8.僧侶が優しすぎるとパーティは死ぬ
模擬戦まであと二日。
朝食の席で、今日の依頼について話していた。ギルドの食堂は安い焼きパンの匂いで満ちていて、隣のテーブルでは誰かがスープを盛大にこぼして怒鳴られている。日常の騒がしさが、わたしにはだんだん心地よくなってきていた。前世のオフィスの雑音と同じで、慣れると考えごとの邪魔にならなくなる。
「今日の依頼は《崩れ橋の渓谷》の護衛兼救助よ。採掘隊が渓谷で落盤に巻き込まれて、複数の負傷者が出てる。魔物も出るから、救助と戦闘を同時にやる必要があるわ」
エルトが身を乗り出した。
「救助ですか。全員助けられますよね?」
真っ直ぐな目だった。疑問ではなく確認。当然できるでしょう、という前提が声に乗っている。
わたしは、少しだけ眉をひそめた。
「エルト。負傷者は四人。うち一人は歩けない。魔物の襲撃は不定期で、前線を維持しながら救助する必要がある。あなたの魔力で、全員に同時に手を回せると思う?」
「えっと——頑張ればいけると思います」
「頑張ればいける、は作戦じゃないわ」
エルトが口をつぐんだ。わたしの言い方がきつかったのかもしれない。でも、ここは甘くしない方がいい。
「行けばわかるわ。今日はあなたの課題を確認する日よ」
ガレスがパンをちぎりながら言った。
「エルト、お前の問題は弱いことじゃねえよ。多いんだ」
「多い?」
「やろうとすることが」
ミアがフードの中からぼそっと補足した。
「……全部やろうとして、全部薄くなる。それ」
エルトは二人の言葉を聞いて、何か言いたそうにしたけれど——黙って焼きパンを口に入れた。
◇
《崩れ橋の渓谷》は、街の南東にある岩場の裂け目だった。
かつて橋が架かっていた場所は、今は鉄の残骸と崩れた石柱が谷底に散乱している。渓谷の壁面に採掘用の横穴がいくつも開いていて、落盤は中腹の第三坑道で起きたらしい。
現場に着くと、採掘隊の生存者が二人、坑道の入口付近で待っていた。顔が煤と土埃で真っ黒で、片方は腕を布で吊っている。
「中にまだ四人いる。そのうちのギルド——赤毛のギルドは足が挟まって動けねえ。他の三人は軽傷だが、奥から魔物の気配がしてて出られねえんだ」
渓谷の岩壁に沿って、灰色の蜥蜴に似た魔物がちらちらと動いているのが見えた。岩喰い蜥蜴。坑道の振動に反応して集まってくる雑食性の魔物で、単体は弱いが群れると厄介だ。
「ガレス、坑道の入口を確保。岩喰い蜥蜴が入ってこないように。ミア、渓谷の壁面に張りついている個体を上から削って。エルト、わたしと一緒に中に入るわ」
「はい!」
エルトの返事は明るかった。救助と聞いて、この子はいつもより声が弾む。それは美点だ。——でも今日は、たぶん。
坑道に入った。松明の火が落盤の粉塵を照らして、空気が白く霞んでいた。
奥で声がした。
「おーい! 来てくれたのか!」
軽傷の三人が手前にいた。切り傷と打撲。動けるが、奥の岩喰い蜥蜴が怖くて出られなかったらしい。そしてその奥——崩れた岩の下に、赤毛の中年男性が右足を挟まれて座り込んでいた。顔色が悪い。出血はそこまでひどくないが、長時間の圧迫で足の感覚がなくなりかけている。
同時に、坑道の奥から甲高い鳴き声が反響してきた。岩喰い蜥蜴の群れ。振動と血の匂いに寄ってきている。
「エルト。まず——」
「はい! 今すぐ治します!」
エルトが、わたしの指示を待たずに動いた。
赤毛の男の足に手を当てて、回復魔法を発動する。同時に、軽傷の三人にも「大丈夫ですか、痛いところは」と声をかけて——手が足りない。当然だ。
坑道の入口から、ガレスの怒声が聞こえた。
「蜥蜴が増えてきた! 五匹以上いるぞ!」
「エルト! ガレスに補助を——」
「でも、この人の足が——!」
エルトの声が裏返った。赤毛の男の回復に魔力を注ぎながら、軽傷の三人を気にして、さらにガレスへの補助も求められている。意識があちこちに飛んで、どの回復も中途半端な出力になっていた。
回復魔法の光が明滅した。安定しない。集中が分散しているからだ。
渓谷の外からミアの風刃が飛ぶ音が聞こえた。壁面の蜥蜴を撃っているが、坑道内の援護はできない。射線が通らない。
ガレスが坑道入口で三匹を相手にしていた。補助魔法がないから、いつもより動きが重い。盾で弾いて、剣で突いて、でも数が——
四匹目が横から飛び込んできた。ガレスの脇腹に爪が走る。浅いけれど、血が出た。
「エルト!」
わたしは声を上げた。
エルトは赤毛の男の足から手を離せない。離したら、圧迫で壊死が進む。でもガレスが倒れたら、坑道の入口が開いて蜥蜴が雪崩れ込んでくる。そうなったら全員が危ない。
エルトの目が揺れていた。赤毛の男とガレスと軽傷の三人を、全部同時に見ようとして——どこも見えていなかった。
「全員守らなきゃ——全員——」
声が震えていた。
「エルト」
わたしはエルトの前に立った。しゃがんで、視線を合わせた。
「全員を一度に救うという選択肢は、誰も救えないのと同じよ」
エルトの目がこっちを向いた。涙が溜まっていた。
「でも——この人も、ガレスさんも——」
「聞きなさい。まずガレスを立たせる。ガレスが入口を塞いでいる限り、中にいる全員は安全。ガレスが倒れたら、全員が危険になるの。順番はこうよ——ガレスに補助。次にこの人の足。軽傷の三人は最後。この順番なら、全部間に合う」
「でも——」
「あなたの優しさは間違ってないわ」
エルトの肩がびくっと跳ねた。
「でも、順番を間違えたら、その優しさごと潰れるの。——わかる?」
エルトの唇が震えていた。鼻の奥が赤くなっていて、泣くか泣かないかの境界線上にいるのが見えた。
三秒ほど、長い沈黙があった。坑道の奥で蜥蜴の爪が岩を引っ掻く音がやけにはっきり聞こえた。
エルトが、赤毛の男の足から手を離した。
「ごめんなさい——少しだけ待ってください」
赤毛の男が痛みに顔をしかめたけれど、うなずいた。「いいから行け、坊主」と、かすれた声で言った。
エルトが立ち上がって、坑道の入口に向かって走った。
「ガレスさん!」
補助魔法がガレスを包んだ。光が安定していた。さっきまでの明滅が嘘みたいに、一人に集中した魔力は淀みなく流れた。
ガレスの足が止まった。さっきまでずるずる下がっていた立ち位置が固定される。盾を構え直して、蜥蜴の突進を正面から受け止めた。
「——遅えぞ」
「すみません!」
「冗談だ。助かった」
ガレスが蜥蜴を二匹まとめて弾き飛ばした。補助が乗った盾の一撃は重くて、岩壁にぶつかった蜥蜴がずるずると滑り落ちた。
わたしは振り返った。
「ミア、坑道入口の右上、岩の出っ張りに一匹張りついてる。角度きついけど——」
「……見えてる」
風刃が飛んだ。坑道の入口上部にへばりついていた蜥蜴が、ぺたりと地面に落ちた。
入口が安全になった。ガレスの前から蜥蜴がいなくなった。
「エルト、戻って。足の人を仕上げなさい」
「はい!」
エルトが駆け戻って、赤毛の男の足に再び手を当てた。今度は回復魔法の光が一定だった。揺れない。迷いがない。一人に集中して、確実に治す。
岩を少しずつずらしながら——ガレスが戻ってきて、素手で岩を持ち上げた。赤毛の男の足が解放される。エルトの回復が損傷を修復していく。
軽傷の三人には、最後にまとめて軽い回復をかけた。切り傷と打撲程度なら、出力を落としても問題ない。
全員が、坑道の外に出た。
◇
渓谷の入口まで負傷者を運んで、救護の馬車に引き渡した。赤毛の男はまだ足を引きずっていたけれど、命に別状はない。軽傷の三人も自分で歩けた。
エルトは馬車が去るまで見送っていた。目元がまだ赤い。
「エルト」
「……はい」
「泣いてる?」
「泣いてません。泣いてないです」
泣いていた。鼻声だったし、右目の下に涙の跡があった。でも、まあ。
「今日、途中で止まったわよね。あの人の足から手を離したとき」
「……はい」
「辛かった?」
エルトが小さくうなずいた。
「目の前で苦しんでいる人から手を離すのが——すごく、嫌でした。でも」
エルトが自分の手を見た。さっきまで回復魔法を注いでいた手のひらが、わずかに光の残滓で青白く光っている。
「順番を決めたら、一人ずつちゃんと治せました。全部同時にやろうとしたときは、誰も——ちゃんと治せてなかった」
「そうね」
「ヴィクトリアさんの言う通りでした。順番を間違えたら、優しさごと潰れるって——本当にそうでした」
わたしはエルトの肩を、ぽんと一度だけ叩いた。二度は叩かない。この子に必要なのは慰めじゃなくて、確認だから。
「あなたの仕事は、全員を助けることよ。それは変わらない。ただ——全員を同時にじゃなくて、正しい順番で。それだけの違いよ」
エルトがもう一度うなずいた。今度は深く。
ガレスが水筒の水を頭からかぶっていた。脇腹の傷はエルトに治してもらったらしく、もう塞がっている。
「おい、エルト」
「はい?」
「お前の補助、今日は二回目の方がよく効いた。最初のやつはなんか薄かったぞ」
「それは——すみません。最初は他のことも同時にやろうとしてて」
「だろうな。二回目は厚かった。ああいうのでいい」
ガレスらしい感想だった。褒めているのか指摘しているのか境界が曖昧だけれど、エルトには伝わったらしい。少しだけ笑った。
ミアがフードの奥からぼそっと言った。
「……次、模擬戦」
四人が顔を見合わせた。——自然に。誰かが号令をかけたわけでもなく、顔を見合わせた。
「ガレスは前で止める。ミアは指示通り撃つ。エルトは順番通り支える。わたしが盤面を見る」
声に出して確認した。四人分の役割を。
ガレスがうなずいた。ミアがフードの中で小さくうなずいた。エルトが「はい」と言った。
「これで、ようやく土俵に立てるわ」
「土俵って何」
ガレスが聞いた。
「戦う準備ができた、って意味よ」
「最初からできてなかったのか」
「できてなかったわよ。四日前のあなたたちは、強い余り物が三人いただけ。今は——」
言いかけて、少し考えた。
「まあ、チームよ。たぶん」
「たぶんって何だ」
「確信は模擬戦が終わってからにするわ」
ミアが「慎重……」とぼそっと言って、エルトが「でも楽しみです!」と拳を握った。ガレスは肩をすくめて大剣を背負い直した。
夕方の渓谷に、冷たい風が吹き込んできた。崩れた橋の鉄骨が風に鳴って、低い音を立てている。その音が谷底で反響して、別の何かの声に聞こえなくもなかった。
明後日が模擬戦。明日は最終確認。
勝てるか、と自分に問う。正直に答えるなら——戦力差は埋まっていない。レベルも経験も、あちらが上だ。
でも、勝ち方は一つじゃない。
わたしは勇者じゃない。だから、勇者と同じ勝ち方をする必要もない。
崩れた橋の向こうに、最後の夕陽が沈んでいくのを見ながら、わたしは模擬迷宮の見取り図を頭の中で広げた。旗が三本。通路が複数。制限時間三十分。
あの迷宮の中で、レオン・アークライトは何を優先するだろう。
答えは——たぶん、もう見えている。




