2章7話 おんば
「それはまた……なおが本当に迷惑をかけたわね。改めてごめんなさい」
ただの隣人がどうして、という疑問に答えるべく、私が出会ってから二週間ほどの出来事をかいつまんで伝えると、みさきさんは頭痛をこらえるように手のひらで目の辺りを揉んで、深々と頭を下げた。
(この人にとって風間さんは、代わりに頭を下げることが当たり前の人なんだな)
その自然さと、誠実な口調に私はそう思って、いえいえ、と言って続ける。
「なので、関係性は? と尋ねられると隣人で、そしてなんでじゃあここに? と改めて聞かれると、お礼と成り行きと懸念と好奇心が等分くらいなんですけれど」
「ふふ、あなた、随分とお節介だと言われない?」
ハスキーボイスとでも言うのだろうか。いざ角が取れて柔らかい口調になったみさきさんの声は、格好いい歳のとり方をした人特有の落ち着きを感じるものだった。お節介という言葉にも、揶揄するというよりも、どこか優しげな呆れの感情が乗っている。
「よく言われます。それに、昼と夜のビーフシチュー、って風間さんは言ってたんですけれど、興味はありましたし……」
「へぇ、料理好きなのね?」
「はい。何かに没頭してるときは、心が穏やかになれるので。レシピとかあるんですか?」
「ええ、レシピというほどのものじゃないけど。あたしも作ってもらったことがあるから伝えられると思うわ……うーん、それにしても、なおはちょっと箱入りに育てすぎたかねぇ」
「箱入り……」
箱入り娘や箱入り息子と聞くと、どうしてもお金持ちの子息を思い浮かべてしまうが、確かに生活能力の欠如は割と言い得て妙かもしれなかった。
「ミツさんにしても、あたしにしても、子供の頃から面倒見てる人間の責任だわね……まったく、だから一人暮らしなんて無理だからここにいてって言ったのに」
そして、続くみさきさんの言葉に、私は感じた疑問を口にする。
「ミツさん……えっと、風間さんの言うおんばさん、ですよね? てっきり私は彼女が亡くなったので家を出ていかないといけなくなったのかと思っていたんですが」
そして、それを聞いて、みさきさんが何かに納得したように呟いた。
「本当にあの子は、なんにも話してないんだねぇ。ここにあっさり連れてくる位だからよほど信用しているんだろうに」
「え?」
「あの子が出ていったのは、あの子の理由。あたしも想像はできるけれど、気になるようだったらあの子自身に話させるといいわ。そして、もしその機会があったらあたしが大馬鹿者って言っていたと伝えてくれるかしら」
そう言うみさきさんの声がどこか切なそうで、私はその件についてそれ以上の質問をやめて、代わりにもう一つを尋ねる。
「おんばさんは、料理が上手な人だったんですか?」
「ええ、そりゃもう料理も美味かったし、何よりすごい人だった……そして、いくつか誤解がありそうだから作り方だけじゃなくて、少し話そうかと思うのだけれど、あなた、今日時間はある?」
そう言われて時計を見ると、まだ11時を回ったところだった。
何かお昼の予定などを決めているわけでもないし、と私は頷く。
どうやったらあんなアンバランスな人が育つのか――生まれ持ったものもありそうだが――というのは興味があったし、普段全くと言っていいほど世界が違う、目の前のみさきさんにも興味は湧いてきていた。
「じゃあ、軽く飲み物でも作ってあげる……奢りよ、アルコールでもいいかしら?」
みさきさんが、バーカウンターの中でシェイカーを振る仕草をする。
みさきさんのような長身の美女がそうすると、どこかの映画の一場面を切り取られたかのようだった。
普段なら、昼間から飲んだりはしないのだけど、決してお酒自体は嫌いではないし、何よりこの人の作るお酒を頂いてみたいと思った私は頷く。
「休みのお昼からお酒なんて、社会人としての贅沢ですね……いただきます。でも帰りもあるので、あまり強くないもので」
「ええ……ちょっと待っててね。そして、その間に一つだけ先に、あなたの誤解を解いておきましょうか」
みさきさんが、そう言って、戸棚から一つの写真を取り出して、私の方にそっと見せた。最近はデータで見ることが多いので、こういう現像されたものは珍しいなと思って覗き込むと、このお店の前で取った写真のようだった。
「そこの真ん中に写ってるのがミツさん。ここの元オーナーで、あたしの恩人。そしてなおの育ての親、つまりはさっきあなたが質問した、おんばよ」
「……あ」
「あの子のことだから、多分何の思惑もなく話してなかっただけだとは思うけどね……ミツさんもあたしも、いわゆるはぐれものというやつでね。てっきりなおが話しているのかと思ったんだけど、途中であなたが勘違いしていそうだったから」
そう告げるみさきさんの声と共に、改めて私は写真を見る。
そこに映っていたのは、とても綺麗に化粧されている、だがまちがいなく筋骨隆々の壮年の男性だった。