2章6話 バー『レインボー』
一階がバーになっているらしきその建物は、少し裏路地と言っていい、端的にいうととても治安の悪そうな場所にあった。『レインボー』という少し年季の入った看板が目立つその場所に、風間さんは迷いなく入っていく。
建物の作りを見るに、どうやら2階より上はアパートになっているのだろうか。明らかに違う住人によるのであろう洗濯物が干されているのが見えた。
(……駅を降りてから、そこまで長くは歩いてないのに、全然あっちの通りとは別世界みたい)
アミューズメントパークやカラオケ、漫画喫茶などが立ち並んでいる通りに比べて、一本入っただけでまるで随分と遠くに来たかのように感じながら、私も風間さんの背中を追って店に入った。
入口から少し階段を降りた先は、外見よりも随分と広い場所だった。
ダンスを踊るのだろうか、舞台のような場所もあって、バーカウンターにテーブル席もいくつもある。そして、そのバーカウンターの前に、一人の長身の女性がこちらを心なし強い視線で見つめていた。
「あ、みさきねぇさん久しぶり、お店の開店前なのにごめんねぇ」
風間さんが慣れた様子でカウンターに歩み寄って手のひらを振りながら挨拶をする。
(……あの人がみさきさん)
私はそう思いながら近づいて改めて目があった。年齢はおそらく私の一回りほど上だろうか、とても綺麗な女性である。凛とした姿勢だからか、店に入った遠目で高いと感じた以上に身長が高かった。158cmの私よりも頭ひとつ違うので、190cm近いのではないだろうかと思う。
「あぁ、よく来たわね、なお。そしてようこそ。あなたがなおが話してくれたのぞみさんね。あたしはみさき、ここのバーのオーナーをしてるわ」
「はい、風間さんの隣人で、縁あって良くしていただいています」
「よく、ね。あの子が人に何かをよくできるような気はあまりしないんだけどね?」
風間さんをよく知っているという口調と、どこか私に対しての牽制のようなものを感じて、私はにこりと笑って返した。
「……そうですね、お世話している、が正しいかもしれません。それにしても、風間さんから人に譲ったとは伺いましたけれど、思った以上に大きな建物で少し驚きました」
裏路地の立地とはいえ、これだけの広さの土地に、家賃収入もありそうな建物をぽんと人にあげたと言ってしまうのは風間さんらしいが、だからこそ大丈夫なのだろうかという懸念が拭えない。
「……なお」
そんな私に、少し意外そうな表情に変わったみさきさんが、風間さんを呼んだ。
「ん? なに?」
「普段からお世話になってるみたいだし、のぞみさんと少し話がしたいわ。あなたはあっちで様子を伺ってる子達に挨拶でもしてきてちょうだい。皆寂しがってたから喜ぶでしょう」
その声に私も入口の方を見ると、ここで働いているのだろうか、何人かの女性達が風間さんに手を振っているのが見えた。
「え? でも――」
風間さんが流石に申し訳無さそうに私を見ながら口ごもるのに、私はみさきさんと目配せをして頷く。
あちらも何か話があるようだったし、ちょうどよいと思った。
「料理の話とか含めて、風間さんは無力だと思うので、私は気にしないでご挨拶してきて下さい。私としても、ちょっとみさきさんには聞きたいこともありますし」
「……? はい、わかりました! 一応上で料理について知ってる人他に居ないか聞いてみたりしますね!」
そして、風間さんが少し首を傾げながらもでていって、私は少しだけお仕事のモードに切り替えるようにして、口を開いた。
「あの――――」
だが、その前に機先を制するように告げたのはみさきさんだった。
「……なおはあの通り、色々とゆるくて心配になる子でね。その割に特化した才能で資産はあるのに金銭感覚がダメダメなの。だから、貴女がどういう意図で関わってくれているのかわからないけど、あたしの目の黒いうちは好きなようにはいかないわよ?」
「……そちらこそ、風間さんがあまりにも課金したがりだからって、こんなに大きな、しかもおんばさんとの思い出の場所まで譲られるなんて、もしも騙しているようなことがあれば、流石に見過ごせないですよ?」
「ん……?」「……え?」
お互いに言葉を掛け合った後で、そのセリフの内容がようやく頭の中に入ってきて、私は疑問の声をあげる。みさきさんも、少しぽかんとしたように、私を見ていた。
「……ごめんなさい、のぞみさん、だったわよね? 改めてもう少しちゃんと話を聞かせてもらっていい?」
「私の方こそすみません。そういえば、風間さんからの漏れ聞いたお話だけで、何かを判断するのは駄目なことだったかもしれません」
「ふふ……あははは。違いないわ。なおからは、偶然引っ越した先のマンションの隣人が女神のようにいい人で、ご飯を作ってもらったり、助けてもらってるって聞いてね。聞けばそれが若い女っていうじゃない……だからてっきり、顔と金回りだけはいいから変なのにでも引っかかったのかと」
「私の方こそすみません。その……おんばさんっていう育ての親が亡くなって、お店は知り合いにあげちゃったんですよねって聞いていたんですけれど。あの通り金銭感覚がゆるすぎる上に、思った以上にお店が大きくて……その」
お互いに言葉を交わして、その度にお互いの誤解の内容がわかって、私は少し気恥ずかしくなってきた。
(それもこれも、あの風間さんの空気がよくないわよね)
ちょっと内心で八つ当たりをしている私を先ほどとは全く違った興味深げな視線で見て、みさきさんは言った。
「もしその様子で、詐欺でも働こうとしてるんならあたしの負けね。でも結局のところ、のぞみさんはあの子のなんなのかしら?」
「それについては、本当にただの隣人としか言えないんですけれど。強いて言うなら、友人ですかね?」
私と風間さんは友人なのだろうか?
口に出して少し違和感を覚えながら、やはり隣人がしっくりくる気がすると思う私だった。