3.ボスを口説き落として何が悪い
「倒さなくていいって、どういう意味だ」
ガレスが柱の影から声を上げた。大剣を支えにして片膝をついている。疲労と困惑が五分五分の顔だった。
「意味のまんまよ。あのオーガ、わたしたちを殺したいんじゃない。追い出したいの」
「追い出したい……?」
エルトが目を丸くした。棍棒が空を薙いで、風圧だけで石の欠片が飛ぶ。祈りの姿勢のまま後ろに下がっている。
「見て。あいつが守っているのは自分じゃなくて、奥の通路。わたしたちがあそこに近づかないように動いてる。縄張り意識が強い個体なのよ」
「……それで?」
ミアが杖を構えたまま、小さく聞いた。
「交渉するわ」
三拍くらいの沈黙があった。ファイアボルトの残り火がぱちぱちと岩肌を焼く音だけが聞こえた。
「お前、モンスターと交渉するって言ってるのか」
「ええ」
「正気か」
「正気でなかったら、戦闘スキルなしでダンジョンに来ていないわ」
ガレスが何か言いかけて、口を閉じた。反論が見つからなかったというより、反論する気力がもうなかったのかもしれない。
「作戦を変えるわ。短くまとめるから聞いて」
わたしは柱の裏から全体を見回した。オーガが息を整えている。次の攻撃まで十秒ほどの猶予がある。
「ガレス、左柱の一番奥まで下がって。奥の通路に近い位置を取りなさい。ただし入り口は塞がないで。あいつの退路を残すの」
「退路を——」
「残すの。いい? ミア、天井の亀裂。さっき撃った場所の隣、まだ崩れかけてる岩棚があるでしょう。あれを崩せる?」
「……崩すだけなら。残りMPで一発」
「一発で十分。でもまだ撃たないで。わたしの合図まで。エルト、わたしに障壁を張って」
「ヴィクトリアさんに、ですか?」
「ええ。わたしが前に出るから」
エルトの顔色が変わった。白いローブに汗が滲んでいるのが、松明の光で妙にくっきり見えた。
「前に出るって——戦闘スキルがないのに——」
「だから障壁がいるのよ。質問は後。今は動いて」
◇
作戦はシンプルだった。
交渉は、会話の前に盤面で勝つものだ。前世の取引先との打ち合わせで死ぬほど学んだ。向こうがテーブルに座る前に、座る椅子の高さを変えておく。資料の並びで結論に誘導する。最初に不利だと思わせたら勝ち。——やることは同じだ。
ガレスが奥に移動することで、オーガにとっての退路が「開いているけど脅かされている」状態になる。ミアの天井崩落は、実際にオーガを潰す火力じゃない。でも「この場所は危険だ」と思わせるには十分だ。
そしてわたしが前に出る。
足が震えた。膝の裏に嫌な汗が伝う。三メートルの変異オーガの前に、レベル1の令嬢が一人で歩いていく。どう考えても正気じゃない。でも——こいつが知性で動く個体だとしたら、一人で近づく人間は「群れの交渉役」に見える。たぶん。おそらく。
たぶんとおそらくで命を賭けるの、前世でもなかったな。
エルトの障壁がわたしを包んだ。薄い青白い光の膜。頼りないけど、ないよりはましだ。
柱の影を出た。
オーガの黄色い目が、わたしを捉えた。
◇
近い。
三メートルの巨体が、五歩先にいる。灰色の肌に浮いた黒い紋様は、近くで見ると脈打つように動いている。こいつの体温を肌で感じる距離。棍棒を振り下ろされたら、障壁ごと潰される。
呼吸が浅くなる。視界の端がちりちりする。怖い——本当に怖い。
でも、わたしの頭は、怖いときほど動く。
オーガが棍棒を持ち上げた。
わたしは——笑った。
口角を上げて、背筋を伸ばして、顎を少し引いた。前世で偉い人間に見えるように練習した立ち姿。悪役令嬢が平民を見下すときの、あの角度。
威圧Lv5が、起動した——と思う。ステータスに明確なエフェクトがあるわけじゃない。でも、わたしの体から何かが広がるのを感じた。空気が重くなるような、こちらの存在感が膨らむような。
オーガの動きが、止まった。
棍棒が振り下ろされない。黄色い目がわたしを見ている。威嚇じゃない。値踏みしている。
知性がある。やっぱりそうだ。
「——あなた、この部屋を守っているのでしょう」
声を出した。話術Lv8。言葉が通じるかどうかはわからない。でも——声のトーン、抑揚、間の取り方で、意味を伝えることはできるかもしれない。交渉は七割が非言語だと、前世のセミナーで聞いた。
オーガが低い唸り声を返した。敵意じゃない。応答だ。
「わたしたちは、あなたの巣を奪いに来たんじゃないわ」
一歩、下がった。自分から距離を取ることで、敵意がないことを示す。同時に、視線だけは外さない。目を逸らしたら、格下だと判断される。
「でも」
声のトーンを少し落とした。
「このまま戦えば、あなたも無傷じゃ済まないわよ」
右手を上げた。ミアへの合図。
天井が崩れた。
アイスランスが残りの岩棚を砕いて、オーガの右側に岩の塊が降り注ぐ。直撃じゃない。でも衝撃で床の亀裂が広がって、足場がさらに悪くなった。部屋全体が軋むような音を立てている。
オーガが初めて——怯んだ。
棍棒の先が下がる。目が天井と床を交互に見る。こいつは知性がある分だけ、危険の計算もできる。この部屋が崩れたら、自分の縄張りそのものが潰れる。
「脅し」は通った。次は「理屈」。
「あなたはたぶん勝てるわ。でも、天井がもう一回崩れたら、この部屋は使い物にならなくなる」
言葉の細部が通じているかはわからない。でもわたしの声のトーンと、実際に崩れた天井と、足元の不安定さが、同じメッセージを送っている。——ここにいると損をする。
「奥の通路は空けてあるわ。退いてくれれば、わたしたちはここから先に入らない。お互い、損のない話だと思うけれど」
最後に「利益提示」。
退路がある。追わない。部屋は渡す代わりに巣は壊さない。
オーガの黄色い目が、わたしの後ろを見た。ガレスの位置を確認している。ガレスは奥の通路に近い位置にいるが、入り口は塞いでいない。通れる。退ける。
五秒。十秒。十五秒。
時間の感覚が伸びきっていた。心臓の音が耳の中で反響していて、自分の鼓動なのか、オーガの足音なのか区別がつかない。
オーガが、棍棒を下ろした。
地面に突き立てるように。武器を構える姿勢じゃない。杖のように体を支える姿勢だった。
そして——背を向けた。
わたしたちに背中を見せて、奥の通路に向かって歩き始めた。床が一歩ごとに揺れる。三メートルの灰色の背中が、暗い通路に呑まれていく。途中で一度だけ振り返って、わたしを見た。あの黄色い目に浮かんでいたのは怒りじゃなかった。何だったのかは——正直わからない。わからないまま、巨体が闇に消えた。
静かになった。
◇
しばらく、誰も動かなかった。
松明の火がぱちぱちと爆ぜる音だけが、やけに大きく聞こえていた。
それから——ぴん、と透明な音がした。
目の前に半透明のウィンドウが浮かぶ。
——『ダンジョンクリア:ゴブリンの巣窟』
——『クリア方法:無血突破』
——『ボーナス経験値:通常の2.5倍』
無血クリアボーナス。
わたしは、そのウィンドウを三回くらい読み直した。
「……お前、ボスと話して勝ったぞ」
ガレスが大剣を肩に担いだまま、信じられないという顔でこっちを見ていた。声にはまだ戦闘の余韻が混じっていて、少し掠れている。
「MPなかったのに……」
ミアがフードの奥で呟いた。杖を持つ手から力が抜けて、壁にもたれかかっている。
「神ですか?」
エルトが目を潤ませていた。本気で聞いている表情だった。
「悪役令嬢よ」
腕を組んで答えた。足の震えはまだ止まっていなかったけれど、声だけは平気なふりを貫いた。
◇
ギルドに帰ったのは夕方だった。
受付のセシリアにダンジョンカードを出した。カードに記録されたクリア情報が受付の水晶に映し出される。セシリアの手が止まった。
「……無血突破?」
「ええ」
「ボスを——交渉で?」
「ええ」
セシリアがわたしの顔と、水晶と、もう一度わたしの顔を見た。
隣のカウンターにいた冒険者が、覗き込んできた。
「何だって? C級ダンジョンのボスを交渉で? 嬢ちゃんたちが?」
「嬢ちゃんじゃなくてパーティリーダーよ」
わたしの訂正は聞こえなかったらしい。その男が振り向いて、別の冒険者に話しかけた。そこからまた別の誰かに伝わって、三分もしないうちにギルドのフロア全体がこっちを見ていた。
「おい、あの子たち初陣だぞ」
「戦闘スキルなしの令嬢が指揮取ったって?」
「無血突破ボーナスって本当に出るのか」
ざわざわと波紋が広がる。最初は失笑混じりだった空気が、セシリアが報告内容を正式に読み上げた瞬間に変わった。
「パーティ『ノブレス・オブリージュ』。リーダー、ヴィクトリア・フォン・シュヴァルツ。役割:指揮。ダンジョン『ゴブリンの巣窟』、ボス階層を無血突破。クリアランク——A。無血突破ボーナスにより、通常経験値の2.5倍を付与します」
Aランククリア。初陣で。
フロアが静まった。
静まってから、ざわめきが戻ってきた。さっきとは質が違う。嘲笑じゃなくて、困惑と、少しの畏怖。
「嘘だろ」
「初陣でA——」
「いや待て、戦闘スキルなしで?」
わたしは黙って立っていた。反論する必要はない。結果が勝手に語ってくれる。
悪役令嬢は、言葉よりも事実で黙らせるものよ。——前世で読んだ小説に、そんなセリフがあった気がする。
◇
「令嬢指揮官」
誰が最初に言ったのかは、わからなかった。
カウンター席で飲んでいた中年の剣士が、笑いながら言ったのかもしれない。掲示板の前で仲間と話していた弓使いの女が、半ば冗談で口にしたのかもしれない。
でも、それがフロアの中を転がるように広がっていくのは聞こえた。
「令嬢指揮官って」
「ぴったりだな。お嬢様が指揮取ってボスを口説くって」
「口説き落とすって言えよ、もっと面白いだろ」
笑いが起きている。でも、目は笑っていない冒険者が何人かいた。こちらの力量を測ろうとしている目。あるいは——ありえないものを見た目。
ガレスが腕を組んで壁に寄りかかっていた。
「令嬢指揮官か。悪くねえ」
「あなたに言われても嬉しくないわ」
「素直じゃねえな」
ミアがカウンターの端で小さくなっていた。人が多すぎて限界が近い顔をしている。でも——わたしが視線を向けたら、フードの奥から目だけ出して、小さく何か呟いた。
「……ちょっとだけ、楽しかった」
聞き返す前にフードの中に戻ってしまった。
エルトが興奮した顔で戻ってきた。どこかで他の冒険者と話していたらしい。
「ヴィクトリアさん! みんなすごいって言ってます! 初陣で無血突破なんて前例がないって!」
「当然の結果よ」
言い切ったあとで、少しだけ口の端が緩んだのを自分で感じた。——前世では、何をやっても「まあこんなもんか」で終わっていた。褒められた記憶があまりない。だから、こういうの、慣れてない。
胸の奥のどこかが、じんと熱かった。その熱の正体を考える前に、セシリアが声をかけてきた。
「ヴィクトリアさん。ギルド長がお呼びです」
◇
ギルド長室は二階の奥にあった。
重い扉を開けると、樫の大机の向こうに初老の男が座っていた。白髪交じりの短髪に、古い傷跡が走る顎。引退した冒険者特有の、無駄のない体の使い方をしている。名前はドノヴァンと、セシリアが教えてくれた。
「座りなさい」
言われるまま、向かいの椅子に座った。机の上に、わたしたちのクリア報告書が広げてある。
ドノヴァンがじっとこちらを見た。値踏みするような視線だった。ガレスやミアの視線とは違う。もっと深い場所を探ろうとしている目だ。
「お嬢さん。本当に初陣かい」
「本当よ。今日ギルドに登録したばかり」
「登録は知っている。聞きたいのはそこじゃない」
ドノヴァンが報告書に目を落とした。
「無血突破。C級ダンジョンのボス階層を、戦闘を回避してクリア。パーティの平均レベルは——15にも届いていない」
「わたしがレベル1ですから、平均を下げているわね」
「レベル1で、この指揮か」
間があった。ドノヴァンの指が、机の上で一度だけ叩く音がした。
「こんな勝ち方は前例がない」
声のトーンが変わった。さっきまでのベテラン冒険者の余裕ではなく、理解できないものを前にした人間の声だった。
「ボスモンスターとの交渉によるクリアは、ギルドの記録を遡っても見つからない。少なくとも、この支部ではね」
「わたしも初めてだったから、前例を聞かれても困るわ」
「前例がないから困っているんだ、こちらは」
ドノヴァンが椅子の背にもたれた。木が軋む音がした。
「どこで覚えた。この戦い方——いや、この勝ち方を」
何と答えるべきか、少し迷った。前世の会社員経験と悪役令嬢小説の知識です、とは言えない。
「……人を見るのが得意なだけよ。誰がどこに立てば一番強いか、何をすれば一番得かを考えるのが。特別なことじゃないわ」
嘘はついていない。でも全部は言っていない。ドノヴァンの目が細くなった。信じているかどうかは読めなかった。
「まあいい。今は」
ドノヴァンが引き出しを開けて、報酬の袋を差し出した。ずっしりと重い。
「無血突破ボーナス込みだ。受け取りなさい。そして——」
一拍、間があった。
「また、見せてもらうよ。お嬢さんの勝ち方を」
わたしは報酬を受け取って、部屋を出た。扉を閉める直前、ドノヴァンが机の上の報告書をもう一度手に取るのが見えた。何かを確かめようとしている横顔だった。
◇
一階に降りると、三人が待っていた。
ガレスが壁に背中を預けて腕を組んでいる。ミアがカウンターの端で足をぶらぶらさせている。エルトが姿勢良く立って、わたしの顔を見た瞬間に表情が明るくなった。
「報酬、もらったわ。四等分する」
「均等でいいのか。お前が全部仕切ったんだろうに」
「指揮官の取り分を多くしたら、ただの搾取じゃない。わたしは悪役令嬢であって悪徳令嬢じゃないわ」
「……何が違うの、それ」
ミアがフードの奥から言った。
「品格よ」
ガレスが吹き出した。ミアがうっすら口角を上げた——気がする。フードのせいで確証がない。エルトは素直に笑っていた。
「明日も依頼を受けるわ。朝、ここに集合。遅刻は認めない」
「おう」
「……はい」
「はいっ!」
三人の返事がばらばらに重なった。統一感のかけらもない。でも、なぜかそれが——ちょうどよかった。
転生したとき、わたしは確かに焦っていた。
悪役令嬢に転生した。断罪されるかもしれない。破滅エンドが待っているかもしれない。
でも、この世界には断罪イベントなんてなかった。
王子もいない。聖女もいない。学園もない。
あるのは、モンスターと、ダンジョンと、レベルアップと。
そして、わたしを必要としてくれる仲間たち。
「ヴィクトリア、次のダンジョンどこ行く?」
「Sランクの竜の巣窟、行ってみない? 策略Lv10ならドラゴンとも交渉できるかも」
「やめてください! ドラゴンは話が通じないって図鑑に書いてありましたよ!」
「大丈夫よ。話が通じない相手を説得するのが、話術Lv8の本領だから」
「それ話術じゃなくて詐術では……」
わたしは笑った。
悪役令嬢のスキルが、RPGの世界で無双するなんて思わなかった。
断罪イベントは来なかった。代わりに来たのは、最高の冒険だった。
前世のわたしへ。
会社辞めて正解だったよ。——いや、死んでるから辞めたとは言わないか。
まあいいや。
明日もダンジョンに潜ろう。
悪役令嬢は今日も、口先三寸で世界を渡る。




