3章10話 過去と怒火
(どうしよう)
トキオさんを探していたら、名前を覚えていない男性と、のぞみさんのところの新人の女の子に呼び止められてしまった僕は少し困っていた。
男性は、顔は見たことはある気がするから、挨拶したことはあるのだろうか。
顔と名前をすぐに覚えておくというのは、ビジネスにおいて基本で、とても大事なことだというのは、トキオさんにも言われていることなのだけれど難しかった。
「ちゃんと話すのは初めましてですね。風間さんって、凄く若く見えますけれど歳はいくつなんですか?」
「こんにちは。えっと、27歳ですけれど」
やばい、呼び止められたので当たり前だけど、こっちの名前はバレている。
そう内心焦りながら、僕が意図のよくわからない質問に答えると、男性は笑って言った。
「あ、じゃあ俺のほうが社会人的には先輩かな? そっちも敬語じゃなくていいからさ、仲良くしてくれると嬉しいなぁ。ステラの技術担当なんでしょ? すごいよね?」
「はぁ……」
僕には正直、別の会社の人に対して年齢で先輩後輩を決めて、敬語でもなくなるという意味は全くわからなかったし、技術が凄いと言われてもふわふわし過ぎていて、正直何か共通の話題がありそうには見えない。
とはいえここはアウェイで、そして僕は自分にコミュニケーション能力が欠如していることを自覚していた。そのため、基本的にこういうやり取りでは適当に笑顔でやり過ごすというのが僕の数少ない社会人としての手札である。
(服装の変なこだわりとかさえなければ、有栖の方がこういうのは向いてると思うんだけどなぁ)
そんな事を考えながら、離脱するタイミングを測っていると、今度は新人の女の子が口を開いた。
「へぇ、板橋先輩の方が年上なんですね」
「お? 川合ちゃん、おじさんとか言わないでくれよ?」
覚えられるかはさておき、男性が板橋さん、新人の女の子は川合さんであることが判明し、その川合さんは僕を見て少し頬をふくらませるようにして告げる。
「そうだ、聞いて下さいよ風間さん、今ちょうど話をしてたんですけれど、月野先輩って私に当たり強くないですか?」
「……? さぁ、僕には全然そんなふうには思わないですけれど?」
僕はそれに心から首を傾げながら、では、と告げて戦略的撤退をしようとして。しかし、板橋さんという人がポロッと放った言葉に足を止めた。
「まぁまぁ川合ちゃん。月野ちゃんにも仕方がない過去ってのがあるからさ、許してあげてよ」
のぞみさんの過去。
「え? 気になる!? なんですかなんですか?」
「あー、でもこれ言っちゃって良いのかな?」
板橋さんが、川合さんにそう言いながら、足を止めたこちらにも何か意味ありげな視線を送る。少しそこにざらっとした感情が含まれていた気がして、内心で首をかしげた。
ただ、そんな違和感よりも、のぞみさんが話していないことを他人から聞くのはフェアじゃない気がして。
「いえ、僕はそろそろ――――」
だから、そう言おうとしたところに、情報が被さるようにして畳み掛けられる。言いたくてたまらないものを吐き出すかのように。
「いやぁ、月野ちゃんって正直、背も小さくて可愛いじゃん? ……それでいてスタイルもいいし。入社した時から人気があってさ、まぁ結局同期のやつと付き合って婚約までしてたんだけどね。社内じゃ有名な話なんだけどさ」
(婚約……?)
婚約というのは、僕の知っている限りでは、結婚の約束だったはずだった。
「ええ? でも月野先輩って今彼氏とかいないですよね?」
そこに川合さんがそう問いかける。
言葉にどろりとした期待が載っている気がして、僕は首筋がザワっとする感覚に一歩後退りした。
離れたい。そう脳が命令を出している。でも、心のどこかが別の命令を出して、僕の足はそれ以上動かず、声も出ないままそこにいた。
「そこなんだよ、去年のことさ。今くらいの時期に、新人の子が寿退社って話があってね…………」
板橋さんが、川合さんと僕をそれぞれ見渡して、何かとてもウケることでも言うかのように溜めを作って――。
「子どもが出来たから、デキ婚って話でさ。結構可愛い子だったから情報も回って、そして……なんとその相手が月野ちゃんの婚約者だったんだよね」
「ええ? それって、浮気ってことですよね?」
「そうなんだよ……なんであいつばっかりって思ったもんだけど。どうやら新人の子に言い寄られて魔が差しちまったみたいでさ。月野ちゃんとのことはもう上司にまで話が通ってたもんだから大変」
「それでそれで? どうなったんですか?」
まるで話がノッているかのように滑るように喋り、それを面白い喜劇でも聞いているかのように先を促す光景を僕は唖然として見ていた。
今まで感じたことのない場所が、ドクン、と脈打つ用に感じて。
「まぁそれで、その同期の男は流石に問題だってんで異動。今は寿退社の女の子といっしょに、関西の方の支社にいるはずさ……まぁそんなわけで、さ。月野ちゃんからしたらたまったもんじゃないよね」
「かわいそー。え? でもそれで私を警戒してるってそんなの八つ当たりじゃないですか?」
「まぁでもさ、そういうトゲって抜けないから勘弁してあげてよ,ね?」
二人が笑っているのが、不思議で仕方なかった。
「ねぇ」
僕は、そう問いかける。
空気が変わったことを察したのか、男の方がヘラっと笑って言った。
「え? なんか怒っちゃった? ほんの冗談じゃん。なんか仲良さそうだったから、てっきり知ってるのかななんて思ってたんだけど」
冗談ってなんだったっけ?
日本語以外はわからない僕だけど、それでもまだ、この会話よりも英会話でも聞いていた方が理解できる気がした。
ただ、目の前のへらへらした男をまっすぐに見て口を開く。
「……僕が、世間からはズレてるからかな? 正直、今の話のどこに笑いどころがあったのかわかんないんですよね…………ねぇ、ほんと、意味わかんないんですけど。何のつもりで僕の前で、わざわざあの人を貶してるんですか?」
自分が発したその言葉で、僕は、自分が物凄く怒っていることに気づいた。
びっくりする。今まで一度だって人を殴ったことなんてないはずなのに、そんな僕でも、こんなにも怒りで拳を握りしめることがあるのかと。
「ええ? そこで怒るのも意外で悪くないですけど、ちょっとした噂話じゃないですか」
この人達とは、どこまでいってもわかりあえない気もした。
怒りの感情と同時に、どうしようもない諦観もまた、襲ってくる。それでも――――。
「あの人は……」
「ん?」
僕は、叫び出したい気持ちと、胸ぐらをつかんで殴りつけたい衝動を抑えて、言葉を選ぶ。
例え伝わらなくても、僕がここで黙って諦めてしまったら。なんだかのぞみさんが、この二人が言うように可哀想な人である事を少しでも認めたと思われてしまいそうで。
義憤でもなんでもない。この感情は、僕のための怒りだ。
あの人は、違う。
もしも、本当に過去、そんな辛いことがあったんだとしても。
少し困ったように笑いながら、他人である僕を助けてくれる。美味しいご飯を作って、自分の足で立って他の人にも優しさを分けられる、強い人。
僕の大好きな人を、こんなのに憐れまれるように、貶められたまま場を終わらせたくなかった。
「のぞみさんのことを、僕は尊敬してるんですよ。私生活でも、そして仕事でも、とてもきちんとしてるかっこいい人です。言葉が通じない、想像力もない人にはわからないかもしれないけれど、あなた達程度に同情されたり、笑われていい人じゃないと思ってます」
「……は? 急に何をマジになってんの?」
「程度ってひどーい。もう、そんなのキャラじゃないですよ? 風間さん」
少しだけ、軽薄な笑みを真顔にして、板橋さん――いや、板橋が言って、川合が逆にどろりとした笑みを浮かべた。
それに更に言い返そうとした時。
「さて、割り込んですまないが。その辺りにしておいてもらおうかな?」
聞き慣れた声が聞こえて、そういえばトキオさんを探していたんだっけ、と頭のどこか冷静な部分が囁いた。




