5章6話 音のしない瞬間に
何はともあれまずは腹ごしらえからだよねということで、荷物を置いて一息をついた僕達は散策を――しようとして、ホテルから出た坂を下ったところで、早速あるものに捕まっていた。
三叉路で、いざどっちに行こうかなと思ったところに、とてもいい匂いがしてきたのが良くない。
胃に直接訴えかける香りに、そちらを見た僕とのぞみさんは、ひらりと風に舞うのれんと、扉の脇に置いてある看板に目を留めた。
そして、お互いに頷く。
結果――。
「んー、美味し!」
僕の前で、ことん、とグラスビールを置いたのぞみさんが、つまみに運ばれてきたものに舌鼓を打っている。
干物に、ピザに、かき氷に、生ビール。
見れば見るほどどんな組み合わせと思うけれど、こののぞみさんの笑顔と、美味しさは正義だった。
「うふふ、平日のお昼になーんにも気にしないで飲むビール、美味しい」
「のぞみさんってば、意外とお酒強いですよねぇ?」
「まぁ普段は飲まないけど……今日はいいんでしょ? とはいってもこの一杯だけにするけどね。歩くし、直人くんにも悪いし」
「ふふ、僕はそんなに強くないので、遠慮はいらないですけどね」
運転することもあるかもしれないから、念の為夜までは飲まないつもりだけれど、代わりに頼んだかき氷も美味しかった。
『冷えた生ビール』。『期間限定かき氷』。
これらが僕らの目に訴えかけてきたもので。
「この干物、美味し! 帰り買って帰ろう!」
そして、今まさにもぐもぐと僕の目を楽しませてくれているのぞみさんが食べているのが、匂いの元である魚の干物だった。
夜の海鮮はお寿司にお刺身らしいので、ちょうどいいのかもしれない。ピザはまぁなんかノリである。美味い。
「ねね、溶けちゃう前に私にも一口ちょうだい?」
「え? あ、はい」
そして、干物をゴクリと飲み込んだのぞみさんが僕のいちごのかき氷を見てそう言って、僕は条件反射的にひょい、と少し長めのスプーンを差し出した。
それに、一瞬止まったように見えたのぞみさんだったけれど。
あむ――。
そんな擬音は鳴っていない。
でも、僕の脳裏にそう聞こえた音と共に、のぞみさんの唇がすくったかき氷を食んで、「んー、冷たい! 美味しい!」と言った。
(ん…………?)
ふと、今凄く当たり前のように、少しだけ恥ずかしい事をしたんじゃないだろうかと、はたと止まる。
僕は、のぞみさんが口にしたそのスプーンの先を見て、のぞみさんを見て、またスプーンを見た。
――ミィンミィン。
――ザザァ。
――ブォーン。
蝉が鳴いて、波が寄せて、車が通り過ぎる音が聞こえて。
「…………食べないの?」
のぞみさんが、絶対にわかっている顔で、にこりではなくてにやっと微笑って僕を促した。
僕には読心術はないけれど、その目には、私だけ少し恥ずかしい思いをさせるのかしら? と言っている気がした。
「……美味しいです!」
そう言ったら、のぞみさんが今度はあはは、と笑って。
耳も、目も、鼻も。手に伝わるスプーンの感触も、喉を通る甘く冷たい味も。
全てが幸せの色をしていた。
◇◆
(間接キスくらいでドギマギするような歳でもないのにさ)
私は誰に言い訳をしているのだろうか。
少なくとも、その、くらいでドギマギしてしまったのは私なわけだが。
そして、全くそういうことに意識をしていなさそうな直人くんの表情が悔しくて、ちょっとした意地悪をしてみたわけだが、より恥ずかしくなったのはこちらもなので自爆効果の方が高かった。
(あぁ、楽しい)
もう何度目かにそんな事を思う。
仕事から開放されて、旅行先で、いつもよりも絶対にテンションが高くて、そして心が動きやすくなっているのがわかった。
「ごちそうさまでした!」
そう告げて店を出て、まだ夕暮には早い太陽を見上げながら、私は直人くんに声を掛ける。
「さて、どっちの方向にいこっか」
「そうですね……あれ? のぞみさん、あっち何か看板ありません?」
直人くんが指差す方向には、車は入り込めない少し細い路地が、海に続く川沿いに存在していた。そして、遠目に何か文字が書いてある看板と、とても小さな祠のようなものが見える。
景色よし、道よし、天気よし――――同行者よし。
「行ってみよっか」
気兼ねなくそんな風に言える私と、待ってましたと頷いてくれる直人くんがいた。
そして――。
「「お湯かけ、七福神?」」
その前まで来て、それを呟くのは同時だった。
思わず私は、直人くんと顔を見合わせて。
『またそんな変なのに興味持って変わってるよね』
かつて、そんな風に言われたことが頭をよぎりつつ、でも、と期待をする心と共に私が思ったことを口に出そうとした時。
「うわ、めっちゃ気になる! これ探しに行きませんか? きっと七個あるんですよね? 街散策ついでに!」
いつものように、脊髄反応で発していそうな直人くんの言葉が聞こえた。
だからこそ、その言葉は嘘のないもので。そして、その内容は、1秒後ならきっと私が告げていたはずのものだった。
「ふふ……あはは。ははっ!」
そして、それに気づいた時。
私は、込み上げてくる笑い声を、抑える事ができなかった。
「え? のぞみさん?」
「ううん、ごめんごめん急に笑って。行こう行こう。私も行きたいなって思ってた」
そう誤魔化すようにして言って、直人くんがほっとしたように笑う。
でも、私の心はもう、誤魔化すことはできそうになかった。
(くそー、本当に? こんなことで? いや蓄積かなぁ……それとも、気づいただけ?)
私は自分の心に、そうぼやく。
何故かなんてわからない。もっと他にあっただろって、自分でも思う。
しかし、間違いなく今、私の心の中のどこか大事な箇所が動いてしまっていた。
カチリ、とはまってしまったのだ。
――――きっとそれに、音なんてないけれど。
こんな――。
ただ、同じものを見て、同じように感じて、気にしなくていいというそれだけで。
この、欠点なんていくらでも挙げられそうな人に今、私はどうしようもなく恋をしているらしかった。




