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2章9話 悲しみの在処


 家を出たとは言っても、僕の人生の中で一番過ごした場所はやはりここなのだなと思う。ごみごみしていて、色んな匂いが混ざりあっている、決して良い環境とは呼べない場所。

 まだ一月も経っていないけれど、帰ってきたという実感と共に、どうしても当たり前のように、おんばを探してしまいそうな自分がいた。


(まだ、だめかぁ。帰ってきた実感は簡単に湧くのに、いなくなった実感は全然湧かないんだよね)


 努めて軽く。そんな事を考える。少しだけちくりと、胸に何かが刺さったような感覚があるのを、僕は無視した。へらり、と笑う。

 口角を上げることを意識して、少しだけ上を向くのがコツだ。


(まぁ、基本的には、意識なんてしなくても笑ってられるんだけれど)


 心の中で呟いて、らしくないのは終わり。

 というか、皆が色んなことを聞いてくるから、それに答えているうちに、感覚なんて無視しなくても気にならなくなった。


「なおー、なんで出てっちゃったの? 今からでも戻ってきたら良いのに」

「本当にちゃんと暮らせてる? やせ細ってない?」

「……いや、なんかむしろつやつやしているような?」

「あの女の人とはどういう関係?」


 そうして挨拶したり、心配されたり、質問されたりするうちに、少しだけ日が傾いて、街のざわめきが色を変えつつある頃。


「風間さん。作り方に、おんばさんのこととか、色々教えてもらえました。お買い物もしたいなと思うんで、そろそろ帰りませんか?」


 そんな僕を、のぞみさんが呼びに来てくれる。後ろにはみさきねぇさんも一緒で、二人の表情はさっきと比べて随分と柔らかかった。

 二人に追い出されるようにしてこっちに来たけれど、話というのが円満に終わったみたいで、僕はにっこりと笑う。好きな人と好きな人が仲が悪くないのはとても良い。



 ◇◆



 電車に乗って駅に帰って、駅前のスーパーでのぞみさんと買い物をした。

 正確にいうと、僕は何を買うのかもわからないまま、カートを押しながら後ろについていっただけなのだけれど。

 ひょいひょい、と値段と品物の状態を見ながら肉と野菜を入れて、そしてスマホで何かを確認しながら、赤と白のワインを買った。


 そして、荷物を持とうとしたところを「そういう油断がよくないんですよ?」とたしなめられて。

 僕は買い物でただ後ろからついて歩く男から、女性に荷物を持たせつつ手ぶらで隣を歩く落ち着かない男になった。


「来るときも思いましたけれど、かなり歩くのはスムーズになりましたね」


 のぞみさんは、そんな僕の落ち着かなさには気づかずに、僕の歩き方を見てそう言った。


「はい、なので、少しくらい荷物も持てますよ?」


 僕はそれに、少し持たせたほしいなぁを目一杯込めて返す。


「いえいえ大丈夫です」


 届かなかった。


「そういえば、みさきねぇさんとは結局なんの話を?」


 気を取り直して、僕はのぞみさんに尋ねる。レシピというものを教えてもらうのにどのくらいの時間が必要なのか、僕には全くわからなかったけれど、結構な時間、話をしていたと思う。


「うーん、そうですね。ミツさん……その、おんばさんについてとか、色々お話を聞かせてもらいましたよ」


「え、そうなんですか?」


「風間さんからの話だけだとわからなかったことが、沢山聞けました……あ、でも」


「でも?」


 のぞみさんが、ふと思い出したようにして言って、僕がそれを繰り返すように疑問を投げると。


「そういえば、風間さん。どうして引っ越ししたんですか? えっと、最初は居られなくなったのかなって思ったんですけれど、みさきさんも皆さんも、全然そんなことなくて。駅からの距離も、利便性も、あっちの方が良かったですよね?」


 何気ないそんな質問に、僕は少しだけ口ごもった。


「あぁ、確かに」


 何が確かになんだと、自分で思いながら、そんな、間をつなぐ言葉だけを口に出すと、のぞみさんがそれに気づいたようにして言った。


「あ、ごめんなさい。言いたくないことだったら――――」


「いえいえ、そう言うわけじゃなくて。あんまりカッコいい理由じゃないなって」


「…………?」


 のぞみさんが、僕を少し変な目でまじまじと見た。


(……風間さんがカッコいいことなんてありましたっけ?)


 さっきの僕の、『荷物を持たせてほしいな』は届かなかったというのに、のぞみさんの心の声を感じる。そして、言いたいことが僕に通じたとわかったのだろうか。のぞみさんが、ふふっといたずらっぽく微笑むようにして口元を緩めた。


 それを見て、僕はなんだか今なら話せそうな気もして。

 なるべくいつも通り。いや、いつも以上に軽い口調になるようにしながら、カッコ良くない理由ってやつを口に出した。


「家を出たのは、おんばが死んだからではあるんですけど、まぁ、逃げだしたみたいなもんですかねえ」


 失敗した。

 軽い口調どころか、変な上ずった声になってしまう。


「え?」


 並んで歩いていたのぞみさんが、そう声を上げて立ち止まった。


(あぁどうしようかな。やっぱりなんでもないです、は無理だよね)


 そんな事を考えながら、僕は悩む。のぞみさんはそんな僕を見て、それ以上は何も言わず、黙って歩き出してくれた。

 きっとこの後適当に話題を変えたら、それはそれで笑ってくれる気がした。

 知っていたけれど、のぞみさんは、とても優しい。


 僕は深呼吸をして、どう話そうかすらも考えないまま、話し始める。


「おんばが病気だって聞かされて。そこからそんなに時間も経たないうちに、おんばは突然倒れました。僕は慌てて病院に行って。そして、おんばは最期に僕と話をして、静かに息を引き取りました」


「そうだったんですね」


 のぞみさんが、さっきまでよりゆっくりとした歩幅で、少しだけ、小さな声でも良いように、近づいた距離で静かに聞いてくれていて。

 休日の夕暮れ時だから、風の音、電車の音、人が歩く音、色んな音が混ざり合っているけれど、それでもなんだかとても、静かな気がした。


「おんばは色んなことを話してくれたのに……僕は、痛い? とか、大丈夫? とか、そんなことしか言えませんでした。痛いに決まってるし、大丈夫なわけ無いのに」


 今でも、もっと気が利いたことが言えたんじゃないかと思う。


「そしていざ、おんばが死んで。お葬式とか、そういう手続きをみさきねぇさんと一緒にして。沢山の人が来てくれました。本当に、色んな人が来て、色んな人が沢山泣いて。そこで僕、あぁ、困ったなぁって思ったんですよね」


「え?」


「どうしても、どうやっても、悲しいが出てこなかったんです。僕が知ってる人も、知らない人も、凄く大勢の人がおんばの名前を呼んで、泣いて。普段は全然そんな人じゃないのに、こらえきれずに叫ぶ人とかもいたりして。なのに、その中で、僕だけが涙を流すこともできなくて」


 僕の足音に少し遅れるリズムで、のぞみさんの足音が聞こえる。

 僕はたくさん。たくさん。おんばに貰ってばかりだった。


「僕はおんばに育ててもらったんです。子どもの頃からずっと。本当の子どもじゃないのに、当たり前みたいに、凄く大事に育ててもらった。そりゃ喧嘩もしたし、口うるさいよーって思ったことだってありますけれど、おんばのことが大好きでした」


 僕は自分が少し変わり者だとは知っている。

 でも、薄情な人間だと思ったことは無かった。だって、僕はおんばの息子だから。


 それなのに、僕は、()()()()()()()()()()()()()()()、そんな事を考えている自分に気がついて、愕然としたのだ。


 悲しんであげられなくて、ごめんね。

 泣いてもあげられなくて、ごめんね。


 人情味あふれるおんばの、ただ一人の息子のはずの僕は、当のおんばのお葬式で、泣き方を探すような人間で。

 それに思い当たったら、その場所からどうしようもなく、逃げ出したくなった。


「風間さん……」


 そんな、もはや独白のような僕の言葉を聞いて、のぞみさんが思わずというふうにして僕を呼ぶ。僕は立ち止まって振り返った。


「ま、そんな風に『悲しい』を探してしまうような自分が嫌で、逃げ出すみたいにして引っ越したって感じです……あはは、かっこ悪くないですか? いや、そもそものぞみさんの前でかっこ良かったことなんかないか」


 そんな風に、最後くらいは冗談みたいに締めようとして、いつも通り失敗した僕は、あはは、と頭をかいた。

 のぞみさんはそんな僕を静かにまっすぐに見つめて、ほうっと息を吐くと、告げる。


「風間さん、夜ご飯は少し遅くなってもいいですか?」


「え? はい」


 のぞみさんはそれに頷くと、言った。


「明日にしようかと思っていましたけれど、これから、おんばさんのシチューを作ってあげます」


「はい、嬉しいです…………でも、のぞみさん、怒ってますか?」


「少しだけ、怒っています」


 カッコ悪いと怒るような人ではないとは知っている。

 でも今、どうしてのぞみさんが怒ったのか。それがわからないから僕は、悲しいがどこにあるのかもわからないんだろうなと、沈んでいく夕日を見ながら、そう思った。


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― 新着の感想 ―
感性が無い、という事ではないんだろうけれど。 本当に悲しいと、泣けないということもあるだろうし。
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