第2話 誘拐
丘を越える風が、春の匂いを運んでいた。修道院の鐘の音が遠ざかり、王都へと続く街道を一台の馬車が進んでいく。昼下がりの光は柔らかく、揺れる木漏れ日が馬車の内側に模様を描いていた。
セリーナは窓辺に頬を寄せ、淡く霞む空を見つめていた。草の香り、馬の息づかい、そして遠くで聞こえる鐘の余韻。いつもと同じ帰り道――そう思った。けれど胸の奥に、どこか針のようなざらつきを覚えていた。
――そのときだった。
街道の先、砂煙がひと筋。陽炎の向こうから、二つの影がゆっくりとこちらへ向かってくる。
影はやがて分かれた。一人は右から速度を上げ、馬車と並走する。もう一人は左後方に付き、馬車の死角へ滑り込む。馬の足音が風を裂き、砂を跳ね上げた。二人の動きは、まるで呼吸のように噛み合っていた。
「……近づいてくる……」
そのつぶやきが空気を震わせたように、外がざわめいた。
「なんだ?」
「飛ばせ! 早く城へ!」
御者が手綱を叩く。馬がいななき、車輪が跳ねる。セリーナの体が少し浮いた、その刹那――
ボン! 乾いた爆音。前方に白い煙が立ちこめ、視界を覆う。
「煙幕だ!」
煙が馬車の中へ入り込み、鼻を突く薬臭が満ちた。喉が焼け、息が詰まる。
「う……ごほっ、ごほっ……!」
続いてもう一発。前方にも煙が上がり、護衛の兵たちがそちらへ引き寄せられる。馬車の前方が混乱する隙を突き、左後方の影が動いた。
ガチャ――
馬車の後ろが開き、冷たい外気が流れ込む。白煙の向こう、黒いフードを深く被った男の影が現れた。
「……!」
風が一気に抜ける。煙が晴れ、フードがめくれ上がった。その下から現れたのは鋭い眼差し――ガットの瞳だった。視線がぶつかる。一瞬、時間が止まる。
言葉もなく、彼は腕を伸ばす。ごつごつした掌がセリーナの手を掴み、力強く引き上げた。
「こい!」
視界が傾き、身体が宙に浮く。
「っ……!」
次の瞬間、風と共に胸の中へ抱き寄せられた。背に感じる硬い革の感触、熱い呼吸。世界が一瞬で遠ざかる。
ガットは無言のままナイフを抜き、馬車の柱に紙片を突き刺した。――王家への身代金要求。その一枚だけを残し、馬を蹴る。
ガットはセリーナを前に抱きかかえた。馬が嘶く。蹄が土を蹴り、森の影へと飛び込んだ。背後で兵士の怒号が木々に反響する。
「くそっ、追え!」
二騎の兵が続く。その行く手に、もう一つの影が現れた。コビーだ。懐から小袋を抜きざまに、右手を振り抜いて投げた。
ボン!
強烈な爆ぜ音と共に、鼻を突く刺激臭が風に混じった。香辛料の焦げた匂いが辺りに広がり、兵士の馬が暴れる。
「うっ……なんだこの匂いは!」
「ぶるるっ!」
嗅覚を焼くような辛味。コビーの特製『匂い袋』だった。煙に包まれた兵士たちが足を止めた隙に、二人の姿は森の奥へ消えていった。
――森の中。
濃い緑の陰を縫うように、二頭の馬が走る。土の匂いが湿り、枝葉が頬を掠める。やがてスピードを落とし、森が深くなるにつれて空気がひんやりと変わった。
ガットは手綱を引き、馬を止めた。セリーナの目に布を巻き、口を軽く塞ぐ。だが、手足は縛らない。暴れられても困るが、危険に晒すこともできない――そんな理性が、彼の中に残っていた。
コビーが前を行く。森の奥の抜け道を確かめながら、時折手を上げて合図を送る。
人気のない道を選び、彼らは海沿いの小屋を目指していた。
木々の隙間から、潮の匂いが流れ込む。波の音が、かすかに聞こえた気がした。
セリーナは、馬上で微かに息をする。風が頬を撫でる。目隠しの向こうは真っ暗で、音と匂いだけが世界だった。
(……誘拐……)
(……私を?)
心は不思議なほど静かだった。恐怖も怒りも、悲鳴のように遠くへ消えていく。思考の糸がほどけていくように、ただ無音の揺れに身を任せていた。
どこへ運ばれていくのかも、もうどうでもよかった。そう思える自分に、かすかな違和感を覚えながら――
セリーナは、ゆっくりと呼吸を浅くした。世界が、静かに遠のいていく。
(私がいなくなっても……)
(お父様は……私より国を優先する……)
(私なんて……)
――その頃、王都ナビル城。
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※以下、報告に添えられてきた羊皮紙の文面
> 王家へ告ぐ。
我々は貴国の王女、セリーナ=ナビルを預かっている。 返還を望むなら、以下の条件を厳守せよ。
三千万ウィルを、三日後の正午、ラディル山脈登山道中腹の小屋へ運べ。 荷馬車一台、乗員一名にて。小屋に荷馬車を繋ぎ、乗員と馬は速やかに下がれ。
この件、他言無用とする。 軍を動かし、城下に噂が漏れれば――国の治安は如何に乱れるか想像せよ。 王女が傷つけば、民は不安に駆られ、国は揺らぐだろう。 我々もそれを望まぬ。故に、穏便に事を運ぶのが得策である。 金銭以外に我々は一切の興味を持たぬ。
受領を確認次第、王女は同日の夕刻までに必ず返還することを約束する。
慎重に行動せよ。我々も冷静に見守っている。
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厚い扉の向こうで、沈黙が支配していた。報告を受けた宰相が、震える指で書状を差し出す。紙面には乱れのない筆跡で、淡々とした要求が記されていた。
無言で読み終えた王は、短く息を吐いた。怒りも動揺もない。ただ、冷たい理性だけが残っていた。
「……他言は許さん。王女が攫われたなどと民に知られれば、この国は揺らぐ。」
頷いた宰相が口を開こうとした瞬間、王は手を上げて制した。
「いいか。民が恐怖を覚えれば、秩序は崩れる。疑念が生まれれば、矛先は我らに向く。噂ひとつで国は割れる。……沈黙こそ、この国の盾だ。」
脅迫状を机に置き、王は低く言葉を継いだ。
「追跡兵だけを出せ。規模は最小限、行動は密かに。見つけても仕掛けるな。監視を続け、王女が戻りしだい一斉に動け。」
「身代金はいかがいたしましょうか。」
「用意せよ。表向きは『支払う』。国を乱さず、王女を取り戻す。それが最善だ。」
王は立ち上がり、窓越しに夜の街を見下ろした。灯の数が、まるで民の心を映すように揺れている。
(セリーナ……)




