2章10話 記憶の味と溶け出す心
私は買ってきた牛肉を切り分けて、少しだけフォークで刺して筋を切り、塩と黒胡椒を馴染ませると、よく熱したフライパンで肉の表面をよく焼いていく。ジュっという音とともに肉の焼けるいい匂いが鼻腔をくすぐった。
続けて、バルサミコ酢を回しかけて、続けて赤ワインとローリエを入れた後はじっくりと弱火で煮込む。
今度は別の鍋で、白ワインと水、塩を二つまみほど入れて沸かしながら、人参とじゃがいもを面取りして、玉ねぎも続けて切っていく。
あまり、白ワインで野菜を煮込むというのはしたことがないのだけど、肉の煮込みと合わせると、肉のコクと対照的にスッキリとした味わいになるのだそうだ。
30分ほど、焦げないように見ながら、少しずつアルコールを飛ばして煮詰めていく。仕上げにバターをいれると、なるほど確かに、対照的な色合いになった。
肉は赤ワインとバルサミコ酢で夜を思わせる黒に。
野菜は白ワインとバターで対照的な白に。
昼と夜のビーフシチューという名前は、ミツさんが洒落てつけたのだとみさきさんが言っていた。きっと、喜んでもらいたかったんでしょうね、と微笑むようにして。
他でもない、野菜が得意ではない、風間さんのために。
(ルー自体は市販で助かったわ)
私はそう思いながら、肉を煮込んでいる方に買ってきたビーフシチューのルーを溶かし入れた。そして、野菜を移して、後は少し休ませる。後は最後に肉のビーフシチューの黒を基調に、野菜側のバターが溶けた白を中心に少し添えて完成だった。
味わいと色合いに昼と夜を感じさせる、ミツさんの創作料理。
元々は、少し時間がかかりそうだったので、明日にしようかなと思っていたのだ。
だが――。
(風間さんがあんな顔で、あんな話をするから。)
どうして私が怒っているか、風間さんは理解していなさそうだった。
それはそうだ。これはただの八つ当たりのようなものなのだから。
大事に想っている相手が、大事に想い返してくれるというとても素敵で、当たり前ではない関係を、風間さんはきちんと大事にして、ミツさんもきっとそうしていたはずで。
『満足そうにしてたよ』
みさきさんがそう言うくらいだったのに、風間さんは、そんなとても簡単なことも見失っているように見えて。お節介なのかも、何なのかもわからない感情のまま、怒りという形で表に出てしまっただけだった。
我ながら随分と肩入れしたと思う。和菓子と愚痴の相手のお礼にしては、中々手間がかかっている。
でも、こうして黙々と、再現しようとしている自分のことは、とても久しぶりに好きだった。
◇◆
本当に、少し遅い時間になってしまったけれど、風間さんは文句も言わず、何かを間に入れることもなく、待っていたようだった。
『のぞみ:出来ましたので、一緒に食べましょう』
『風間:ありがとうございます』
すぐにそう返事が来て、風間さんはどこか申し訳無さそうな顔を貼り付けて、玄関に入った途端に、動きを止めた。
「この匂い……」
風間さんが呟くのに、良かった、と素直に思う。
その表情を見ただけで、どうやら第一段階は再現できていそうだった。
「ご飯と、ビーフシチューとで、よそってますから、一緒に食べましょうか……完全に同じものに出来ているかはわからないですけれどね」
味は人の記憶を甦らせるという。
それは私にとっても、とても良くわかる感覚で。そして、嫌な記憶だけが残ってしまうのは、時間が経ってもしんどいものだから。
そんなことを思いながら、私はゆっくりとスプーンで掬って口に運ぶ風間さんを見ていた。
――――。
少し、飲み込んでから間があった。
私も、風間さんも、どちらも無言で、静寂が流れて。
少しだけ何かに気づいたように顔を上げた彼は、ゆっくりとビーフシチューを見て、スプーンを見て、最後に私を見た。
そして深く、あぁ、と呟いた。
「僕はもう、おんばのシチューは、食べられないんですね」
ほんとに居なくなっちゃったのか、とそんな呟きにならない声は聞かなかったことにした。私もそっと、いい香りのするビーフシチューを口に運ぶ。
驚くほど、美味しかった。
肉の味わいと、野菜の味わいが調和して、温かさと優しさが、作り手であるはずの私の心までそっと撫でてくれているような。
カチャカチャと、静かな部屋に黙々と食べる音が聞こえる。
自分で作ったもののはずなのに、不思議とそんな気がしなかった。
「ありがとう、ございます」
ふと、そんな湿った声に、私は顔を上げて風間さんを見て、どきりとして目を逸らす。
彼は、まるで子どものように泣いていた。
それは、涙が伝うどころか、涙腺が壊れてしまったかのような泣き方で。
私は再び、少しだけ、逸らした視線を向けた。
風間さんはただ、泣きながら、無心でスプーンを口に運んでいた。
何故だろうか。私が作ったものを食べて、涙を流している彼を見て。ずっと消えずに、何かを食べる度に疼いていた胸の奥の痛みもまた、すっと消えていく気がしたのだった。