第10話 ここに居たい……
第10話「ここに居たい…」
食事が終わったあと、部屋の中に小さな灯りだけが揺れていた。
皿の上には、冷めかけたスープの香りがかすかに残っている。
ガットが重たい沈黙を破った。
「……明日で終わりだ。」
セリーナはスプーンをそっと置き、視線を落とした。
「……」
「お前は明日から自由だ。」
「自由……」
セリーナはその言葉を胸の内で転がした。
「……私にとっての、自由……」
「また城の生活に戻れる。」
セリーナは繋いでいた両手をぎゅっと握りしめた。
「……許されるのなら……」
言葉が喉でほどけ、音にならない。
言葉が途切れ、静寂が落ちる。
やがて、セリーナが小さく息を飲んだ。
「……私はここに居たい。」
セリーナは自分のスカートの裾を、そっと指でつまんだ。
――ザァァ……ザァァ……
遠くの岸で砕ける波の音が、ひと呼吸遅れて小屋の壁に寄せてきた。
その一言は、震える声と共に零れ落ちた。
涙が頬を伝い、ランプの光を受けてきらめく。
ガットはしばらく黙ったまま、天井のランプを見上げた。
そして、ふぅーっと長い息を吐いた。
喉が鳴った。言いかけた名を、飲み込む。
「……それは、だめだ。」
その言葉に、セリーナの肩がびくっと揺れる。
「……」
「俺たちとお前は、住む世界が違う。」
「お前は王女だ。俺たちなんかと一緒にいちゃだめなんだ。」
部屋の空気が静まり返る中、コビーが優しく口を開いた。
「どうして僕たちと一緒にいたいんだい?」
セリーナはゆっくりと顔を上げた。
その瞳は涙で滲んでいる。
「ガットさんとコビーさんは……私に優しくしてくれました。」
「私を“見て”、話しかけてくれました……」
ぽたりと、涙が床に落ちる。
「だめなのはわかっています。帰らないといけないことも……」
「ただ……ガットさんとコビーさんともっと一緒にいたい。」
「もっと話したい……もっと、一緒に笑いたかった……」
セリーナの声はかすれ、途切れながらも、真っ直ぐだった。
「その世界に帰っても……誰も私を見てくれない。」
「お父様も……みんなも……ただ、ひとりで過ごす毎日……」
小さく震える唇。
必死に、言葉を紡ぐその姿は痛々しいほどに真剣だった。
「帰るほどに、私の居場所が薄くなる気がして……」
「ここにいて、それがわかったから……」
ガットの瞳がわずかに揺れる。
(その顔……あの時と、同じなんだ……)
握った拳が白くなる。潮の冷たさが、迷いを奪った。
「……明日決行だ。ちょっと出てくる。」
セリーナの言葉を振り切るように、ガットは立ち上がった。
「ガット!どこ行くのさ!」
コビーの声が響く。
セリーナは何も言えず、ただその背中を見つめた。
静かな時間が流れる。
コビーはセリーナの前に膝をつき、両手を重ねた。
「僕たちも、王女さんと同じ気持ちだよ。」
「もっと一緒にいたかったし、もっと一緒に笑いたかった。」
「コビーさん……」
「だから、これが最後じゃない。
同じ気持ちがあるのなら、また会える。必ずね。」
優しい微笑みが、夜の灯りに溶けていく。
「今度会うときは……やっぱり、王女と誘拐犯という立場じゃないほうがいいね。」
その冗談めいた一言に、セリーナの頬がゆるんだ。
「……そうですね。」
「何かあったら、僕たちはすぐ王女さんのところに飛んでいくから。
だから……泣かないで。」
セリーナは涙を拭いながら、静かにうなずいた。
「……はい。」
——外。
夜風が木々を揺らし、ガットのコートがはためく。
(お父さん……)
かすかに聞こえるのは、幼いプリシアの声。
「大丈夫だ、プリシア。南の街で薬を売ってたと聞いた。
しばらく留守にする。」
「うん……」
(そばにいてほしい)
「どこにも売ってねぇ……北の方、探してくる。」
「お父さん……」
(行かないで)
「心配するな。必ず見つけてやる。」
(……まだ、ここに居たい……)
小さな指が毛布の端をきゅっとつまむ。
――ザァァ……ザァァ……
怒りに震える拳が闇を打った。
「貴族の奴らは絶対隠してやがる……プリシアと同じ病だったやつが治ってんだぞ!」
「ガット、少しプリシアのそばにいてあげたほうが……」
「弱っていくプリシアを……見たくないんだ!
だから、一刻も早く……薬を探さなきゃなんねぇんだ!」
「ガット……」
(もう……いいよ……)
「プリシア!!」
「はぁ……はぁ……」
「ガット……なんでこんな時にいないんだよ!」
「コビー……」
「もっと……お父さんと一緒に居たかったな……」
「コビーの料理……もっと食べたかった……」
「村のみんなと……この場所で……もっと暮らしたかった……」
プリシアが大粒の涙を流す。
――ザァァ……ザァァ……
乾いた睫毛に、灯の粉がわずかに反射した。
朝靄の中、ガットが息を切らせて戻ってきた。
「ガット!……プリシアが……!」
「!!」
――過去の記憶が、胸を締めつける。
(俺は……そばに居てやれなかった……いや、違う。
俺は……逃げてたのか?プリシアが弱っていく姿を見たくなくて……)
握りしめた拳が、静かに震える。
(……明日が最初で最後のチャンスだ。
セリーナ……俺がちゃんと気づかせてやる。安心しろ……)
(もう逃げねぇ。今度は、そばにいる。)
潮の匂いの中、同じ言葉が遠くで重なった。
――ここに、居たい。
ランプの灯が消えかけた夜。
ガットは誰にも聞こえぬ声で、そう呟いた。




