1章6話 空腹と記憶と優しい幻
ご飯って大事なんだなぁ、と僕は薄れていく意識の中で考えていた。
自分で部屋を探して、引っ越しというものをして、我ながら完璧だと思っていたのだけれど。僕の一人暮らしを聞いて反対する人しかいなかったように、僕というやつはとことん一人暮らしに向いていないのかもしれなかった。
認めたくないものである。
一人暮らし初日の今日だけで、なんと三度も倒れていて我ながらびっくりする。これはギネスにも載れるかもしれない。
初めての腰の痛みの一度目、階段は気をつけましょうの二度目に加え、三度目は空腹。ずっとご飯を食べていないと人間、力が入らなくなって動けなくなるというのは新発見だった。
(よく考えたら昨日も荷造りでコンビニおにぎり一つしか食べていなかったなぁ)
そんな内心の独り言に、お腹が同意するように鳴った。
お湯、お湯さえあれば……。都合よくお湯を召喚できる能力に目覚めないだろうか僕。いや、というかお湯かけなくても食べられるんじゃないかなもしかして。
コンビニのおにぎりが梅しかなくて、気分じゃないなぁとレジの前のカップ麺に目が惹かれてしまったのが間違いだった。空腹と腰痛は考察力を奪う。
『あんたは放っておくとご飯もたべずに機械いじりばっかしてるもんだからね……そんなひょろひょろな形じゃあたしが食べさせてないみたいじゃないか。ちゃんと食べな』
おんばの声が聞こえた気がした。
きっと、僕のこんな姿を見たら怒るんだろうなぁと思う。
おんばは、僕を育ててくれた人だ。
物心がついた時には、僕の家族といえばおんばしかいなかったし、それは僕が成長しても変わらなかった。
じゃあ、おんばは僕の親なんだねと言われると、僕はいつも困ってしまう。
親という存在は知っている。物語でも、現実でも、いわゆる普通の人には、親がいる。
親とはきっと家族で、自分を育ててくれた人の事を指すのだろう。うん、つまり僕にとってのおんばだ。だから間違っていないはずではあった。
なのに、しっくりこない。
母親でもなく、父親でもなく。祖母でもなく、祖父でもなく。僕にとって、おんばはおんばだ。
おんばはいつも化粧の匂いがした。
野太い声に、流石に往年は衰えてきたものの、筋骨隆々という言葉がよく似合う大きな身体をしていた。
いかついのに愛嬌があって、笑うと左にだけえくぼが出来る。そんなところも含めて、僕はおんばが好きだった。
何かをしてもらったら『ありがとう』。
悪いことをしてしまったら『ごめんなさい』
嬉しかったら笑って、哀しかったら泣いて。
誰かが寂しがっていたら一緒に居て、独りになりたがっていたら出ていく。
なんにも知らない僕に、大事なことだからとそう教えてくれたのはおんばだ。
そして、身体通りのごつい手と太い指で、でもとても繊細な手つきで魔法みたいに美味しいご飯をつくる人でもあった。
そんなことを夢現に思い出していたからだろうか。脳というのは不思議なもので、いい匂いまでしてきた。
先ほど、何故か僕の部屋にのぞみさんが心配してくれている幻を見たのだけれど、何度も助けてもらったせいか随分とくっきりとした幻だった。人間の脳って凄い。
今度は音までする。
「…………あれ?」
視覚、嗅覚、聴覚と来て、僕はどうやらその気配が幻ではないのではないかということに思い当たり、そう疑問の声を上げた。
◇◆
(ほんと何をしてるんだろう)
私は湧いてくる自分への疑問を努めて無視した。部屋から持ってきた鍋に水を汲んで火にかけながら、同じく持ってきた塩、味醂、醤油で適当に整えていく。
続けて取り出すのは、お中元にと実家に届いて消費を申し付けられた素麺だ。
煮立ってきたら、器によそって刻みネギだけを振りかけたお手軽質素にゅうめんである。
素早くできて、胃にそこそこ優しくて、私も素麺を消費出来るという三方良しの料理。そんなものを見知らぬ他人の家で作っている私。
不法侵入で訴えられたら負けるかもしれないけれど、リスクを思いついても見過ごせないこの性格とももう長い付き合いである。でもこれで訴えられたら泣く。
同時に、一応持ってきた角煮のタッパーも袋から取り出した。
我ながら美味しそうな匂いのする角煮は、弱火でゆっくりと煮込んだこともあってそっと箸でつかまないとほろほろと崩れてしまいそう。
冷蔵庫はあるし、ひと晩寝かせて味が染み込めば、朝にでも食べてもらってもいいだろうと思って持ってきたのだった。
「少しだけ彩りは茶色いけれどね」
そう独り言のように呟いて、扉の向こうを見た。
『…………なんかさ、のんの作るものって地味だよな。映えないっていうか。いやさ、味は悪くないんだよ? ただ、最近の女子はSNSに上げたりもするんだろ? のんはそういうのは興味無いの? デザイナーなんでしょ?』
ふと耳元で、遠くの記憶から音がして、足が止まる。
人間というものは、どうしてこんなにも自分自身をコントロール出来ないものなんだろうか。
脳も、感覚も、全て自分のもののはずなのに。思い出したくもない嫌な記憶ばかりがふとした拍子に浮かび上がって心を引っ掻いていく。
嫌な記憶ばかりだったわけじゃない。楽しかった記憶だって、嬉しかった記憶だって存在するはずなのに、どうしてそんな言葉ばかり残ってしまうんだろう。
もう一年も経つのにそんな事を考えてしまう自分に自己嫌悪になりそうになって。
(う……駄目だ駄目だ、これはよくない思考)
自分で勝手に思い出してしまった嫌なことに引っ張られるほど弱くは無いし、自分で自分を憐憫するほど若くもないつもりだった。
「……いい匂いがする……ご馳走の気配がする」
声がして、私はビクッとして声の方を見た。今度は記憶ではない現実で。
見ると、私が少しだけ過去の幻影と戦っている間に、家主が匂いにつられてふらふらと壁に寄りかかってこちらを見ていた。
「……あの、それ」
「えっと、すみません。色々あると思うんですけれど、まずは、食べますか?」
疑問や警戒など、私がいることに対して反応すべきそれらの感情よりも何よりも、ただ空腹の解消にしか目がいっていなさそうな彼に、私が恐る恐る言うと。
「……いただきます」
いい匂いの立ち込めるキッチンに、彼のか細い声が小さく響いた。