第20話:ユウの怒り
道場の空気が変わった。
それは音ではなく、気配だった。
重く、沈み込むような圧力。
誰かの存在そのものが、場を染め変えるような。
視線を向けると、
カイザが、アイリとともに姿を現していた。
その瞬間、時が止まったように感じた。
彼女の頬は、まるで薄紅色の花弁のようにほのかに染まり、火照りからくる熱が肌に微かな汗を滲ませている。
アイリの髪はきちんと結われ、衣服も乱れていない。
だが――その瞳はまるで深い霧の中にいるようにうつろだった。
瞳は、まるで夢と現実の狭間に浮かんでいるかのように潤み、焦点が定まらず、時折ふっと虚空を見つめる。
道場の喧騒や仲間たちの視線に気づいても、彼女の反応は遅れ、まるで心の半分がまだどこかを彷徨っているようだ。
そして彼女は、微笑んでいた。
柔らかく、静かに。
それはかつての凛とした彼女の笑顔ではなかった。
(……これは……)
ユウは息を呑んだ。
言葉が出ない。名前も呼べない。
だが、ユウの胸に広がるのは、懐かしさではなかった。
(……どうして、こんなに……遠く感じるんだ)
踏み出す音に、アイリがゆっくりと振り返った。
「ユウ……」
声は、優しかった。
ただ、そこには波紋がなかった。
彼女の唇は微かに開き、呼吸が浅く、わずかに乱れている。
カイザの熱い抱擁や囁きが、彼女の体にまだ刻まれている証拠のように、唇の端がかすかに震える瞬間があった。
アイリは剣を手に持ち、稽古の準備を整えようとするが、指先はどこか頼りなく、剣の柄を握る力にも普段の力強さが欠けている。
彼女の姿勢は、いつもの凛とした剣士のそれではなく、どこか夢見心地の柔らかさを漂わせ、まるでカイザの影に抱かれたまま道場に迷い込んだかのようだった。
「ユウ。ようやく来ましたか。
……もっと早く姿を見せると思っていたのですが」
カイザはそう言いながら、肩越しにユウを見下ろすように振り返った。
ユウはその言葉に眉をひそめる。
「……何の話だ」
「ほら、あのとき自然と足が遠のいたと感じませんでしたか?
妙に道場のことが頭から離れ、身体が鈍く、迷いが生じた……そう、理由もなく」
ユウはハッとする。
確かに何度も道場に向かおうとしたが、そのたびに意味のない理由で足を止めていた。
迷い。倦怠。恐れにも似た躊躇。
「……まさか」
カイザは静かに頷いた。
「ユイの異能です。直接働きかけるのではなく、近づきたくなくなるよう、心の奥に小さな抵抗を植えつける」
「まさか……ユイが……俺に……?」
「ええ。彼女はとても優秀ですよ。何より私の能力と相性が抜群だなので、これからの働きも期待できます。おかげで、あなたの大切な人たちは、時間をかけて立派に整いましたよ」
ユウが一歩踏み出すと、ようやくカイザは笑っていた。
あまりにも穏やかに。それが、腹の底を冷やすほどに不気味だった。
「あなたが戻ってくるまで、退屈していたのですよ。
……まぁ、この道場には、なかなか優秀な女が揃っていたので、過ごし方には困りませんでしたが」
カイザは無言でアイリに近づき、彼女の腰に手を回して軽く抱き寄せる。
その仕草は自然で、しかし絶対的な所有権を主張するような力強さに満ちていた。
アイリの体はすぐに彼の胸に寄りかかり、従順に身を委ねる。
ユウはその光景を凝視していた。
カイザの腕に抱かれたアイリの姿――火照った頬、潤んだ瞳、彼女が完全にカイザに心を奪われている様子が、ユウの胸を焼き尽くす。
彼の拳は握り締められ、剣を持つ手が白くなるほど力がこもる。
そのとき、カイザの視線がユウを捉え、まるで彼の内心を見透かしたかのような冷ややかな笑みが浮かぶ。
「私が憎いですかユウ。今どんな気持ちです?自分の愛する者と仲間たちをすべて奪われた気分は?」
ユウの目は燃えるような怒りでカイザを睨みつける。
「この外道が……アイリから離れろ!」
彼の声は低く、抑えきれぬ怒りが滲む。
カイザは肩をすくめ、まるでユウの感情など取るに足らないとでもいうように笑う。
「彼女はモノだ。どう扱おうと私の自由。気にする必要はない」
その言葉に、ユウの理性は限界に達する。
剣を握る手が震え、道場の床に軽い軋み音が響く




