19.Aランクボスにも撤退はあります
通路が終わった。
壁面の古代文字が途切れる場所――そこが扉だった。
扉というより、岩盤がそのまま左右に開いた裂け目だ。隙間から吹き込む空気が冷たくて、湿っていて、重い。生き物の匂いがする。大きな、古い生き物の。
「ここか」
ガレスが大剣の柄を握り直した。指の関節が白くなるくらい力が入っている。目はまっすぐ前を向いていて、口の端が持ち上がっている。
――この男は本当に、強い敵の気配で笑う。
「ミア、気配は」
「……でかい。一体。動いてない」
ミアの声が低い。杖を両手で抱えるように持って、フードの奥の目だけがわずかに光っている。
魔力感知で何かを読んでいるのだろう。その眉が寄っている時点で、中にいる者が尋常じゃないのはわかった。
「神よ、どうか――」
「祈るのは後にして、エルト。情報整理が先よ」
「は、はい」
エルトが慌てて祈りの手を解いた。本人に悪気はない。
怖い時に祈るのはこの子の初期動作だ。でも今は、祈る暇があったら聞いてほしいことがある。
わたしは壁面に刻まれた古代戦術盤の一節を指でなぞった。
ここ数日で読めるようになった――正確には、「見えるようになった」文字。
壁の模様にしか見えないものが、私の目にだけ配置図として見える。その異常さについてはもう考えた。考えて、結論が出ないまま保留にしている。今は使えることが重要だ。
「この先に居るのは石守りの巨人。古代遺跡の番人として配置された存在で、Aランク相当。戦術盤の記述によると――」
指先が特定の模様の上で止まった。
「こいつの最優先行動は、核の保全。部屋の中央に魔力の核がある。それを守ることだけがこの巨人の存在理由。侵入者の殲滅は二の次」
「殴れるのか殴れないか、どっちだ」
ガレスが聞いた。シンプルでいい。
「殴れる。でもリスクが大きいわ」
戦術盤の情報を頭の中で組み立て直した。核の保全が最優先ということは、核が脅かされない限り巨人は防衛行動に留まる――はず。
逆に核に手を出そうとすれば、全力で排除にかかる。Aランク相当の全力を、今のわたしたちが受けきれるか。
「ガレスが前衛で粘って、ミアが遠距離で削って、エルトが回復し続ければ――たぶん倒せる。でも全員が限界まで消耗する。ここからギルドまでの帰路で何かあったら詰むわ」
「……帰りたい」
ミアが小さく言った。
「帰るわよ。全員無事で。――だから、別の方法を使う」
三人の視線がわたしに集まった。ガレスは「またか」という顔。ミアは「知ってた」と言う顔。エルトは「何でもやります」と言う顔。
もう少しバリエーションが欲しいところだけど、信頼されている証拠だと思うことにする。
「交渉するわ」
「Aランクの魔物と?」
ガレスの声に呆れはなかった。純粋な確認だ。
「知性があるなら、話は通る。通らなかったら――その時はガレスの出番よ」
「そっちのほうがわかりやすい」
「わかりやすい方を使わないで済むように頑張るから、黙ってみていなさい」
◇
岩の裂け目を抜けた。
広間だった。天上が見えないほどに高い。壁面に青白い功績が埋め込まれていて、薄暗い光が空間全体を照らしている。床は磨かれた石板で、中央に――台座がある。台座の上に、拳大の魔力結晶が浮かんでいた。核だ。
そして、その前に。
立っていた。
石だった。
石が人の形をしている――いや、人型に組み上げられた岩の塊が、二本の足で立っている。高さは四メートルを超える。腕は丸太ほどの太さで、表面に苔と古い紋様が這っている。頭部に当たる場所に、二つの青い光点。目だ。
その目が、わたしたちを見た。
空気が変わった。重くなったんじゃない。空気そのものが巨人の意思で満たされるような感覚。
一歩踏み出すだけで膝が重い。威圧――いや、これは領域だ。この部屋全体が、こいつの支配下にある。
ガレスの足が半歩前に出た。大剣を構えようとしている。
「待ちなさい」
わたしの声が思ったより硬かった。ガレスの足が止まる。
巨人は動かない。わたしたちを見ている。あのゴブリンの巣のオーガと同じだ――侵入者を値踏みしている。ただし格が違う。あのオーガが番犬だとしたら、こいつは城門の衛兵だ。
命令に忠実で判断力があり、そして圧倒的に強い。
わたしは一歩前に出た。
足が震えた。初日のオーガの時も震えたけれど、あの時とは比較にならない。体の芯が冷える感覚。
でも――頭は動いている。怖いときほど、わたしの頭は動く。
「エルト、障壁」
「……はい」
エルトの手から光が伸びて、わたしを包んだ。気休め程度の防御。でもないよりはまし。
巨人の青い目がわたしを追った。一歩近づくごとに、空気の圧が増す。三メートル――これ以上は近づけない。体が言うことを聞かない距離。
わたしは立ち止まった。背筋を伸ばして、顎を引いた。悪役令嬢の立ち姿。威圧Lv5を意識する。
こいつの圧に対抗できるほどの力はない。でも――「怯えていない」と見せることはできる。
巨人の青い光点が、わずかに細くなった。――瞬きだ。こいつは瞬きをする。
「わたしたちは、核を壊しに来たのではないわ」
声を出した。話術Lv8。言葉の意味が通じるかどうかはわからない。でもトーンと意思は伝わる。前に交渉した相手はオーガだった。今回はそれよりはるかに知性が高い存在。伝わるかどうかじゃない――伝えなければならない。
巨人が反応しなかった。腕が持ち上がりもしないし、下がりもしない。ただ見ている。
――まだ足りない。言葉だけでは。
「ガレス。武器を下ろして。ゆっくり」
「……本気か」
「本気よ」
三秒の間があった。それから、金属が石に触れる音がした。ガレスが大剣の切っ先を床につけた。構えを解く――前衛が武器を下ろすのは、最大の譲歩だ。
「ミア、杖を下げて」
「……わかった」
ミアの杖が下がった。
わたしたちが武装解除する姿を、巨人は見ていた。
青い光点がわたしからがガレスへ、ガレスからミアへ、ミアからエルトへ動いた。
――こいつは確認している。全員が攻撃意思を捨てたかどうかを。
知性がある。やっぱりそうだ。
「わたしたちが欲しいのは、この部屋の先にある通路への通行よ。核には触れない。部屋も荒らさない。通してくれれば、それだけで十分」
巨人が低い音を発した。喉があるかどうかもわからないが、岩が軋むような振動が床に伝わってきた。応答――ではないかもしれない。判断の途中だ。
ここで待つ。急かさない。交渉は相手のペースを壊した側が負ける。
十秒。二十秒。三十秒。
長い。長すぎる。ガレスの気配が背後で揺れた。大剣に手を伸ばしかけている――。
「待って」
小声で制した。ガレスの手が止まった。
巨人が一歩歩いた。
床が揺れた。エルトが小さく悲鳴を上げた。四メートルの岩塊が歩くと、それだけで地震になる。
だが――動いた方向は、前ではなかった。
横だ。
巨人が核の前から一歩横にずれた。台座と核を背にしたまま、わたしたちと奥の通路の間にある立ち位置を——わずかに開けた。
通路が見える。巨人の体の横に、暗い通路の入口が覗いている。
通れる。
ただし——巨人の腕の届く範囲を通らなければならない。信用はしていない。核から目を離す気もない。でも通行は許す。それが巨人の回答だった。
甘い条件じゃない。むしろ厳しい。通っている最中に少しでも核に気を向ければ、あの腕が振り下ろされるだろう。でも——通れる。
「……ヴィクトリアさん、これは」
エルトが声を震わせている。
「通行許可よ。条件付きの。——全員、核を見ないで。壁沿いに歩いて。ゆっくり、静かに」
わたしが先頭に立った。巨人の腕の下を通る。近い。岩の匂い——何百年も動かなかったものが動いた時の、乾いた埃の匂いがする。青い光点がわたしの頭上にある。見下ろされている。
五歩。六歩。七歩。通路の入口が近づく。
背後でガレスの足音。ミアの息づかい。エルトの祈りの唇が動く音。
通路に入った。
振り返ると、巨人は元の位置に戻っていた。核の前に立ち、こちらを見ている。青い光点が、最後にもう一度だけ瞬いた。
それが何を意味したのかは——わからない。
◇
通路を進んで、広間の気配が完全に消えてから、ガレスが壁に手をついた。
「……生きた心地がしなかった」
「あなた、さっき笑ってたじゃない」
「あれは別だ。引きつってただけだ」
ミアが通路の壁に背をつけて、ずるずると座り込んだ。いつもの動きだけど、今日は崩れ方が速い。
「Aランクの圧、初めて受けた……死ぬかと思った……帰りたい……」
「帰り道はあの部屋を通らなくていいわ。一方通行の別ルートがある」
「……よかった」
ミアの声から、本当に安堵の色が聞こえた。
エルトが水筒を配り始めた。手がまだ震えている。でも全員に行き渡らせてから自分の分を飲むあたり、この子はどんな状況でもお人好しが抜けない。
「ヴィクトリアさん。あの巨人、言葉がわかっていたんですか」
「全部はわからなかったと思う。でも——意図は伝わった」
「意図って、具体的には」
「『壊しに来ていない』と『通りたいだけ』。この二つ。あとは武装解除で裏づけた」
エルトが口を開きかけて、閉じた。何か言いたそうだったが、整理がつかなかったのだろう。代わりにガレスが言った。
「お前のやり方、もうわかってきた。でも毎回心臓に悪い」
「慣れなさい」
「慣れるかあんなもん」
◇
遺跡を出たのは夕刻だった。
ギルドに戻ると、ドノヴァンがカウンターの奥に立っていた。わたしたちの報告を聞くためではなく——たまたまそこにいたような立ち方だったが、わたしたちが入ってきた瞬間に視線が動いた。
セシリアに報告書を提出する。Aランク相当の遺跡番と遭遇、交渉により通行許可を取得、戦闘なし。セシリアのペンが一瞬止まった。もう驚かないと決めたような顔で、黙って書き写している。
「ヴィクトリアさん」
セシリアが報告書を綴じながら言った。
「来週、合同攻略依頼の編成会議があります。ギルド長から、ノブレス・オブリージュにも参加の打診が出ています」
「合同攻略?」
「複数パーティで大規模ダンジョンを攻略する案件です。今回は六パーティ合同になる見込みで——」
セシリアがちらりとドノヴァンの方を見た。ドノヴァンは腕を組んだまま、何も言わなかった。ただ、小さく顎を動かした。続けろ、という意味だろう。
「指揮補佐の枠が一つ空いています。ヴィクトリアさんの名前が、候補に挙がっています」
わたしは扇子を開いた。口元を隠す。これは考える時間を作るための癖だ。
合同攻略。複数パーティの指揮。わたしのやり方が身内だけで通用する技術なのか、それとも外に出しても機能するのか——その試験だ。
ドノヴァンの視線を感じた。あの人は何も言わない。でも——この打診を出したのはあの人だ。Aランクの遺跡番と交渉で通った報告を聞いて、確信を深めたのだろう。
偶然でも、特殊例でもない。これは——攻略思想だと。
「お受けするわ」
扇子を閉じた。
「それはもう、令嬢の嗜みですもの」
ガレスが後ろで鼻を鳴らした。ミアがフードの中で何か呟いた。エルトだけが真顔で頷いていた。
合同攻略。他人のパーティにまで、わたしの指揮が届くかどうか。
——面白いじゃない。
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