5章1話 踏み出す未来
「お世話になりました」
想像以上に何の感慨も湧かないものだな、と思いながら、私は課長に入館証と社員証を返却した。これで、最後。お世話になった人たちに対しては既に挨拶は終えているので、もう後はこの場所から立ち去るだけである。
「……その、色々とすまなかったね。今後の活躍も期待しているよ」
「はい、課長もお身体にお気をつけて」
事務的なやり取りを交わして、私は意識して背筋を伸ばして執務室の出口へと向かう。私を見てひそひそと出来ていない話し声は無視しながら香菜が待ってくれているところに行くと、香菜はスッキリとした顔で笑って言った。
「先輩、お勤め、本当にお疲れ様でした」
「香菜ちゃんも、見送りありがとうね」
「いえいえ……とは言っても私も、もう少しで後を追って退職ですけれど」
そう言いながら香菜がさするお腹をつい、私は見てしまう。
全く目立ってはいないが、この冬には産まれるのだと、辞める私はこっそりと教えてもらっていた。
私と香菜の二人が辞めることで、一時的に残された課の人間は大変になるかもしれないが、それでも仕事自体が滞ることはない。それがそれなりに大きな会社というものだった。
「これからは違う場所になるけれど、ここで香菜ちゃんがいてくれて、会えて本当に良かった。身体には気を付けて。またお祝いもしたいし、話をさせてね」
「ふふ、こちらこそです。先輩こそ一ヶ月ゆっくり休んでくださいね。そして、ガッポガッポ稼いで、お祝い奮発待ってますからね!」
私の言葉に、香菜が気持ちのいい笑顔で返すものだから、私はくすりと笑って手を振った後、少しだけその場に対して頭を下げてビルを出る。
こうして私は、社会人になってから六年勤めた会社を、辞めた。
◇◆
「いやー、凄いわね、このご時世にそんな男はレアよ……それにしても、だからか。あんなにうちの子と気が合うの」
というのは、私の近況を聞いて様子を見にやってきてくれた、根堀葉掘り、なんなら根も葉もない部分まで聞き出してくる大学からの友人である麻莉奈の言である。
その目線の先では、一つのタブレットの画面を覗き込みながら直人くんが麻莉奈の息子である智史くんと楽しそうにキャイキャイしていた。
「いやぁ、早いもので大学卒業のときの子供がもうあんなに大きいのかぁ」
私が麻莉奈のお腹を見つめながらそう言うと、麻莉奈は笑って言った。
「何おばさんくさいこと言ってるのよ……ふふ、でも良かった。明るくなったし、前から言ってたじゃない、そんな会社は辞めちゃえって。でもまぁあれかぁ、長年の友人からの助言よりも、やっぱ動かすのは男か――――」
「もう、茶化さないでよ……その、直人くんと、その会社の社長さんが誘ってくれたのはその通りだけど」
『……もしのぞみさんさえ良ければなんですけど』
直人くんがそう切り出して話を通してくれたのは、業務提携をしていたプロジェクトが無事リリースになってからのことだった。
「でもさ、彼氏……ではないにしても、ちょっとそういう複雑な関係の人と同じ職場なんて、大丈夫なの? その、新入りとかでいじめられたりしない?」
麻莉奈が少し冗談めかしたように、でも確かな心配の色を忍ばせて尋ねてくるのに、私は首を横に振る。
「一度伺わせてもらったんだけど、なんだかむしろ歓迎されちゃった。可愛い子が二人もいてね――」
『……あなたがのぞみさんですね。ほんとうちの風間先輩が迷惑かけて……一緒に働けるの楽しみにしてます!』
『……よろしく』
対称的な二人と聞いていたけれど、二人共魅力的で、そして、事情も知った上で何故か完全に私側らしく、なんだかとても、楽しい職場になりそうだった。
「……ママ、見て見て! なおとがすごいんだよ! スイカ二個作って消した!」
そんな事情も話していると、飛び跳ねるようにして智史くんがやってきて、タブレットを見せた。
さっきから色んなゲームを一緒にやっては楽しそうにしていたが、今は果物をくっつけて大きくして高得点を目指すゲームに熱中しているようだった。
「あんた、名前呼び捨ては失礼でしょうが……ごめんね風間さん、遊んでくれててありがとうね」
先程までは友人の顔をしていた麻莉奈が、切り替わったように母親の顔になって叱る。
それに直人くんはにこにこしながら答えた。
「あはは、こっちも楽しいですから、ね、智史」
「ねー、なおとがいいって言ったんだもんね」
そう二人で笑いあって、飲み物を飲んだらまた転がりに行く。広い部屋ではないのに、ベッドに腰掛けて話している私と麻莉奈から少し離れたところで二人で楽しそうに寝そべっているのだった。
「……ふふ、可愛いなぁ」
それを見て、私が頬を緩めていると、麻莉奈から視線を感じて私は首を傾げる。
「なに、麻莉奈?」
「いーえー? どっちを見て可愛いって言ってるのかなー? って思ってね」
いたずらっぽく笑う麻莉奈に、私が向けていた視線を自覚して、少し顔が熱くなった。それにますます、麻莉奈は調子に乗ったように指でつついてくる。
「恋人じゃないとか言って、そこら辺どうなのよ? 」
わざわざ耳に口を寄せて言うのに、私は言葉に詰まる。
あの告白から二ヶ月と少し、残暑と呼べるような時期になってもまだ、私と直人くんの関係性は、絶妙なバランスを保っていた。




