2章11話 そのビーフシチューは、思い出よりも少しだけ塩の味がした
どうして僕は泣いてるんだろう。
自分でもよくわからない、感情なのか、衝動なのか。名前をうまくつけられないものが、鼻の奥からツンと湧き上がって、堰き止めようとする意思を無視するように、涙が流れ続けていた。
◇◆
のぞみさんの部屋に入ると、帰り際の少し怒ったようなのぞみさんの空気は無かった。そして、それを気にする以上に、僕は部屋に漂う匂いに気を取られた。
記憶の中にある、おんばのビーフシチューだった。
学校に行き始めてからも、途中で行かなくなった時も、仕事を始めた時も。最初にヒットしてお祝いの時も。
「直人、またかい?」っていいながら、でもどこか嬉しそうに作ってくれるおんばのニヤッと笑った時に左側にだけできるえくぼも、その時の空気も、一緒に食べる味も、大好きだった。
だから、のぞみさんに、何か食べたいものがあるかと聞かれて、最初に思い浮かんだのもビーフシチューで。でもいざとなると少し怖くて。
それをこうして、のぞみさんが再現してくれたその匂いを感じた時に、唐突に僕は気付いた。
(そっか、忘れてしまうのが怖かったのか、僕は)
おんばの野太い声も、頭をわしゃわしゃと撫でる大きな手の感触も。
――――いつも作ってくれたご飯の、香りも、味も。
絶対に、忘れるはずなんてないと思いながら。
お別れの時にすら涙もこぼせない僕は。もしかしたら、大事だとしっかりと抱えているつもりのこの思い出すら、あっさりと手放してしまうのかもしれないという恐れが、落ち着かなくさせていたのだ。
「じゃあ、ご飯とビーフシチューとよそってますから、一緒に食べましょう……完全に同じものに出来ているかはわからないですけれどね」
のぞみさんがそう言ってくれて、僕とのぞみさんは向かい合って座る。
凄く美味しそうで、いい匂いがして――――やはり少しだけ、怖かった。
そっとスプーンで、溶けそうなほど柔らかそうな牛肉と、艷やかな人参を口に運ぶ。
(…………あ)
ゆっくりと味わいながら、僕は一瞬、息を止めていた。それを、ほうっと吐き出す。喉を通っていく感触と、鼻を抜けていく香り。
記憶の中の味だった。
そして、その味が口の中に広がって。まるで爆発したように、僕の全てに一つの実感が訪れた。
おんばはもう、居ないのだ。
あの場所に帰っても、病院に行っても。
どこにももう、居ないのだった。
何かの言葉を口にした気がする。
のぞみさんが、物凄く優しい目でこちらを見て、そして自分もスプーンでシチューを掬って食べて、「……美味しい」と呟いた。
ただ、無心で運んでいるうちに、急に塩気が増した気がして。
何故だろうと思い意識を戻したところで、僕は気づいた。目元から涙が溢れ出ている。
びっくりして、慌てて袖で目を拭った。
なのに、次から次へと、涙が溢れて。今じゃない、今じゃないだろ、そんな事を思いながら手を止めていたら、不意に、のぞみさんにお礼すら言っていないことに気がついた。
「ありがとう、ございます」
そう告げると、のぞみさんがこちらを見て、そして目を丸くして、またシチューに視線を戻した。本当にこの人は、優しい。
僕はただ、記憶よりも少しだけ塩気の強いビーフシチューを、黙々と食べた。
◇◆
食べ終わって、そして泣き終わった後。僕は少しどころではない気まずさに、何かを言おうと思っては失敗するを繰り返していた。
リクエストした食事を作ってもらって、泣きながら食べた大の男である。
こんなときにこそ、僕の軽い口が火を吹けばいいのに、すべての燃料を涙に費やしてしまったのか、パクパクと開いた口からは何も言葉が生まれることはなかった。
「多分ですけれど」
そんな僕に、唐突にのぞみさんが口を開いた。
「はい……?」
「風間さんは悲しめなかったんじゃないと思います」
「え?」
のぞみさんには珍しい、断言するような、強い、言葉だった。
僕はぽかんと間抜けな声をあげる。
「自分では気づいていなかったみたいですけれど、帰り道も、凄く、凄く寂しそうな顔をしていました。それに、これまでミツさん……おんばさんの話をした時も、どこか誇らしそうな、でも寂しそうな顔を、していましたよ?」
「僕が、ですか?」
「それに、あれだけ泣いて。どの口が悲しめなかった、って言えるんですか。きっとそれは、悲しむことすらできないくらい、大事な人がいなくなって、呆然としちゃってただけです。それに自分で気づくことも出来ないくらいに、あなたはおんばさんを好きだったんですよ、きっと」
なんだか、のぞみさんのそんな言葉は、僕の心の中にすとんと落ちた。
自分の事なのに、他人の言葉で、そうか、と腑に落ちることもあるのか。
そんな事を思いながら、ぽつりと呟く。
「……育ててくれた恩も返したくて……たくさん、たくさん稼げるようになったのに、何にも使わせてくれることもなく急にいっちゃうんですもん。勝手ですよね」
「もしかして、課金したがるのはそのせいですか?」
「え? あぁ、もしかしたらそうなのかも? いやでも、成果は誠実に払われるべきだとは思ってますし」
「適切さが大事だと思います…………ふふ、でも、良かった」
僕がそうか、と思って、でものぞみさんへの感謝は別だと言おうとしたら、釘を刺すようにのぞみさんが言って、そして、柔らかく笑った。
(…………)
なんだかいつもよりも、更にふわっと、微笑みが咲く。
出会った時に気づいたように、おんばと同じく左側にだけでるえくぼと共に。
僕はただ、それに見惚れた。
おんばを想うのとは違う部分が少し、甘くキュッと痛んだ気がして。
「――――笑顔、素敵ですよね」
そして、さっきまで全く仕事をしなかった口から、ぽつりとそんな言葉が漏れる。
「へ……? ちょ、ええ? 急に照れます」
「あはは、素直な正直者なので。直人って名前、おんばが、素直で正直な人間って意味だって言ってて。結構僕はこの名前が好きなんですよ。だから、素敵ですって思ったことは、言葉にしないとですよね」
「直人……直人くん。うん、私もいい名前だと思いますよ? でも、素直すぎるのも困りものだと思ってますけれどね」
のぞみさんが、僕の名前をなるほど、と言いながら口にした。
少しだけ、照れを隠すようにして、微笑むように。
でも、それよりも大事なことがあった。
「もう一回お願いします」
僕は言った。
「え?」
「名前、もう一度お願いします」
首を傾げるのぞみさんに、もう一度。
「えっと。直人、くん? をですか?」
「はい! ではこれからそれでお願いします」
素直で、正直を自負する僕だった。
おんばに呼ばれる直人とはまた違って、のぞみさんの声で直人くんと呼ばれるのは、どこかくすぐったい良さがある。
それに、のぞみさんはどこか呆れたような顔で、「はあ」と言って。
「ふふ。わかりました。まぁ私のことも、のぞみさん、ですしね」
そう笑ってくれて、僕もまた、あはは、と笑った。
「あぁ、のぞみさんがお隣さんで、ほんと良かったです」
僕は、胃も心も満たされた満足の中で呟く。心からの言葉だった。
それに、そういえばという表情で、のぞみさんが僕に質問をする。
「それは良かったです。……あ、そういえば聞きたかったんです。引っ越したかったのはわかりましたけれど、どうしてここだったんですか? 直人くんならもっといいところ住めましたよね?」
それに、僕は笑って答えた。
「あぁ、そう言われてみると、のぞみさんに僕が会えたのも、きっとおんばのおかげですね」
「え? あ、あぁなるほど!」
のぞみさんが、怪訝な表情から、すぐに思い当たったようで意を得た表情になる。
「なんでわざわざ家賃安めの利便性の低いここにって思ってましたけれど」
納得したように、のぞみさんがそう続けて頷いた。
僕がここに引っ越してきたのは、間取りでも家賃でもなくて。
ただ、検索した時に出てきた、建物の名前に目が惹かれたからだった。
ミツレジデンス。
もしかしたら、こうしてのぞみさんがお節介を焼いてくれるまで、自分の心の在処も見失っているような馬鹿な僕に、おんばが最期に縁を繋げてくれたのかなと、そんなことを思う。
どこかで、やれやれ、というような吐息と、野太い笑い声が、聞こえた気がした。
2章 郷愁の味と胸の痛み Fin
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