3章9話 心は揺れても
忙しさは余裕を失わせ、そして少しずつ、防御力を削るということを私は知っている。だから、それなりに休むパターンも、紛らわすパターンも持っていた。
でもそれ以上に、通じなさ、は全てを貫通してくるのだということをまだ、私は知らなかった。
少しゾッとする。もしもあの日、隣に彼が引っ越してこなければ、ご飯を食べて、どこかほっとさせてくれる関係でなければ、私の心はどうなってしまっていたのだろう。
◇◆
「川合ちゃん、配属されてどう? 慣れた?」
お手洗いついでに少し甘味を入れようかと、食堂の自動販売機群の前で一人悩んでいた私は、壁の向こう側から聞こえた声に手を止める。
周りに人がいると想像しないのだろうか、無駄によく通る板橋先輩の声に返答したのは、最近頭を悩ませている要因の一人である川合さんだった。
「うーん。まだ良くわからないことが多いですね。あ、それと聞いてくださいよ、さっきもですけど、私が風間さんに話しかけると、月野先輩が変に邪魔してくるんですよー。私は仕事上の質問をしているだけなのに」
そして、聞こうとも思っていなかったそんな言葉に、私は愕然としてしまう。
業務提携の結果、執務室の中で一時的にだが共に作業をしてはいても、あくまで直人くんは他社の人で、しかもその共同の案件に関わっていない川合さんが何かを質問するということ自体が厳密に言うとまずいことなのだ。
(直人くんがああいう性格だから許してもらっているけれど、厳格な人ならクレームが入ってもおかしくないから何度も注意と説明をしているのに)
自分は説明を受けたことがあっただろうかと思うような、注意と細かな説明。
でも、そんな私にとっての普通の感覚は、彼女にとっては理解できない、興味ある異性へのアプローチの邪魔でしかないらしかった。
徒労感。
仕事で没を受けるよりも、急な変更で帰りが遅くなるよりも。
ずっと、ずっと、何かが抜けていくようで。
(…………)
でも、ため息はつくまいと飲み込んで、更に続いた言葉に、私は今度こそ失笑してしまった。いや、笑うしかなかったというか。
「えー? なんだよ、俺が誘ってもいつも忙しいって言ってたくせに、結局顔かよ」
(あぁ、そう来るのか)
胸の奥が、冷える。
「まぁ、風間さんは顔だけじゃなくて他も凄いですけどね。板橋先輩もいい線いってますけど、あのステラですよステラ。中村さんもお近づきになれないかなぁ」
ほんの一言二言で、笑うしか対処がないほど、疲労がのしかかっていく。
直人くんの顔がいいのは認めよう。
仕事だけしている直人くんを見たら、普段の食生活を思い浮かばないのも許す。
しかし、仕事として会うときは、仕事上としての関係の節度としているし。正直ここまでの過程に、直人くんの容姿に対する恋愛的な要素が欠片でもあったかと思われるのは物申したかった。
報告のような告白を受けてからの今でも、だ。
更に言うと、お前らはどの立場で言っているんだと。
心の中で好きなことを言う二人に毒づいてしまいそうなその時、ふと、気配を感じた。
「……失礼、聞くつもりも、見るつもりもなかったのだが」
声のトーンだけで、配慮を感じる気配の主は、そっと近づいてくる。
中村トキオさん。来客用の名札が、首元で揺れていた。
『トキオさんってば、芸名みたいな名前してますけれど、あれで本名なんですよ? 僕もカタカナが良かった。そしたらのぞみさんの平仮名とでいい組み合わせだったのに』
名札を見ると、同時に直人くんの言葉が甦ってくる。
よく過ごしているからか、何かにつけて、思い浮かぶことが多い彼。
「初対面の時は目立たせてしまって失礼した。更に、直人は迷惑をかけていないだろうか? 仕事、それも技術面以外では全く世間に適応していない男だからな。世話になって、感謝する」
「ふふ、中村さんは、直人くんのお兄さんみたいな感じなんですか?」
画面の向こうで見るよりも落ち着いて、そして、随分と柔らかい笑みを口元だけに浮かべる人なんだなと、思った。
直人くんが、何だかんだ言ってよく懐くような言動をしているのが、よくわかる気がする。
「……不本意だがな。随分とましになったが、あいつを拾ったものとして」
「拾った?」
私が首を傾げると、中村さんは何かを思い出すように笑った。
「昔、まだステラなんて影も形もなかった頃、一山当てようと今の直人の上司と一緒に色んなアプリを作って、いくつかは中ヒットしたんだが……」
「へぇ、凄いですね。直人くんはその後に?」
そういえば、中村さんは今はいくつなのだろうと思いながら、私がそう尋ねると。
「信じられないだろうが、そのうちの一つをハッキングしてきやがったんですよ……それも、こうした方が便利で、更にセキュリティの穴についてもご丁寧に置いてね」
「へ……?」
「こちらも若かった……というか私のもう一人が結構血気盛んでね。舐められてたまるかと調べて突き止めていくと。まさかの裏路地の先の店で、更に直接詰めに行くと十七のガキだった。そこからの付き合いで、まぁ面倒を見てきた自負もある――――だから」
どこかぶっきらぼうなようでいて、とても優しい言葉だった。
そして、中村さんはこちらを改めて見て続ける。
「ミツさんが亡くなった後、あいつは明らかに変だった。時間が解決してくれるだろうと思いながら、俺達は踏み込めなくて。それが、反対を押し切る形で一人で暮らして、気がついたら元気になっていた。全部、貴女のおかげだと聞いている」
「そんな……私の方こそ、逆に助けられているのかもと思うことも多いですし」
私の言葉に、ふふ、と中村さんが何かを言おうとした時――。
「あー、風間さん! 風間さんも休憩ですか?」
そんな川合さんの甲高い声が聞こえて、私達は言葉を止めた。