4章6話 もうこれは、いいよね?
振動が伝わって、私は少しだけ浮上した意識の中で、上半身が寝かされていることを知った。
いつの間にか、頭が下がっていたほうが楽な態勢を取ってしまったらしい。
そんな事を考えながら、朦朧とする中で近くにあったひんやりとしたものを掴むと、声が上がった。
「……あ」
直人くんの声だった。
それで私が掴んだものが彼の手であることを知って、なのに、私の手は掴んだものを離そうとはしない。普段は全くといっていいほど男性を感じないのに、いざ手とわかるとそれはきちんと男性のもので。
今はその感触がとても、心地よかった。
ぐるぐると、思考が回る。
うまく動かせない身体。意識してしまうと襲ってくる頭痛に目眩。明日からどんな顔して会社に行けば良いんだという心配と、同時にやり切ったんだからもう良いだろうという開き直り。
(――――あ)
そんな中で、直人くんが、おずおずと、少しだけ握り返してくれたのが手の感触で伝わった。
それだけで、思考が安心に塗りつぶされるようにして、落ちる。
――――落ちていく。
◇◆
窓の外を高速で景色が流れていくのを僕は眺めていた。
タクシーの車内。運転手さんが無言でいてくれるのがありがたい。そう思いながら、僕はなるべく揺れないようにと膝を固定するように努める。
僕の、きっと柔らかくもないふとももの上に、のぞみさんの頭が乗っていた。
さらに先程、のぞみさんがもぞりと動いたと思ったら、どこに置こうかと中途半端な位置にあった手が急に握られてしまって、僕の心臓は飛び跳ねんばかりだった。
いや、もしかしたら僕が気づいていないだけで、もうどこかに跳んでいってしまっているのかもしれない。
『トキオ:こっちは何とかしておく、ついておいてやれ』
ふと、まるでタイミングを見計らっていたかのようにスマホが震えて、一行だけのメッセージが表示され、僕は心の中で感謝を告げた。
(ありがとう)
あの後、救急車を呼ぶかどうするかという話や、持病などの確認があった後で、のぞみさんはひとまずビルの医務室に運ばれた。
のぞみさんは一度そこで目を覚まし。
「睡眠不足による貧血だと思います、倒れる時に頭なども打っていないようですので、大丈夫かと思いますが、微熱もありますので、帰宅後安静にして、必要に応じて改めて病院に罹るようにしてください……えっと、ご家族の方などへご連絡は――」
女性の常駐医の方にそう告げられて、のぞみさんは辛そうにしながらも答えた。
「……いえ、大丈夫です、早退させてもらうのはすみませんが」
それに、運んだ流れからも付き添っていた僕と幸田さんが反応する。
「先輩、そんなこと言ってないで休んで下さい、課長には私が言っておきます」
「そうですよ……あ、僕、家がのぞみさんの隣ですし、ご家族の方も知っていますので付き添います」
共に付き添っていた幸田さんは、僕が隣人だと聞いて少し驚いた様子ではあったが、同時にどこか納得した様子で頷いて言った。
「風間さん、先輩をよろしくお願いしますね」
「はい、もちろんです」
それに僕はそう答えた結果として、今、僕はタクシーでのぞみさんと共に家に向かっている。
乗り込んだ時は何とか歩いて乗り込めたものの、いざタクシーが発車すると、のぞみさんは安心したのか眠ってしまい、そして、寝息を立て始めた後で僕の方に寄りかかってしまっていた。
更にはどういうわけか手も掴まれ、いわゆる膝枕と手つなぎというのが、今の状態である。
(…………)
そろそろ限界なのではと思うほど早く鼓動を打っている、僕の心臓が家まで持つかどうかを診断してくれる人は、誰もいなかった。
◇◆
「あ、ギリギリまで入ってくれてありがとうございました……のぞみさん、降りれます?」
詮索もしないで運転してくれた初老の運転手さんにそう礼を言って、僕はのぞみさんに声をかける。
「…………うん」
首がかすかに揺れて、これまで聞いたことがないほどか細い声でのぞみさんは頷いた。
それに少しほっとして、僕は会計をして降りると、逆側に回って支える。だが――。
「……うわ、と」
肩を貸して歩いて数歩で、のぞみさんがふらついて、僕は慌てて支えた。
車内でも思ったけれど、熱があると感じ取れるくらいにのぞみさんが熱い。
「ごめんなさい、ちょっとお姫様だっこできるくらいの筋肉はいずれつけるとして、今はおんぶさせてくださいね」
生まれ育ちの場所のお陰で、酔っ払いを運んだ経験は何度もあった。
体調が悪くて力が入らない人と、酔って動けなくなった人が同様なことを知ったのは初めてだったが。
(よいしょ、あ…………えっと、よし)
こんな時なのに、少しだけ背中に感じるワイヤーの硬い感触と、その奥で何かが押しつぶされた感覚に思考が止まった僕は、心の中でそう呟いて歩みを進めた。
初めて助けられた道を通りぬけてマンションに入って。
二度目に助けられた階段を上る。
あまり衝撃を与えないようにそっと背負い直して、軽いな、と思った。
いつも、ちゃんとしていて凄いと思っていたのぞみさんが、僕の背中に収まるほどに小さくて、背負ってこれるくらいの質量しかないことが、不思議で。
(…………うわ)
そして何故か急に、その軽さを感じた後で、一度は落ち着いたはずの心臓が、再び活発になり始める。
「……なおと、くん」
そんな時に、凄く小さな声で、でも耳元で囁かれて、僕はぞくりとした感覚に立ち止まった。
でも、すぐその後に続いた「ありがとう」で僕は再起動して。
僕はただ、何の変哲もない、マンションの廊下を、僕はのぞみさんを背負って歩く。
そして、唐突に僕は理解した。
考えてもわからなかったことが、突然降って湧いたように。
思えば、伝えてしまったのもこの場所だった。
初恋かもしれないと言われて浮かれて――――。
本当に恋なのかと問われて、少し悩んで――――。
でも。
背負った肩のぬくもりも、こんな時でも意識してしまう柔らかい感触も。
頑張っている姿も、気が抜けたように笑う顔も、張り詰めた横顔も。
全部、全てが。
(……うん、もうこれは、いいよね?)
僕はその理解に対して、誰にでもなく心の中で深く頷いた。
正直、こんな気持は初めてだから、他の人にとってのそれと同じなのかなんてわからない。
でも、思ったのだ。
もうこれが、この、言葉にできない大事だという感情が。
恋でいいじゃないか、と。




