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2章1話 それは、『は?』で始まり『いってらっしゃい』で終わる朝のこと


『美味しいです!』『最高です!』


 初めてご飯を作ってから一週間が過ぎてわかったこと。

 隣人の褒め言葉のレパートリーは少ない。


 しかし、不思議と、定型文っぽさがないその言葉は、褒め言葉のまま私の心に落ちた。

 予定外にご飯を作り、深くは知らない男性と共に食べるというのは随分とハードルが高いことのように思えるのに、不思議と『一人でリラックスをする方法』などで検索して出てきた色々な事よりもよほど、心穏やかな日々なのは、彼の屈託のなさのおかげだろう。


 だが、そんな穏やかな日々の反動とでも言うかのように、今週の月曜日は心がすさむイベントから始まったのだった。


 ◇◆



「は? 嘘ですよね?」


 私は、愕然としてそう聞き返した。同時に、同じ会議に入っている一つ後輩の幸田こうだ香菜かなが『何言っちゃってんですかこの人』と個人チャットで打ってくる。


 今は朝のリモートの打ち合わせ中だった。相手は、二年先輩の営業の板橋いたばしいつきさん。営業部全体の成績は悪くはないが、私達デザイン部の中での評判はすこぶる悪い。

 まさに現状、その理由が遺憾なく発揮されているわけだが――――。


「いやー、それがさ、先方が急にこっちの画像も使って欲しいって言われてさ。参っちゃうよね。難しいっていうのは伝えてるんだけど、差し替えだけならちょちょっとお願いできないかなぁって」


(は? 参っちゃうのはお前じゃねぇだろ)


 心の中の言葉遣いが荒くなってしまうのは止められない。口に出さなかったのを褒めてほしいくらいだった。むしろ自分で褒める。

 順序を追って何度も確認を経て、期限より少し前に最終連携をしたのに、何がどうなったら期限当日にリテイクが、それも使用する宣材の入れ替えなんてことが起きるのか。


 板橋は、客に悪い意味で甘いため固定の案件先からは気に入られており――いいように使われている――、それでいて社内こちらにもいい顔をしようとして、役割を為していないというのが、私の評価だった。

 少し顔と物腰が良いことで一部の後輩に慕われていたりもするようだが、共に仕事で深く関わることになる頃には変わるだろうというのが香奈と私の概ねの予想である。


 しかし、そんな目の前の板橋《だめ男》の評価を更に下方修正するのはおいて、まずは仕事であった。


「とりあえず、差し替えたいと言われている画像送って下さい。期限は?」


 最後にデータで送った後はサンプルをポスターの形式で印刷するだけであったものに、このタイミングで修正を差し込む以上、わかってるよな(・・・・・・・)という意味も込めて語尾を強める。

 だが、仕事ができない人間は得てして空気も読めない。


「期限はちょっと動かせなくて。ぱぱっと差し替えだけお願いできないかな? あ、もちろん無理を聞いてるのはこっちだから、多少微妙になったとしても、そっちの要望を聞いたからだよで俺の責任で通すから」


「は……?」


 心に留めておいた「は?」が私の方から溢れた。

 ミュートのマイクの向こうで、香奈も舌打ちしているのが聞こえる。幻聴だけど間違いない。


「あ……えっとその、ほら。あくまで先方の意向だから。ね? デザイン部さんが怒るのは本当によく分かるんだけれど、ここは俺の顔を立てると思ってさ」


 駄目だ、こいつは。更なる重ねられた言葉に、怒りが冷めるほどの諦観と呆れが私の脳裏を支配していく。

 画面の右端のチャットに再び通知が来ているが、恐らく罵詈雑言が飛んでいるだろう。許可するからもう言葉にしちゃってもいいんじゃないだろうか。


「わかりました。まずは見ます」


 その言葉を絞り出すように、口調も荒げないで発せたのは、したくもない経験のたまものだろうか。


「ごめんね、よろしく」


 空気は読めずとも流石にまずいとは思ったのか。逃げるようにして板橋が退室し、それを確認するかのように、香菜かなの音声がオンになった。


「あいつ死ねばいいのに」


 会うと、凄く柔らかく可愛らしい外見をしている香奈が、想像もできないようなドスの効いた声でまずそう言うのに。


「香菜ちゃん、完全に同意だけど、言葉にするものじゃないわ。あなたの価値が下がるわよ」


 と、自分にも言い聞かせるように告げた。


「はーい。でも実際どうします? 今画像見ましたけれど、これって……」


「ええ。背景から変えないと、色合いが変わってるから差し替えるだけどころか、配置も何もかも変えないとバランスが駄目ね」


 二人しかいないリモート会議の枠に、無言のため息が満ちる。


(多少微妙になっても? それでデザインが変だって言われて信用を失うのはこっちだってのに? 営業やってるくせになんで信用の大事さがわからないの? 馬鹿なの?)


 いくらでも愚痴は途切れずに心のなかで湧いてきそうだが、そんな私に申し訳無さそうな香菜の声が届いた。


「その、のぞみさん。ほんと申し訳ないんですけど……今日は行けなくて」


「ええ、前から定時退社は聞いてるし、元々そのために前倒してくれたんだものね、大丈夫、こちらで何とかするから」


「すみません、今度何か奢りますから」


「ふふ、ありがと。ちょっと準備して社に行くから、印刷の手配とかその辺り、事情を話してストップしておいてもらえる? 夜遅くなっちゃうから私がやるから」


「……営業の板橋先輩が、で事情を正確に(・・・)伝えておきますね」


 退出ボタンを押して。深く、深くため息を吐く。

 しっかりとやることなど考えずに、うまくやれるくらいなら、こんな性格に育っていなかった。仕方ない。


 そう自分に言い聞かせて、ふと気づいた。


『明日の月曜日は、リモートなのでお昼と夜は作れるかもしれません』


『ほんとですか? 遠慮よりも完全に嬉しいが勝つので甘えます!』


 そんな会話を風間さんとしたのだったが、訂正しなければいけない。


 当の風間さんの仕事はというと。元々引越し前に仕事はそれなりに片付けていたらしく、腰を痛めたと報告したら大笑いされて休みも認められたのだそうだ。「この機会に溜まりに溜まってた有給を消化させたいようでして」というのは風間さんの言である。

 来週にメンテとアップデートがあるらしいので、その日にはどうしても行かなければいけないらしく、今週で直せと厳命されたらしい。


(起きてるかな?)


『月野:すみません、お昼と夜なんですけれど、難しくなっちゃいました』


 何を隠そう、ネットで届いたカーテンを付けてあげたのは私である。

 朝日が差し込まなくなった部屋で、昼まで寝ていそうな印象もあったが、意外と返事はすぐにきた。


『風間:とんでもないです』

『風間:その、大丈夫ですか?』


『月野:もしかして、聞こえちゃいました?』


『風間:すみません』


 少々、「は?」辺りから声が大きかったかもしれない自覚はあった。

 聞かれてしまった恥ずかしさと同時に、心配してくれる心遣いは嬉しく思う。


『月野:そういう事情で、帰るのも遅くなりそうです』


 そこまで打って、追加をする。


『月野:ちゃんと食べてくださいね? 倒れないでくださいよ?』


 すると、照れ笑いのようなスタンプと同時に。


『風間:腰ももう歩けますし、ポットも届いたので大丈夫です!』


 という本当に大丈夫かわからない答えが返ってきて、くすりとしてしまった。


『月野:栄養がつくものも、ちゃんと食べてくださいね』


『風間;あはは、ありがとうございます! のぞみさんも気を付けていってらっしゃーいです』


 いってらっしゃい。

 久しぶりに送り出される意味でかけられたそれに、何故かいってきますと書くのが気恥ずかしくて、同じ意味のスタンプを送信して、私は会社に赴いた。


 ささくれた心が少し和らいで、助けているはずなのに、ほっとさせられているのは自分の方な気もして、次は少し、手の込んだものでも作ってあげようかと、そう思った。 


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