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小説家の彼女に買われる話  作者: 夜凪


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3/3

1万円の価値③

第3話


 スマホが震えたのは、日付が変わる少し前だった。


 画面を見ると千尋さんの名前が表示されていた。


 いつもより遅い時間。珍しいと思いつつ、こんな時間なのにとも思う。それ以上でも、それ以下でもない。


通知を開くと、いつも通りの連絡が来ている。


 


『今から来られる?』


 


 短い文だった。


 時計を見るが終電は、もうない。今から向かうのは難しい、そう思いすぐに返信をした。


 


『すいません。終電がもうないので、今日は行けません。ただ、何したらいいかだけ、教えて欲しいです。』


 


 少し間があって、既読がつく。


 


『あ、そっか。じゃあ、来なくていいんだけど、今日は、通話したい。』


 


 続けて、もう一通。


 


『1万円は次に払うから、寝るまで、通話したい』


 


 画面を見つめる。


 電話なら、行かなくていい。


 言うことをひとつ聞く、という条件から外れているようで、外れていない。千尋さんの部屋で、という条件だった気もするが、もしかしたら今すぐ通話しないといけない理由とかがあるのかもしれない。


 それに、お金も次にもらえるならそれでいい。


 


『分かりました、いつでも大丈夫です』


 


 送信してすぐ、着信が来た。


 すぐに出ても良かったが、待ってたみたいに思われるのは癪だったので、少しだけ間を置いてから、通話ボタンを押す。


 


『もしもし』


 


『出るの早い』


 


『起きてましたから』


 


『そう』


 


 千尋さんの声は低くて、少しだけ掠れている。


 眠いというより、疲れている感じ。


 


『今日は、なにがあったんですか』


 


『なにも』


  


『それで電話、ですか』


 


『それじゃだめ?』


 


『だめじゃないです』


 


『条件的に?』


 


『条件的に、問題ないです』


 


『はは』


 


 小さな笑い声。


『真白は仕事、忙しかった?』


 


『普通です。外回りが少し』


 


『トラブルは?』


 


『今日はなかったです』


 


『優等生だね』


 


『褒めてます?』


 


『一応』


 


 少しの沈黙後、通話越しに布が擦れる音がする。


 


『いまどこにいたの?』


 


『家です』


 


『もうベッドにいる?』


 


『いえ、まだ』


 


『じゃあ、私は横になってもいい?』


 


『どうぞ』


 


『……許可制みたい』


 


『聞かれたから、答えただけです』


 


『そうだった』


 


 息を吐く音。


 


『今日さ、ずっと画面見てた』


 


『原稿ですか』


 


『うん。でも進まない』


 


『そういう日もあります』


 


『慰め方が営業』


 


『職業病です』


 


『真白は営業の仕事、向いてると思う』


 


『今日も言われました』


 


『誰に』


 


『同僚です』


 


『……同い年?』


 


『はい』


 


『仲いいの?』


 


『普通です』


 


『普通、ね』


 


 声が、少しだけ柔らかくなった気がした。


 いつもより、優しいような。


 


『今日、なに食べたの?』


 


『定食です』


 


『外で?』


 


『はい。同僚と』


 


『へえ』




『千尋さんは』


 


『コーヒーだけ』


 


『それは、ちゃんと食べた方がいいです』


 


『今はいい』


 


『今は、ですか』


 


『今は』


 


 また、少し沈黙。


 


『今日、いきなりごめん』


 


『大丈夫です』


 


『怒ってる?』


 


『どうしてそうなるんですか』


 


『ならない?』


 


『なりません』


 


『そっかぁ』


 


 安心したみたいに、息を吐く。耳元で聞こえるからか少しくすぐったい。


 


『電話、嫌じゃない?』


 


『嫌ではないです』


 


『来ないのに、通話はする』


 


『次行った時に貰えるなら。条件もあまり逸れてないと思ったので。』


 


『……そう』


 


 言葉が、少しゆっくりになる。


 


『真白』


 


『はい』


 


『今日さ、仕事楽しかった?』


 


『……楽しいってほどじゃないです』


 


『嫌じゃない?』


 


『それは、そうです』


 


『それならよかった』


 


 その一言が、少しだけ引っかかる。


 


『もう、眠いですか』


 


『うん』


 


『じゃあ、切りますか』


 


『……もう少し』


 


『分かりました』


 


 通話の向こうで、布団に沈む音が聞こえる。


 シーツが擦れる音、ベットが軋む音。


 千尋さんが横になった、と想像してしまう。


眠いなら、寝ればいいのに。


  


『起きてる?』


 眠そうなのは千尋さんなのに、こっちの心配をするなんて、おかしな人だ。


 


『起きてます』


 


『声、聞こえる?』


 


『聞こえます』


 


『ならよかった』


 


 呼吸が、だんだんゆっくりと、一定になる。


 


『千尋さん?』


 


 呼びかけても返事はない。


 規則的な寝息だけが聞こえるだけ。


 切っていい。条件は、もう果たしている。


 でも、自分から切るのは、なんとなく違う気がした。


 寝息が聞こえるスマホを置いて、そのまま目を閉じた。


 


 朝目が覚めた後スマホを見ると通話は切れていた。その代わりメッセージが一通だけ来ていた。


 


『ありがとう』


 


 それだけ。


 私は画面を閉じて、起き上がった。




 目が覚めたとき最初に感じたのは静かさだった。


 スマホを手に取って、時間を見るといつもより少し早い。アラームが鳴る前に起きたようだ。


 画面には、昨日の通話履歴が残っている。


 終了時刻は、覚えていない時間。




既読をつけるのを一瞬だけ迷ってやめる。


 返事をするほどの内容でもないし、しなくても問題はない。そう判断して、画面を伏せる。


 体を起こして、ベッドから降りると床が少し冷たい。


 洗面所で顔を洗いながら、昨夜の通話を思い出そうとするも、何を話したか、はっきりとは覚えていない。


 仕事のこと。


 ご飯のこと。


 今日あった、ほんとうにどうでもいい話。


 特別な言葉はなかったし、特別な約束もしていない。電話をした、という事実だけが残っている。


 歯を磨き終えて、鏡を見るといつもより落ち着いたような自分がいた。


 


 着替えを済ませて、キッチンにコーヒーを淹れる。豆を挽く音が、部屋に響く。


 前に同じ音を聞いた、と思う。


 場所はここじゃなくて千尋さんの家だけど。


 マグカップを持って、テーブルに座り、コーヒーを飲みながら、自然とスマホに目が行く。


 


 通知は、増えていない。


 今日は仕事だ。


 カレンダーアプリを開いて、今日の予定を確認する。午前は社内、午後に外回りが1件。特に変わったことはない。


 バッグの中身を確認して、鍵を手に取る。


 いつもと同じ動作だ。


 玄関で靴を履きながらふと昨夜のことが頭をよぎる。


 通話を切らずに、そのまま寝たこと。


 自分から切らなかった理由。


 はっきりした答えは出ない。


 ただ、切る必要がなかった、それだけ。


 ドアを開けて、外に出ると朝の空気は、少しだけひんやりしていた。


 駅へ向かいながら歩幅を整える。


 頭の中は、もう仕事のことで埋まっていく。


 昨夜の通話は、特別なことじゃないそう言い聞かせてそのまま、いつもの電車に乗った。

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