第16話:沈黙の種子
カイザは微笑む
アイリは、すぐには堕とさない。
いや、堕としてはならない。
なぜなら彼女は別格だ。
剣の才。統率の気質。
何より、他者の信頼を自然に集めてしまう純粋さ。
それらすべてが、「未完成」という名の刃に閉じ込められている。
下手に手を加えれば、脆く壊れる。
だが、正しい順で少しずつ砥げば、研ぎ澄まされた忠誠の刃になる。
だからこそ、
私は彼女を「丁寧に、時間をかけて」落とす。
それは支配ではない。育成に似ている。
訓練の場。
今日も彼女は一言も弱音を吐かず、私の前に立つ。
だがその足取りは、わずかに変わった。
後退ではなく、依存による近づき方へと変化している。
呼吸。視線。応答の間。
彼女は、私が望む動きに最も近い正解を探し始めている。
しかも、それを自分で選んでいるつもりで。
(いい傾きだ。あと数歩)
私はあえて彼女の強さを称えない。
あえて慰めの言葉も使わない。
代わりに、こう言う。
「あなたはまだ、底を見ていない。
もっと奥に、あなたが怖れている力がある。
……見てみたくはありませんか?」
その一言で、彼女の目にわずかな熱が灯る。
恐れと興味と、肯定欲求。
それらを同時に揺らす言葉だけが、扉を開ける鍵になる。
私がアイリに欲しているのは、
ただ従うだけの人形ではない。
私は、彼女に自ら進んで戦う者になってほしい。
強さはある。
正しさもある。
ならば、あとは――
方向だけを与えてやればいい。
アイリという名の刃は、まだ鞘にある。
だがそれは、私が選んだ理想の戦力として、
いずれ確実に抜かれる日が来る。
そのとき、彼女は気づくはずだ。
自分が何のために戦うかではなく、
「誰のもとで戦うのか」こそが、
自分にとっての救いだったと。
「その構え……変わりましたね」
稽古の最中、唐突にカイザがそう言った。
声の調子はいつもと同じ。
穏やかで、まるで天候の変化を伝えるような自然さだった。
アイリは木剣を握りしめたまま、黙っていた。
自分でも気づいていた。
少しずつ、何かが変わってきていることを。
刀の振り下ろしに迷いがない。
守るために振るっていたはずの剣が、
いつの間にか「勝つための形」になっていた。
それが――怖かった。
(でも、誰にも言えない)
そんな心の揺らぎを、カイザは見透かすように一歩近づいた。
そして、言った。
「お前はもう――気づいているだろう?」
その声は低く、優しく、
まるで「よくここまで来た」と祝福するかのような響きだった。
その夜、足が自然と稽古場へ向いていた。
理由はわからない。
ただ、何かに呼ばれている気がした。
静かな木造の廊下を抜け、戸を開けた先。
薄明かりの中に、カイザが立っていた。
何も言わず、ただそこにいた。
アイリもまた、何も言わずに歩み寄った。
気配も、迷いも、すでにどこかに置いてきたように思えた。
目が合う。
その瞬間、カイザはゆっくりと、両腕を広げた。
「お疲れさま。……ここまで、よく耐えましたね」
その声に、意識より先に身体が反応していた。
気づけば、胸元に顔を預けていた。
抱きしめられていた。
強くも、弱くもない。
ただ、そこに帰る場所があるかのようなぬくもり。
アイリは、何も考えられなかった。
思考は止まり、
自分が今、誰に抱かれているのかを、
当たり前のことのように受け入れていた。
カイザの指が、彼女の背にそっと触れる。
「あなたが何のために戦ってきたか、私は知っています。
正義のため、家族のため、仲間のため。
でも、今あなたは知ってしまった」
カイザが一歩、彼女に近づく。
「本当は、誰かに必要とされたいと。
誰かの剣でありたいと」
その言葉に、アイリの心が震えた。
声には出さない。
でも――否定は、できなかった。
そして、カイザは静かに言った。
「お前はもう、私の剣だ。わかりましたね」
耳元に囁かれたその言葉が、
心の奥を溶かしていく。
「……はい」
それが誰に向けたものかを、彼女はもう考えなくてよかった。
この場所にいていい。
この人の傍にいていい。
そう思えたとき――
アイリはようやく、自分の居場所を見つけた気がした。
その返事にカイザは満足した表情を浮かべた。




