4章5話 無理と意地の行方
朝起きた時に、身体の気怠さを感じた。
(……よりにもよって今日かぁ)
私は、そう思って身体を起こす。カーテンを開けると、眩しい日差しが部屋に差し込んで、寝不足の脳に作用してくらりと世界が揺れた。
「っ、と――」
咄嗟に壁を窓枠を掴み、一気に血流が全身に回る感覚とともに、起き抜けからはっきりとした思考が宿る。
そうして、何とか歩いて座った食卓には、栄養ドリンクに、ゼリーを前日の自分が置いたままにしていた。
(なんとか、頑張らないとね)
今日は関係者と上層部へのプレゼンがあり、その中でも実際にユーザーにアプローチする部分のデモと説明はのぞみの役割となっていた。
今日が通れば、後は基本的にはデザインとしては大きな修正はなく、逆に言うと今日で躓くと、事実とは関係なく、噂もいつだかの不快な視線も肯定されてしまう。
ここまで来て、それは勘弁だった。
「……よし」
健康とは言えなくてもエネルギーには変換される朝食を流し込むと、私はそう言って着替えて外に出るべく立ち上がる。
(……これが終わったら少し休もう)
そう心に決めた。
◇◆
大きなモニターのある会議室では、いつもに増して人が多かった。
僕はそれを見ながら、手元の資料を見る。モノさえあれば良いよねということが多いうちだと考えられないが整理されていて読みやすいと思えるものだった。
営業の人が前段で意義とやらについて説明した後に、のぞみさんが前に出る。
(……? なんかいつもと雰囲気が)
そして、僕は隣に立つ課長の男性の目線で違和感の元に気づいた。
いつもはスーツをぴしっと着ているのぞみさんの胸元が少しだけ緩んでいる。
(……いつもきっちりしてるのに珍しい?)
そんなことを疑問に思って、更にあれ、と思う。緊張などもあるのかもしれないが、いつもよりもどこか顔が赤い気がした。
(もしかしてのぞみさん、体調悪いんじゃ……誰か気づかないの? 隣にいる上司とか何してんだよ)
香川とか名乗った課長は、最初の挨拶の後は、説明はのぞみさんに投げて何のためにいるのかわからない。
僕は、イライラとしていた。
「……直人?」
トキオさんが、僕の様子に気づいて声を掛けるが、僕は答えずにただ、心配さから目を離せないでいた。
「本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございます」
しかし、そんな僕の心配をよそに、のぞみさんは一礼すると、スライドの操作を始める。
「これまでの連携では、ブランディングのみに注力されていましたが、私共の分析によれば、ユーザー体験そのものを融合させることで、双方のファン層に新しい価値を提供できると考えています」
のぞみさんの説明は、技術的な詳細と美的センス、そしてマーケティング戦略が見事に融合したものだった。
質問にも迷いなく答え、時に意見も上手く説明に取り入れながら、提案をより強固なものにしていく。
(……すごいな)
心配をしていたはずなのに、僕はのぞみさんの説明を聞きながら、そう思わずにいられなかった。話が進むにつれ、最初はネガティブな意見の人も顔つきが変わっていくのが見て取れる。
それは、コネとか、関係性とか、そんな声を吹き飛ばすような、ただの純然たる質で。
僕にもいくつかされていた質問が、何のためだったのかを改めて知る。
丁寧さと、積み重ね、わかりやすさ。それに加えて、どの方向を向いているかをきちんと示したプレゼンだった。
「ありがとうございました。以上で発表を終わります」
そして、そのまま説明を終えたのぞみが一礼すると、一瞬の沈黙の後、トキオさんが口を開いた。
「ありがとうございます、弊社としても、協業させて頂いたことを間違っていなかったと思わせていただける内容でした、まだ途中ではありますが、このまま進めさせていただくことで問題ないかと思っておりますが、いかがですか」
「……ええ、私どもとしても同じ感想を持っております。弊社の社員ではありますが、月野さん、それに関係者の皆さん、いい仕事をありがとうございました」
◇◆
すべてが終わって、私はほうっと息を吐いた。
やりきった感覚があった。
「いや、素晴らしかったね、流石は月野くんだ」
香川課長が、私の隣でそう言ってねぎらいの言葉をかけてくるのに、私は冷めた感情で会釈をして、PCを閉じるべく操作をする。
しかし、会議室から退出していく人がいる中で、気を緩めてしまったのがいけなかった。
(…………あ)
朝から感じていた立ち眩みのような感覚が、一気に回る。
(まずい――)
意識が遠のく感覚があった。時間がゆっくりと、コマ送りのようになって。
「いやぁ、よくやってくれた。自慢の部下だよ……良かったら今日は打ち上げでも」
それなのに、不思議なことに香川課長の声だけが妙にクリアに耳元で反響した。
「どの口が」
私はそう言いたかった。
だが声に出せたかどうかもわからず、ただ自分の身体から力が抜けていくのを感じるだけだった。
やらかしたと思った。
社会人としてあるまじき、気を抜くのが早かったと後悔しても、力が抜けてしまった足は支えることもなく――――。
咄嗟に驚くような声と、手が伸ばされる気配がした。
(あぁ、課長なんかに助けられるのは嫌だな……)
もっと他に考えることがあるだろうに、そんな胸中のもと。
来ると思っていた衝撃は来ずに、代わりに優しく包まれる感覚と、ふわりと安心する香りがして。
(――――ぇ?)
何が起こったかわからなかった。
でも、誰かに抱きとめられた事はわかって。
「触らないで下さい」
意識が朦朧とする中、直人くんの声が聞こえた。いつもの柔らかな声ではなく、怒りを含んだ低い声で続ける。
「デモの時も胸元ばかりチラチラ見て、体調不良にも気づかないなんてそれでも上司ですか?」
聞き覚えのありすぎる声なのに、こんな怒りに満ちた調子は初めて聞いた。
「……何を急に、そちらこそ何を言って――」
「この人は僕の大切な人なので、僕が、連れて帰ります」
それに、課長の慌てたような声と、力を込められて、続いた声。
更に、薄れていく意識で「きゃー」、というどこか面白がっているに違いない声も聞こえる。最後は絶対に香菜ちゃんだった。覚えてなさい。
気を失う前の思考とは思えない独り言のような呟きと共に、私は不思議と安心するようにして、意識を手放した。