10.戦えない令嬢に負けた気分はどう
模擬迷宮に入った瞬間、空気が変わった。
訓練用とはいえ、石壁に囲まれた通路は本物のダンジョンと大差ない。天井は低く、魔力灯が等間隔に青白い光を落としている。足元の石畳は湿っていて、ブーツの底がわずかに滑る。観客席の歓声が壁越しにくぐもって聞こえるけれど、ここからはもう別の世界だ。
「西通路を直進。最初の三叉路を右。ガレス、先頭」
声を出した。迷わない。迷っている暇は、たぶん二十秒もない。
——案の定だった。
三叉路に差しかかった瞬間、正面の通路から金色の残像が突き出てきた。レオンだ。開幕から全力で中央広間に向かってきている。速い。想定よりさらに一手速い。
「ガレス、正面!」
鋼がぶつかる音が通路を震わせた。ガレスの大剣とレオンの長剣が噛み合い、火花が青白い魔力灯に散った。衝撃でガレスの足が石畳の上を半歩滑る。
——押されている。
当たり前だ。個人の剣技ではレオンが上。ガレスの仕事は勝つことじゃない。
「退かないで。通路の幅を使って。左の壁に肩をつけなさい」
ガレスが壁に半身を預けた。通路幅いっぱいに大剣を横に構えると、レオンの突破ルートが物理的に消える。レオンの剣が三度叩きつけられたが、ガレスは動かない。前に出る、止める、退かない。
「——なるほど。壁だな」
レオンの声に苛立ちはなかった。品定めするような、冷静な響き。
同時に、中央広間の反対側から足音が二つ。弓手と魔術師が南通路から回り込もうとしているのが、足音の反響でわかった。
「ミア、左通路。三秒後に床を焼いて」
「……うん」
ミアの杖から赤い光が走り、左通路の石畳が一面に炎を噴いた。壁際の苔が瞬時に焦げて、熱気が通路全体を膨らませる。人に当てる必要はない。通路そのものを通行不能にすればいい。
南側から回り込もうとしていた足音が、ぴたりと止まった。
——ここまでは、想定通り。
◇
模擬戦開始から四分。
観客席の空気が「一方的にならないぞ」に変わっているのが、壁越しのざわめきで伝わってきた。グローリークラウンが開幕で押し切ると思っていた大半の予想が、まだ決着しないという事実だけで揺らぎ始めている。
だけど、ここからが本番だった。
レオンがガレスを押し切れないと判断したのか、一度後退した。三叉路の向こうに消える金色の背中を確認して、わたしは息を吐いた。
「ガレス、位置維持。追わないで」
「追わねえよ。——だがあいつ、速いな。本気で来てたら壁ごとだった」
ガレスの腕が微かに震えていた。半身で受け続けた代償だ。でも立っている。それだけで今は十分。
「エルト、ガレスに最低限の回復だけ。魔力は残して」
「了解です」
エルトの手から淡い光がガレスの腕を包んだ。本人は全力で治したいのだろう、唇を結ぶ力が強い。でもこらえている。前半は温存。その約束を、エルトは守っていた。
わたしは地図を頭の中で広げた。
レオンが引いた。弓手と魔術師は南通路を封じられた。盾役は——おそらく北端の旗の近くで待機している。グローリークラウンの初動は、レオンが中央を取り、残りが南北を押さえる形だったはずだ。
レオンが中央を取れなかった。
ならば次に彼が狙うのは——。
「北だわ」
声に出した。三人が振り向く。
「レオンは北の旗を先に確保しに行く。中央で止められた以上、確実に取れる旗から押さえる。合理的で、正しい判断。だから——」
わたしは通路の奥を指した。
「先に南を取りなさい」
◇
南通路の突き当たり。
ミアが焼いた炎の残り火を避けながら、わたしたちは南の旗に到達した。小さな広間の中央に、青い布の旗が石台の上に立っている。
ガレスが周囲を確認した。敵はいない。ミアの通路封鎖が効いて、南側からの合流を完全に遮断していた。
「旗、取るぞ」
「触れなさい。ガレス」
ガレスの手が旗に触れた瞬間、旗の布が青から赤に変わった。模擬戦のルールで、制圧側の色に染まる仕組みらしい。同時に、遠くで審判の笛が一つ鳴った。
「ノブレス・オブリージュ、南旗制圧」
観客席が少しだけざわついた。先制したのが格下のこちらだったことへの、困惑に近い反応。
——でも、ここからが難しい。
北の旗はおそらくもう取られている。盾役がずっと待機していたなら、レオンが合流した時点で確保されたはずだ。つまり一対一。次に中央の旗を取った方が勝つ。
そして中央広間は、グローリークラウンの方が近い。
「中央に向かうわ。でも急がないで」
「急がないのか?」
エルトが怪訝な顔をした。
「急いで中央に突っ込んだら、相手の土俵よ。レオンは正面戦闘で勝つ。わたしたちが同じ土俵に上がったら負ける」
わたしは南通路を戻りながら、頭の中で盤面を組み替えていた。
中央広間には三つの入口がある。北から、東から、西から。グローリークラウンは北と東を押さえやすい位置にいる。わたしたちが西から入れば、三方向のうち一つを確保できるが——それは相手も読む。
だから、読ませる。
「ミア。中央広間の西入口に火を置きなさい。さっきと同じ、通路を焼いて」
「……また焼くの。火の魔力、そろそろ辛い」
「これが最後よ。派手にやって」
ミアの杖が光った。西入口から中央広間に向かって、炎が通路の半分を覆う。遠目には突撃しようとしているように見えるだろう。
でもこれは——囮だ。
「火が消える前に移動するわ。全員ついてきなさい。東の迂回路を使う」
◇
模擬迷宮の東側に、観客からは見えにくい細い通路がある。地図に載ってはいるが、主要な動線からは外れている。ここを通れば、中央広間に東側から——グローリークラウンの背後に出られる。
問題は、向こうの弓手がこの通路を索敵しているかどうかだった。
角を曲がった瞬間、矢が飛んできた。
石壁に弾かれて火花が散る。ガレスが咄嗟に大剣で前を覆った。
「いたな。弓のやつだ」
「想定内よ。——でも一人だけ」
弓手が一人で迂回路を見張っている。魔術師はおそらく中央広間の中。そしてレオンは——。
通路の先、中央広間から足音が近づいてきた。速い。靴底が石を蹴る、あの独特のリズム。
「レオンが来るわ。ミアの火を見て、西から攻めると読んだ。でも東から気配がしたから、こっちに切り替えた」
速い判断。正しい反応。強いだけじゃない、優秀な冒険者。
——だから、その優秀さを利用する。
「ミア、弓手の足元を焼いて。当てなくていい、退かせなさい」
「……もう、火ばっかり」
文句を言いながらも、ミアの杖から低い炎が走った。狙いは正確で、弓手の立っていた石畳だけを舐めるように焼く。弓手が舌打ちして中央広間側に退いた。通路が一瞬だけ空く。
「ガレス、今。通路の角で待ちなさい。レオンが角を曲がった瞬間に止めて」
「また止めるのか」
「今度はもう少しだけ、粘って」
ガレスが通路の角に立った。壁に背をつけ、大剣を低く構える。
足音が近づく。
角を曲がった瞬間——レオンの剣が振り下ろされた。ガレスの大剣がそれを受け止め、通路が金属の悲鳴で満ちた。
「また壁か。——どけ」
レオンの声に、初めて少しだけ熱が混じった。
「どかねえよ」
ガレスの足が石畳を削る音がした。押されている。でも退かない。それがガレスの仕事だ。角猪の坑道で覚えた、あの動き。迷わない前衛は、迷う天才より長く立っていられる。
そしてその間に——。
「ミア、今よ。中央広間、東入口の天井に一発」
「天井……? 旗じゃなくて?」
「天井の魔力灯を落として。視界を潰すの」
通路の隙間から、中央広間が一瞬だけ見えた。盾役と魔術師が、西入口に向かって構えている。ミアの炎を攻撃の前兆と読んで、迎撃態勢に入っていた。旗は背中の向こう——取りに行く余裕はない、と判断したのだろう。正しい判断だ。攻めてくる敵に背中を向けて旗を取りに行く馬鹿はいない。
レオンの到着を、確実な勝利を待ったのだろう。
正しい。実に正しい。不確実を嫌い確実を好む、優秀な判断だ。
——その「正しさ」が、今は罠になる。
ミアの杖から細い光線が伸びた。廃塔で練習した、角度と範囲を絞った砲撃。魔力灯の留め具だけを正確に焼き切って、中央広間の東側が暗闇に落ちた。
西を向いていた盾役と魔術師の視界が、暗闇に沈む。
「エルト、今! 全力でガレスを支えて!」
「——はい!」
エルトの手から光が溢れた。前半ずっと温存していた魔力が、一気にガレスへ注がれる。ガレスの足が止まった。レオンの剣を受け止めたまま、一歩も退かない。
その数秒で、わたしは走った。
戦えない。剣も振れない。魔法も使えない。だけど走ることはできる。
視界が悪い。
それでいい。
暗闇の中央広間を横切り、石台の旗に手を伸ばした。西を警戒していた盾役が背後の足音に気づいて振り向いたが、暗闇と方向転換で一歩が遅れた。魔術師が杖を向けた光が、わたしのすぐ横の壁を焦がす。髪の先が熱で縮れた匂いがした。
指先が、布に触れた。
旗の色が、青から赤に変わった。
審判の笛が、二度鳴った。
◇
「ノブレス・オブリージュ、中央旗制圧。二対一。——勝者、ノブレス・オブリージュ」
模擬迷宮の中に、審判の声が反響した。
数秒。
沈黙があった。
それから——観客席が、割れた。
最初は困惑だったと思う。何が起きたのか理解が追いつかなかった人たちの、戸惑いの間。それが理解に変わり、理解が驚愕に変わり、驚愕がどよめきに変わるまで、四秒か五秒。
わたしは中央広間の石台の前で、膝に手をついて息を整えていた。心臓がうるさい。足が震えている。全力で走っただけで息が上がるあたり、やっぱりわたしの体は戦闘向きではない。
通路の奥から、ガレスが歩いてきた。大剣を肩に担いで、口の端が上がっている。
「勝ったぞ」
「ええ。勝ったわ」
ミアが壁に寄りかかったまま、ずるずると座り込んだ。
「疲れた……帰りたい……」
「まだ帰らないで。もう少しだけ、勝者らしくしていなさい」
エルトが目尻を拭った。泣いてはいないけれど、目が赤い。
「勝ちました。勝ちましたよ、ヴィクトリアさん」
「泣くのは宿に帰ってからにして頂戴」
◇
模擬迷宮から出ると、空気が一変していた。
観客席の視線が違う。さっきまでの見世物を見る目ではない。何かよくわからないものを見た、という顔。嘲笑が消えて、代わりに測りかねる沈黙がある。
レオンが迷宮の出口に立っていた。
剣を鞘に納めて、腕を組んで。表情は崩れていない。負けた人間の顔ではなかった。ただ——少しだけ、考え込んでいる顔だった。
「最初から、殲滅する気がなかったな」
「ええ」
「俺を倒す気もなかった」
「ええ。あなたを倒す必要がなかったから」
レオンの目が細くなった。
「旗だけを見ていた。最初から最後まで。俺たちが正面で押している間に、盤面を動かしていた。——そういうことか」
「そういうことですわ」
沈黙が降りた。観客席からの視線が集まっている。レオンが何を言うかを、全員が待っている。
「——認めよう。今日は、負けた」
静かな声だった。格を落とさない負け方。レオン・アークライトは、負けてもこういう声を出せる人間だった。
「だが、次はない」
「次はないと思っていただいて結構ですわ。——こちらも毎回同じ手は使いませんから」
レオンの口角がわずかに上がった。それが怒りなのか、それとも別の何かなのか、わたしには読めなかった。
レオンが背を向けて去っていく。その横を、盾役と弓手と魔術師が無言でついていく。弓手だけが一度振り返って、わたしの方を見た。その目に浮かんでいたのは敵意ではなく、品定めだった。
◇
受付カウンターの前に、セシリアが立っていた。
いつもの丁寧な笑顔ではなく、少し呆然とした顔で。書類を胸に抱えたまま、わたしの顔をじっと見ている。
「……おめでとうございます、ヴィクトリアさん」
「ありがとう。報告書は今日中に出すわ」
「あの——」
セシリアが言いかけて、止めた。何かを聞きたそうにしていたけれど、飲み込んだらしい。代わりに報告書の用紙をカウンターに並べて、いつもの受付嬢に戻った。
その後ろに、ドノヴァンが立っていた。
ギルド長の大きな体が、カウンターの向こう側に影を落としている。腕を組んで、わたしを見ていた。
「ドノヴァンさん」
「ああ」
「何か?」
ドノヴァンは少しの間、何も言わなかった。それから、短く言った。
「偶然ではないと、先日言ったな。——撤回する」
「撤回、ですか」
「偶然ではない、じゃ足りん。計算だな。お前のやったことは」
わたしは扇子を開いた。口元を隠した。隠さなければ、見せてはいけないものが見えてしまう。
「当然ですわ。わたくし、勝敗条件を読み違えたりしませんの」
振り向いた。
観客席が徐々に散っていく。その視線の残り香——嘲笑ではない。困惑でもない。怯えに近い、何かだった。
剣を振れない令嬢が、最強パーティを倒した。誰も剣で負けていない。誰も魔法で圧倒されていない。なのに、負けた。何が起きたか理解できない人間は、理解できないものを恐れる。
——ああ、いい気分だわ。
わたしは扇子の裏で、嗤った。令嬢らしく、淑やかに、静かに。けれどたぶん、今の顔をドノヴァンに見られたら、悪役令嬢という評価は撤回されないだろう。
彼らが本気で旗の取得のみに集中していたら、わたしたちは数分も持たずに負けていたでしょう。
——けれど、そうはならなかった。
彼らは、少なくともレオンは、正面での戦いに勝利することに執着していた。
「——ふふっ」
勝敗条件を読み違えた時点で、もう負けていたんですのよ。
勝者とは誰か?
強い者? 違う。
剣の腕が立つ者? 違う。
経験値が高い者? 違う。
勝者とは、勝利した者だ。
勝つのは、勝ち方を決められる者だ。
わたしは戦えない。だから戦わなかった。ただそれだけのことを、誰も想定していなかった。
ガレスが大剣を壁に立てかけて座り込んでいる。ミアがその隣で丸まっている。エルトが二人に水を配っている。
脳筋と引きこもりとお人好し。
寄せ集めのわたしの駒——いいえ、わたしの仲間。
ミアが丸まったまま、ぼそっと言った。
「帰っていい……?」
「帰りなさい。明日は休みにするわ」
「……やった」
小さくガッツポーズをしたミアの袖口から、指先が覗いた。杖を握りすぎて、爪の際がうっすら赤くなっていた。
わたしは扇子を閉じた。閉じた瞬間だけ、口元が見えたかもしれない。
——悪役令嬢は、勝利を嗤う。それが似合う顔を、わたしは持っているらしい。
◇
その夜のことを、ヴィクトリアは知らない。
大陸の北端。人の領域が途絶え、空が常に薄暗い荒野の先に、魔王軍の前線基地がある。
石と骨で組まれた指揮卓の上に、薄く光る盤面が浮かんでいた。人間側のギルドの動きを追う戦術盤。その片隅に、小さな点が一つ。模擬戦の結果を示す記録が、盤面の端に流れ込んでいた。
ヴァルガ——魔王軍参謀長——は、片手で顎を支えたまま、その点を見ていた。長い沈黙のあと、低い声が指揮卓に落ちた。
「盤面を見る者が、人間側に現れたか」
それだけ言って、ヴァルガは盤面から目を離さなかった。
第一章 了




