手の温かみ
彼女はコップに水を満たして僕の前に置いた。
僕は手が震えて、またコップを転がしてしまった。
水が零れた。
「どうして水を零すの?」
と彼女は言った。
「僕にはどうすることもできない」
すると彼女は悲しそうな顔をして、水滴を拭き始めた。
「ごめんね」
けれど彼女は黙っている。
「あなたに両腕が無いというの」
「そういったことはない」
「あなたにはどうにかすることができる」
「僕以外のだれかなら、そうすることもできる。だけど僕にはできない」
彼女は僕の手を握った。温かい。
「あなたにはできる」
「でも水は零れてしまう」
「すぐに拭けばいいの」
「僕にはできない」
窓が独りでに開いて、風が入ってきた。
風は言う。
「ああしろと
こうしろと
うるせえ女だ。
殴っちまえよ。
死なない程度に。
追っ払え。
おめえの家から。
俺の嫁っこにしてやる」
「出て行って」
彼女は風に叫んだ。僕は涙を流す。
風は霧になった。
僕は彼女の手を強く握った。
「痛い」と聞こえた気がした。
霧は歌い始めた。詞の無い歌だった。
彼女が泣いている気配がした。
僕は手を放してテーブルを手のひらでかき混ぜた。
コップが落ちて割れる音がした。手のひらが濡れた。
霧が晴れた。
「怪我してる」
と彼女が言った。僕の手は真っ赤だった。焼けるように痛い。
僕は手を伸ばした。彼女は怖がった。
「水を拭いた。僕には両腕がある」
と僕は言った。
僕は彼女の手を握った。焼けるように熱かった。
僕はまた涙を流した。涙も焼けるように熱かった。
彼女は泣いていた。涙はテーブルにとめどもなく溢れた。
「僕はあなたを必要としている」
と僕は言った。
彼女は俯いた。
「どうかここにいて欲しい」
彼女は嗚咽した。
「私はあなたの手を握ることしかできない。窓が開いてしまったから」
僕は手を放し、窓へ歩みより、窓を閉めた。ガラスが割れていた。風は止んでいた。
テーブルをふりかえると、彼女はいなかった。
僕は彼女の名前を叫んだ。彼女はすぐ隣にいた。
彼女の手は血だらけだった。
「その手、いったいどうしたの」
「窓ガラスを割ってしまったの」
僕たちは席に戻り、また手を握り合った。
彼女の血が僕にもじゅんかんしている感じがした。
「僕の両腕をあげる。僕の腕を庭に植えてごらん。しっかり根を張って、風を通さない頑丈な生垣になる」
「どうしてそんなことを言うの」
彼女は歯を食いしばった。
「君しか僕に水をくれる人はいない」
「約束して。もう水を零さないで」
僕は頷いた。
彼女は僕の手を強く握った。
僕は声をあげて泣いた。涙がテーブルの上から床に流れ落ち、部屋を満たして、窓ガラスの割れ目から外に出て行った。
涙が全て流れ出て行ったあと、僕も彼女も部屋にはいなかった。
涙と一緒に外に流れ出した。壊れたコップの外に。