5章8話 夕暮に染まる赤
海に小さな川が流れ込む入江部分。そこにかかる橋を抜けて、僕とのぞみさんは二人歩いていた。太陽が夕日と呼べる色に変わって、僕らの影も少しずつ長くなっている。
後はホテルまで一直線の坂を登るだけかと思っていたが、僕はふと正面に銅像と、またしても気になるものに目を留めた。そして、僕が気づくということは、同じようにのぞみさんも気づくということを僕はもう知っている。
「ねね、直人くん」
「ですね!」
何も情報のないやりとりだった。でも、僕らにはそれだけで事足りて。二人で足を向けた先の、木でできた立札の前に立ち止まった。
「太田道灌って、誰でしたっけ?」
「えっと……ここに書いてあるね。山吹の里伝説の主人公? へぇ、熱川温泉を見つけた人なんだ。そしてこの階段の先には湯権現っていうのがあるみたい。こんなところに?」
のぞみさんがとても楽しそうに話す。
こんなところ、というのは、確かに鳥居があるのだが、明らかにその鳥居の背景にはホテルがあるからだった。
「ふふ、とりあえず行ってみましょ」
そして、何となく立ち寄るにはちょうどいいそういうのを僕らが好きなことが明白で。お互いに頷きあって小さな鳥居をくぐって、これまた小さな階段を登る。
「あはは、可愛い鈴だね」
のぞみさんが言う通り、随分とミニチュアに見えるけれど、鳥居も鈴も二つあって、横幅もちょうど二人で並べるくらいで、結構僕は好きだ。
のぞみさんがそっと鈴を鳴らして、二人で賽銭を入れる。
「うーん、ここでは何をお祈りしようかな」
「七福神さん達は、皆それぞれ担当があったんですけどね」
そんな事を言いながら、小さな鳥居の前で僕らは二人手を合わせて。僕はというと、頭に浮かんだ事をそのまま祈ることにした。
少し、ふわっとしたお願い。でも、一つで二人幸せになれる、我ながらWinWinだと思うお願いを。
「あれ? 見てみて直人くん」
「何ですか?」
祈り終わった僕がゆっくり降りようとするところに、のぞみさんが肩を叩いて止めて。
それに僕が首を傾けると、のぞみさんは、とても大発見をしましたというように、指さして言った。
「神社だけど、ちっちゃいから無いのかなと思ったらさ、あそこに小さな狛犬がちゃんといるんだね」
「え? あ、ほんとですね、気づかなかった。へぇ、やっぱりこういうところにはちゃんと二体いるのか……ふふ」
「ね、可愛いなと思って……あれ? どうかした?」
少し思い出すようにしてくすりと笑った僕に気づくと、のぞみさんはそう尋ねてくれる。僕らはまた階段を下りて、坂を上ってホテルに戻りながら、話しながら歩いた。
「いえ、二体いるのを見て、ちょっとおんばのことを思い出してました」
「へぇ、それはどうして?」
「えっと、めちゃくちゃくだらない話ですよ?」
「いいからいいから……私はおんばさんには会ったことはないし、そういうの、知りたいじゃない?」
のぞみさんが微笑むようにして言って、そして、僕は昔を思い出すようにして言葉を探す。
「なんで二つあるんだって話を、むかーし僕はおんばに聞いたことがあって、凄い覚えてることがあるんですよね」
「なんて言われたの?」
「それが、『そりゃあ、一体しかいなかったら、眠ることもできないし、さぼることもできないし、疲れちまう。お前だってそんなのやだろ?』って」
あれは、子供ではあったけれどそれなりに知識もついてきた頃の事で、幼心にも僕は、そんな実用的な理由じゃないだろって思ったのだけど。
「ふふ、あーでも、笑っちゃったけど、そうかもね」
「そうなんですよね。きっと理由は別にちゃんとあって、そっちが正しいはずなんですけど。何かその時の僕は納得しちゃって……っていうのを、さっきもおんばにごめんって思ったからかな? だから不意に思い出しちゃいました」
僕が、そう少し照れたようにして言うと、のぞみさんはとても優しく笑った。
ただ、次に少し不思議な顔をする。
「いいなぁ、って思ったけど。あれ? おんばさんに謝ることでもあった?」
しまった、と僕は思って少し止まった。
流石に当の本人に、何でと聞かれると恥ずかしいわけだけれども。
「えっと、それはですね――――」
「直人くんが口ごもるの珍しいなぁ、何で何で?」
咄嗟にどうしようか考えてしまったせいか、のぞみさんに興味を持たれてしまって、僕は少しだけ勢いのままに告げた。
「……これまた昔ですよ? 人を好きになったら色んな物が綺麗に見えるって言われて、その時の僕は全然わからなかったんですけれど」
そして、隣を歩くのぞみさんを見て、続ける。
「今日改めて、好きだなって思うのぞみさんと色んなものを見て、本当にそうだったなぁって。だから、ごめんって言ったんですよ」
「…………う……ぁ」
それに、いつもは少し照れながらも、ありがとうとかの言葉で返してくれるはずのぞみさんがピタッと立ち止まって、僕もつられて、歩くのをやめた。
立ち止まると川沿い特有の水の音がして、木々から蝉の声が強くなった気がして。
「のぞみさん?」
僕が、どうかしたのかとそう問うも、のぞみさんは何かに迷うような様子を見せていた。
えっと、と辺りを見渡すと、先程最初に見つけた毘沙門天の像の険しい顔が見える。さっき散策を始めた地点に、僕らは戻ってきていたようだ。
「………………私もさ、直人くん、好きよ」
そしてしばしの沈黙の後、凄く小さな声で、のぞみさんの口からこぼれるように、そんな言葉が聞こえた。
蝉の音に紛れるようにして、でも、何故かはっきりと届いたそれを、僕は一瞬、都合の良い耳が誤変換したのかと疑って。
でも、のぞみさんはそんな僕の方を黙ってじっと見ていた。その頬と耳が赤くなっているように見えるのは、何だか夕日のせいじゃない気がして。
「えっと? それはその、ライク的な?」
多分この場に別の人がいたら、違う、そうじゃない、って怒られそうな疑問を、僕は口にした。だけど、のぞみさんは怒らずに、ますますその身を縮めるようにして。
「…………ラブの方」
そう、さらに小さい声で、答えた。
僕が、え?と心の中で疑問の声を上げつつも、咄嗟に何も言葉が出ないでいる間に。
「うう。……っていうか、この言い方すっごい恥ずかしいんだけど! もう! つまり、そういうことだから!」
のぞみさんはそう言い切って、ずんずんと坂を上っていく。
(え? ええ?)
夕暮れに染まる道路を、長い影が、僕の戸惑いを笑うように伸びていて。蝉の声が、僕の心臓の音に負けないくらいにただ、響いていた。