3章5話 直人、コンパイル中
久しぶりに訪れるオフィスのある駅は、帰宅する社会人や学生達で混み合っている。夕暮れがビルの脇にあるルーフに反射する中、僕は無敵アイテムを背中のリュックに入れた状態で歩いていた。
『のぞみ:あ、お仕事自体は夕方からなんですね』
『直人:動いてるものをリリースする時、一応日本時間での深夜帯でメンテナンスにするんです』
『のぞみ:じゃあ、起きた時間に少し食べられるように、お弁当にも入ってますけど唐揚げ、少し多めにして渡してますね』
そんなメッセージのやりとりがあった結果。
僕は仕事に出る前にものぞみさんの料理を食べ、そして仕事中の食事もお弁当という、未だかつてないしっかりした栄養のもと出勤しているのだった。
◇◆
「これで後は、少し待ちか……よし皆お疲れ様だ、まずは俺が見ておくから、飯なり仮眠なり、休憩取ってくれ」
加賀美さんがそう言って、手順に従って作業したり、不慮のエラーに備えて待機していた面々が席から立ち上がる。
そして、モニターを見ながらふう、と一息をついた加賀美先輩が、コーヒーを淹れながら僕を見て言った。
「直人も先に飯食っちまえよ? 自販機のカロリーメイトなのか、下のコンビニで何か買ってくんのかわかんねぇが…………んん、やっぱお前」
「どうかしました?」
その言葉の切り方に僕が顔を上げると、加賀美さんは顎髭をさすりながら首を傾げた。
「さっきも思ったが、なんか前より血色良くなったか? 腰痛めてた割には元気そうだしよ」
その言葉に、後輩の女子二人も反応する。
『志乃:私もそう思ってました! 肌が少し腹立つくらいにつやつやなのは元からですけど、少し肉付きがよくなったような。あ、太ったってわけじゃないですよ? ちょうどいいくらいで!』
「志乃、あんたこの距離のときくらいは直接喋りなさいよ……でも確かに」
「うーん、自分では気づいてないけど、最近特にご飯ちゃんと食べてるからかなぁ?」
「そうなんですか? ご飯といえば、この後はどうします? 外行きます?」
「今日はね、ご飯はお弁当あるから大丈夫」
「「……お弁当?」」「……っ?(ガタ)」
『志乃:風間先輩が、自分で作るわけないですよねもしかしてそれは彼女ですか? 彼女の手作り弁当? 腰? え? これは大ニュースですよびっくりです有栖ちゃんどうしましょう風間先輩に彼女が!』
「いや志乃、相変わらずタイピング早いね……そして彼女じゃなくてのぞみさんっていうお隣さんが作ってくれたんだ、いいでしょ」
僕はそう言って、お弁当袋に包んでくれた中身を取り出す。
ご飯と、卵焼き、唐揚げ、それにポテトサラダ。色合いが派手じゃないですけど、なんてのぞみさんは言っていたけれど、美味しいが既に溢れ出ていた。
「え? お隣さん? もう少し詳しく教えて下さいよ……よし、うちもちょっとパン買ってこよ、食べながら聞くんで、加賀美さん、抜け駆けは駄目ですからね! 志乃、行くよ」
「…………うん」
そう言った二人がバタバタと外に調達に行くのを呆れたように眺めながら、加賀美さんは僕を見て言う。
「で? 彼女?」
「彼女じゃないですけど、素敵な人ですよ」
「あー、お前は男でも女でも特に変わらずいい奴は皆素敵って言うからなぁ……まぁいい。そんで、ちったぁ慣れたか?」
おんばとも顔見知りだった加賀美さんの言葉に、僕は頷く。そして、最近知ったことを話した。
「はい……僕はちゃんとおんばの事を、悲しむことができてたみたいです」
「あぁ? そりゃそうだろ…………はーん、その辺りにそのお弁当の主が関わってると見た。面白いじゃねぇか、吐け吐け」
くっくっと笑いながら胸ポケットから煙草をまさぐるようにして、口に咥える。
「禁煙では?」
「火はつけねぇよ。話聞いたら行く」
そんなやり取りをしている間に、「あー! 続き勝手に話してないですよね?!」と言いながら有栖と、その後ろを続いて志乃が帰ってきた。
そして、僕は聞かれるがままに、のぞみさんの女神さ――いかに女神のように優しいかの指標――を話すのだった。
◇◆
「どこまで大げさすぎないのかわかんねぇけど……お前、良い出会いしてんじゃねぇか。で? どうなんだよ?」
「え? どうって? これで終わりですけど」
加賀美さんと、そして何故か身を乗り出して目を輝かしている後輩二人はそんな僕の言葉に、「はぁ?」という顔をする。
「終わりじゃねぇだろ、お前。大人の男と女がそんな風に出会ってだ、なんで何もねぇんだよ…………いや、お前はそれもありそうだが」
「恋とか」
加賀美さんが呆れたように言った後に、志乃がぽつりと言った。
有栖がそれにさらに反応して告げる。
「そうそうそうですよ! 風間先輩って恋愛事情とか謎すぎてましたけれどどうなんですか? 今とか、明らかに始まっちゃっていいと思うんですけど?」
「……………え? へ?」
有栖の勢いづく言葉に、僕はふと止まって、手のひらを向けて待ったをした。
そんな僕の反応に、加賀美さんと有栖と志乃が怪訝な表情で止まってくれる。
(こい……コイ……恋?)
恋愛という感情のことを、僕は知識としては勿論知っていた。
ただ、自分自身と絡めてそう云う状態になったことはない。
そもそも同年代と話が合った事は殆ど無いし、学校にもあまり行っていなかったから機会もなかった。
周囲に"女の子"はいたし、時折そういう感情を向けられたこともあったけれど。僕にはどうしても、恋人という関係がわからなかったから。
欲がないわけではないし、人も好きだ。
お店の子たちみたいに、特に自分の身体の性別に対して悩んだこともなければ、雑誌や動画の女の子を見て可愛いとか綺麗だとか思うことも沢山あった。
でもその好きは、周囲がよく言う恋とは違っていそうだったし、実際そうなんだろうとも思っていた。だから、僕は恋というものは出来ないものなのかなと、何となく、そんな事を思っていたけれど。
「もしかして……恋なんですかね? これ」
言葉に出してみる。それに加賀美さんは答えた。
「いや知らんが」
「ええ?」
あれだけ勢いづいてからかってきたのに?
僕がそれに抗議を込めた疑問を投げかけると、加賀美さんは言った。
「そう言われてもな。はぁ? お前もしかしてほんとにそういう自覚ねぇのか?」
「はぁ……自覚」
「ったく。そういうんは誰かに決められるもんじゃねぇだろ……あー、なんつうんだ。じゃああれだ、お前、有栖と志乃は好きだな?」
「それははい、可愛い後輩ですし、仕事も出来ますし」
僕は頷いた。
「……ちょっと加賀美さん? 当て馬みたいに使わないでくれません? お金取りますよ?」
「ハラスメントで勝てる」
「お前ら怖えよちょっとした喩えだろ? ……いやすまん、悪かったから勘弁してくれ。まぁあれだ、それと、そののぞみさんだったか? お隣さんの好きはどうなんだよ?」
加賀美さんが後輩二人に睨まれてタジタジになりながら、僕にそう言った。
僕は有栖を見て、志乃を見る。
「……なるほど」
そして、僕の方からはそんな言葉が漏れた。
「「なるほど!?」」
後輩二名がとても珍しくハモっていたが、僕はその発見に、それどころではなかった。
確かに全然違う。この感覚は、有栖や志乃に向けるものとも、おんばやみさきねぇさん、お店の皆に向けるものでもない。
(そうか。僕は、のぞみさんのことが好きなのか)
いざ心の中で言葉にしてみると、それはとても素敵なことだった。
お弁当をもぐもぐと食べる。美味しい。嬉しい。冷たくなってるはずのそれが心を温かくしてくれる。
(うわ……)
別にさっきまでの僕と、生物学的には何一つ変わっていないはずだった。それなのに、気づく前の僕と、今の僕ではきっと違うのだ。
(のぞみさんに、この嬉しい気持ちを、報告しなきゃ)
すぐにでもここを出てマンションに戻りたかった。
でも深夜、そんなわけにはいかないと、僕の冷静な部分が言う。走り出すことも出来ない。今できるのはただ、目の前の――――。
僕に、ぽかんとしていた三人がぼそぼそと話をしている。
「ちょっとちょっと加賀美先輩、風間先輩変になっちゃいましたけど……」
「…………元々では、ある」
「志乃、それはそうだけど。ほっといていいのあれ? 害ない? うわ、めちゃくちゃ仕事超速で走らせてるけど……お隣さんにも迷惑かけない?」
「ふむ…………俺は、何も知らん」
「うわーさいてー」
「馬鹿野郎、お前らだって面白がってたじゃねぇか」
そんな言葉も聞こえず。
ただ僕は、湧き立つようなこの衝動を持て余すように手を、動かし続けた。