閑話 前衛は賭場でも退かない
異変に気付いたのは、朝だった。
ギルドの食堂でいつもの席に着いたら、ガレスがいない。
ミアはテーブルに突っ伏している。平常運転。
エルトは湯気の立つスープを両手で包んで、ふうふう冷ましている。平常運転。
だがガレスの席だけが空で、パンも残っている。
「ガレスは?」
「あ、ガレスさん、今朝はもう出かけましたよ。何か用事があるって」
エルトが首をかしげた。わたしも首をかしげた。ガレスに用事。嫌な予感しかしない。
あの男の用事といえば、剣の手入れか、飯か、酒か。朝からやる用事はそのどれでもないはずだ。
「……昨日の夜、酒場で誰かと盛り上がってた」
ミアが突っ伏したまま呟いた。片目だけ開いている。
「盛り上がってた?」
「サイコロ振ってた。すごい楽しそうだった。……うるさかった」
サイコロ。
嫌な予感が、確信に変わった。
◇
ガレスを探したら、ギルドの裏手にある酒場、赤豚亭にいた。
朝の九時である。まともな人間が酒場にいる時間ではない。だが扉を開けたら、奥のテーブルに赤毛の大男が立っていた。向かいに二人の冒険者。
テーブルの上に木製のサイコロが三つと、銅貨の山。
「来いっ! 六! 六を出せ!」
ガレスがサイコロを振った。からからと転がって、二、三、一、合計六。
「よっしゃあああ!」
テーブルを叩いた。食器が跳んだ。向かいの冒険者が苦い顔で銅貨を押しやっている。
「ガレス」
わたしの声が酒場に響いた。ガレスの手が止まる。振り返った顔は、子供が悪戯を見つかった時のそれだった。
いや、子供の方がまだ取り繕う。この男は取り繕うという概念を持っていない。
「お、おい。ヴィクトリア」
「朝の九時に何をしていますの」
「……情報収集」
「サイコロで?」
「……文化体験」
「銅貨を賭けて?」
ガレスは三秒ほど黙って、それから観念したように肩を落とした。
「……ギャンブルです」
「知ってますわ」
◇
ガレスを引きずって食堂に戻った。
パンの皿を突き出して、まず食え、と言う前に事情聴取をした。指揮官は情報を先に取る。
「いつから」
「昨日の夜。合同依頼の打ち上げで、隣の席のやつにサイコロを教えてもらって」
「それで」
「三回やったら、三回勝った」
「それで」
「朝まで十二回やって、十回勝った」
十二戦十勝。勝率八割以上。
……いや、おかしい。サイコロ賭博でその勝率はおかしい。
「いくら賭けたの」
「最初は銅貨五枚。最後は銅貨三十枚」
「今いくら持ってるの」
ガレスがテーブルの下から革袋を出した。じゃらりと重い音。
「銅貨二百六十枚」
ミアが片目を開けた。エルトがスープを置いた。
「「「……」」」
銅貨二百六十枚。依頼二、三回分。一晩で。
「……すごいじゃん」
ミアが起き上がった。
「ガレスが頭使って稼いだの、初めて見た……」
「頭は使ってねえ。勘だ」
「……」
「ガレスさん、でもギャンブルはよくないですよ!」
エルトが正論を出した。
「負けたら大変なことに!」
「負けてねえだろ。十勝二敗だぞ」
「それはそうですけど……」
エルトが助けを求めるようにこっちを見た。わたしは腕を組んだまま、ガレスの顔をじっと見ていた。
「……なんだよ」
「やめなさい」
「なんでだよ! 勝ってんだろ!」
「勝っているから言っているのよ。――あなた、なぜ勝っているかわかっていないでしょう」
ガレスが口を開いて、閉じた。図星だった。
◇
「いい? サイコロ賭博で勝率八割は異常よ。普通は五分五分。つまり何かが偏っている」
「俺が強いんだろ」
「サイコロに強いも弱いもありませんわ。偏っているのはあなたじゃなくて――」
わたしは食堂の隅を見た。朝の食堂は空いている。聞いている人間はいない。
「たぶん、あなたの振り方よ」
「振り方?」
「ガレス。あなた、サイコロを振るとき手首をどう使ってる?」
「どうって――普通に、こう」
ガレスがエルトのパンをサイコロに見立てて振る真似をした。指先でつまんで、手首を返して、パッと放す。丁寧だが力加減がおかしい。前衛としてたたき上げた手首は、細かい制御が異様にうまい。
「……あなた、無意識で出目を操作していますわ」
「は?」
「手首の角度と力加減で、サイコロの回転数をほぼ一定にしている。たぶん本人に自覚はない、でも前衛の手首の精度で木のサイコロを投げたら、同じフォームから同じで目が出やすくなるの」
「あなたのスキルじゃなくて、あなたの筋肉の問題よ」
ガレスが自分の手首を見た。握って、開いて、また握った。
「つまり――俺の筋肉がイカサマしてるってことか?」
「意図していないから厳密にはイカサマではありませんけど、仕組みとしてはそう。相手から気づいたら揉めるわよ」
「揉めるのは――まずいか」
「まずいわね」
「でも二百六十枚あるぞ」
「返しなさい」
「いやだ」
◇
翌朝。
ガレスが食堂に現れた時、顔色が悪かった。
「負けた」
椅子に崩れ落ちるように座る。
「いくら」
「百八十枚」
エルトが「ひえっ」と声を挙げた。ミアが「あー……」と天井を見た。
「相手が変わったのか、それとも――」
「最初は勝ってた。途中から全然ダメだった。振り方を変えたわけじゃねえのに」
「相手が対策したのよ。あなたの手首の癖を見抜いて、賭け金の張り方を変えた。あるいはサイコロを入れ替えた。重心が違うサイコロなら、あなたの筋肉制御は意味がなくなるもの」
ガレスが顔を挙げた。
「……お前、知ってて放っておいたのか」
「少し考えれば分かることよ」
「それに、止めたでしょう。聞かなかったのはどなた?」
ガレスが口をつぐんだ。ぐうの音も出ない顔をしている。ぐうの音しか出ない、の方が正確かもしれない。
「で、残りは」
「八十枚」
一晩で二百六十枚が八十枚。差し引き百八十枚の損失。元手を考えれば、まだ利益は出ているが――
「もう一回やれば取り返せる」
「やめなさい」
「でも――」
「ガレス」
わたしは声のトーンを一段落とした。戦闘中に使う声だ。指示の声。
ガレスの背筋が反射的に伸びた。体に染みついた反応。
「ギャンブルで負けた人間が『もう一回やれば取り返せる』と言ったら、それは撤退判断ができなくなっている証拠よ。戦場で同じことを言ったらどうなる?」
ガレスの顔色が変わった。
戦場で撤退を拒否する前衛。それがどれだけ危険が、この男は身をもって知っている。
「……退くべき、か」
「退くべきね」
五秒の沈黙。長い五秒だった。
ガレスが革袋をテーブルに置いた。じゃらり。
「わかった。――やめる」
「よろしい」
「ただし」
「何」
「この八十枚で肉を食う。全員分。――文句あるか」
わたしは扇子を開いた。口元を隠す。
「……文句はありませんわ。あなたが奢るなら」
「奢りだ。令嬢にも引きこもりにもお人好しにも、全員に」
「……脳筋」
「うるせえ。食うのか食わないのか」
「食べる……」
「僕も食べます!」
エルトが挙手した。
◇
その夜、四人で食堂の一番大きなテーブルを陣取った。
ガレスが注文した肉の量は常識の範囲を超えていた。牛の丸焼きが出てきたときは目を疑った。テーブルに載り切っていない。
「食え! 遠慮するな!」
「遠慮以前に量がおかしいですわ」
「うめえんだから問題ねえだろ」
ガレスが骨つき肉を片手で引きちぎりながら笑っている。ミアが静かに芋の付け合わせだけ確保して隅で食べている。エルトが肉と野菜を均等に取り分けて、ミアの皿にそっと野菜を追加している。ミアが無言で野菜をエルトの皿に戻している。エルトがまた戻している。無限ループが発生していた。
「ガレスさん、今日で銅貨全部使い切っちゃいますよ?」
「いいんだよ。明日からまた依頼で稼ぐ」
「ギャンブルでは稼がないの……?」
ミアが聞いた。
「やめた。——あれは俺の盤面じゃねえ」
盤面、という言葉をガレスが使ったのは、たぶん初めてだった。
わたしは紅茶のカップを傾けた。ギルドの食堂の紅茶はいつも通り薄いけれど、今日は少しだけ、美味しく感じた。
「わたしの盤面でもありませんわ。賭場の盤面は見えないもの」
「お前に見えないものがあるのか」
「ありますわよ。わたしは万能ではありませんの」
「嘘つけ」
「嘘じゃないわ」
ガレスが骨を皿に置いて、不器用に笑った。
「まあ——見えない盤面には近づかねえことにする。見える盤面で、お前が『殴れ』って言ったときに殴る方が性に合ってる」
「ようやくわかりましたの?」
「最初からわかってたわ。ちょっと寄り道しただけだ」
「寄り道で百八十枚溶かさないでちょうだい」
「うるせえ」
ガレスが新しい骨つき肉に手を伸ばした。エルトが笑い、ミアが芋をもう一つ確保し、わたしは扇子の陰でため息をついた。
——明日の依頼の前に、パーティの共有財布の管理を見直そう。ガレスの個人資産に触れる権限はないけれど、パーティ費用から賭場に流れるのだけは阻止しなければ。
経理は指揮官の仕事ではない。でもこのパーティでは、たぶんわたしがやるしかないのだ。
脳筋の財布を守るのも、ノブレス・オブリージュですわ。——冗談よ。




