5章5話 心の枷
直人くんの運転する車がゆっくりと、赤い提灯に赤い手すりという私の琴線をくすぐるような橋を通り抜けていく。
温泉が湧いているのか何本か煙が立ち上る煙突を遠くに見ながら、細い急な坂道を登った先に私達が宿泊するホテルはあった。
「頑張れ頑張れ」
車に言っても意味はないのだけど、少し坂でエンジンが頑張る音にそんな事を言いながら、私達は駐車場にたどり着いて。
そして今、少し年代を感じさせる、でもとても綺麗なホテルの受付で、私は直人くんが手続きの用紙を書いているのを見ていた。
「本来はチェックイン時間はまだなんですが、もう部屋は準備できておりまして、入室いただくことも可能ですがどうされますか?」
ニコニコと微笑んでいる受付の年配の女性が、隣の私にそう告げて。
「え? そうなんですね……なら、もう部屋に荷物置かせていただいてもいいですか?」
それに、私は直人くんと顔を見合わせて頷いて、答えた。
「はい、ではこちらが部屋のカードキーになります。外出の際はフロントにお声掛け頂けますと幸いです」
「わかりました」
「それではよいご滞在を」
上品な微笑みを向けてくれる婦人に、私はぺこりと頭を下げて、書き終えた直人くんと共にエレベーターに向かった。
子供連れの家族が笑い合いながら降りてくるのに会釈して、脇に避ける。
(家族旅行かな? ……そういえば、私達はどう見られているんだろう?)
ふと浮かんだ考えから、私は連想するようにしてそんな事を考えた。
(恋人? それとも夫婦?)
男女が二人、友人で来ることもゼロではないだろうが、一般的にそういう関係だと思われるだろうと思って、嫌ではないな、と当たり前のように感じる自分に少し、驚く。
「5階なんですね、和室ってなってましたけど、楽しみ」
「ええ、入り口の雰囲気もいいし、良いところみたい」
乗り込んだエレベーターが上っていく重力を感じる中、私は改めて首を向けて直人くんを正面からじっと見つめた。
直人くんは、言葉は真っ直ぐなのに、不思議と感情は読めない。
正確に言うと、にこにこしてるから楽しそうだな、と思うのだが、そこにドキドキしているのかといったような反応はわからないのだった。
直人くんが、そんな私に何ですか?と問いたげに首を傾げる。
それに、何でもないよ、と首を振ると、チン、とエレベーターの音が鳴った。
荷物を持ちながら部屋へと向かう。直人くんが少し先を部屋番号を見ながら歩いて、私は背中を追うようにして歩いた。
早くもなく、遅くもない、ちょうどいい速度で。
なんだかとても――――そう、とても自然だった。
心が浮き立つような楽しみな心と、何故か泣きたくなるような情動と、安心できる穏やかさが共存していて。
私のどこかで少しだけ、コトリ、と心の枷が一つ外れたような気がした。
◇◆
(うわー、この心臓の音聞こえてないよね?)
僕は、エレベーターという密室にのぞみさんと二人乗り込んでそんな事を考えていた。
あまり広くはないエレベーター内で、いつもよりのぞみさんが近い。
なのに、凄くのぞみさんが見つめてくるから、更に心臓が張り切ってしまっていた。
近いから、余計にのぞみさんの髪からいい匂いがしていた。
甘いだけじゃなくて、くらくらする香り。僕に理性というものがなければ、抱きしめて髪に顔を埋めてしまっていたかもしれないくらいだ。
やばい。正直に言おう、今の僕は気持ち悪い。
でも仕方がないのだ。どんどん、どんどんと好きになるのだから。
笑ってくれる顔が愛おしくて、笑ってくれる声が耳に優しくて。
それだけで満足だと思う心もあったし、果てがないような気もした。
「あ、ここみたいですね、番号ちゃんと覚えておかないと」
そう言いながら、カードをかざして、ロックを解除する。
そして部屋に入った僕らは、「わぁ」と二人揃って感嘆の声を上げた。
綺麗な和室だった。
僕の想像の中にあった、ザ・和室である。
真ん中にテーブルがあって、向かい合わせに座卓がある。そしてテーブルの真ん中に和菓子と、お茶があるのもまた良いし、何より――。
「あ、僕この場所好きかもです! 見てくださいのぞみさん、海がすごい綺麗に見えますよ!」
開いた襖の先の、深くもたれられる椅子にガラスの小さな机が配置されている2畳ほどの空間。
そこに荷物を置きながら、僕は振り向いてそう言った。
「うわ、ほんとに綺麗……それに、ふふ」
すると、思った以上に近くにのぞみさんの顔があって。
「私も好き」
と目を細めて言う言葉が、耳元で聞こえて、ゾクッとした。
勿論、この空間に対しての言葉なのはわかっている。
わかってはいるのだけれど、僕はたまらなくなって、心の中で叫んだ。
(うう……僕ものぞみさんの事が大好きです!)
騒がしい僕の心とは裏腹に、海が寄せては返す音が、静かに聞こえていた。