゃんと同じくらいか、或いはそれより少し高いだろうか。照れたように笑ってはいるが、頬はどこか引き攣っていた。なにか見てはいけないものを見てしまったのを誤魔化すように、ひくひくと。

 …………まあ、笑うしかないよなぁ。

 扉を開けたら、いきなり中学生女子と20代後半の男とが抱き合ってんだから…………笑うしかないな。

 俺たちなんて、笑うことすらできていないけれど。

「…………お、お邪魔しました~」

「ま、待って待って待って!? リリィちゃんストップっ!? 誤解してる!? 絶対になんか誤解しているよリリィちゃんだから帰ってきてカムバックプリ――――――――――――――ズっ!?」

 膝の上からは頑なに下りようとはしないものの、唄七ちゃん、これまでに見たことのないような必死さ加減で、不意に出現した女の子を呼び止めている。さっきまで泣きじゃくって、叫んでいたのが嘘みたいだ。

 少女の方も、そんな唄七ちゃんの態度に半ば安心したのか、しかし残りの半分はまだなにかを疑いながら、そろりそろりとこちらに近付いてきてくれた。その様子に、俺も唄七ちゃんもほっと一息つく。あらぬ疑いでも向けられたりしたら、根無し草の俺はともかく、これから学校だってなんだってある唄七ちゃんの方が可哀想だ。

「えっと…………ひ、久し振りだね、唄七ちゃん」

「う、うん……り、リリィちゃんも……久し振り?」

「あ、あはは……えー……うん、久し振り」

「ほ、ほんと、久し振り、だよね……?」

「……………………」

 なんか、聞いていて居た堪れない会話だった。

 二人とも完全に上の空である。

「……唄七ちゃん、学校の友達かい?」

 このシチュエーションを作り出したのは、そもそもの話俺なのだから、こういう場合、上手く話をまとめるのは俺の役割だろう。騎士だの何だの、そういう格好いい役柄よりは、こっちの裏方の方が、俺には性に合っている。

 唄七ちゃんはどこか、助かった、とでも言いたげな笑顔で、再び俺の方に向き直った。

「う、うん? 私の友達の、リリィちゃんだよ? リリィちゃん、この人は、私のお母さんの友達なの?」

「そ、そうなんだ……ああ、それでか。ははぁ、成程ねぇ。うん、納得納得」

 少女――――リリィちゃんは、そこでなにかの得心がいったように、何度も何度も頷いた。その仕草を見て、何故か唄七ちゃんは頬を赤らめていたが…………どうしたんだろう?

 俺の立ち位置を知ったので安心したのか、リリィちゃんは肩の力を抜き、リラックスした姿勢で俺の方を向いた。麦藁帽子を脱ぎすてたその下には、向日葵のような笑顔が咲いている。名前は百合だけど。

「初めまして。あたしは唄七ちゃんの友達で、手遊(てすさび)リリィっていいます」

「てすさび……? 変わった名字だね」俺も人のことは言えないけど。「ああ、俺の名前は――――」

「桜桃?」

 さて、一応礼儀に則って自己紹介しておくかー、という段になって、突然唄七ちゃんが割り込んできた。

「偽名はやめてね? 私が使い分けるの、面倒だから?」

「…………はいはい」

 本当、妹的存在に弱いよな、俺は。

 まあ、普通の女子中学生に本名を名乗ったところで、バレる心配はないか。

「改めまして――――初めまして、手遊リリィちゃん。俺の名は無々篠桜桃という。よろしくね」

 言って、俺は膝から唄七ちゃんをゆっくりと下ろし、席を立った。

 これ以上、ここにいるのも邪魔になるだけだろう。折角友達も来たのだし、部外者の俺がいると話し難いことだってあるかも知れない。

「無々篠…………変わった名字ですね」

「はは、まったくだ」

 そう笑って返したが、リリィちゃんは何故だか少し不気味なにやにや笑いを浮かべていて、殺人鬼の俺ですら背筋が寒くなった。

 …………最近の女子中学生っていうのは、こんな妖艶な笑みも浮かべられるのか。

 時代っつーのは変わったねぇ。

「それじゃ、俺は行くよ。唄七ちゃん、そしてリリィちゃんも、帰る時とかは気を付けなよ」

「あ、うん……?」

 病室の扉に手をかけると、腰の辺りに妙な感覚があった。

 裾を掴まれているような、そんな感触。

「…………?」

 振り返ってみると、それは唄七ちゃんだった。

「その……ありがとね、桜桃?」

「…………それじゃ」

 なにも言えずに、ただそれだけの台詞を残して、俺は病室から出ていった。

 さて…………それでは。


「最低な殺人鬼に――――落魄れていくとしますか」


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