1章11話 笑顔は裏がないものに限る
あまりにも幸せそうに食べる様子を見ていると、作ったこちらまで嬉しくなってしまって、同時に、言おうと思っていた事が薄れていく気がする。
子供が凄くにこにこしてると怒る気力も無くなっちゃうのよね、とは、大学卒業と同時に結婚して子供を産んだ友人の麻莉奈の言だったが、私はそんな事を思い出してしまった。
出会ってから二日目にして、何度目の印象かはわからないけれど、私の隣人となった男の人は不思議な人だ。
一人暮らしの、しかも初対面に近い男性の部屋に一人で入って、簡単な身の上話を聞いたりご飯を作ってあげたり。そして、その上で何も男女の関係は始まらなさそうな貴重さが、凄かった。
まぁ、夜の状況からも、差し入れ位はしようかと思っていたのが、朝から乗り込む事になったのは我ながら想定外だったが、お腹が満たされた今考えても、仕方がなかったと思う。
◇◆
『今日のお礼です、気持ちです。』
昨晩寝る前に、そんなメッセージが見えて、電子マネーの受取依頼通知が来ているのに気づいてはいた。
お父さんに預けてるお金もそうだし、なんというか、抜けているのに律儀で、距離感が変なのに不快にさせないような気遣いはある。あまり関わりあったことのないタイプで、あの大ヒットしているゲームの創作者だというのも、不思議と、そんなこともありそうだなぁと、そんな感想を抱きながら確認もせずに眠ったのがいけなかった。
『風間:受取依頼(¥200,000)』
朝起きてルーチンワークとなっている身支度をして、最初に見たのがこれだった。
二度見どころではない。0が一つ、何なら二つ多い。
『月野:ちょっと風間さん? なんだか凄い金額が電子マネーで送金されてきてたんですけれど。受け取れませんよこんなに』
少しの間固まった後で、そう送り返して、拒否をする。なんとなく朝は起きていなさそうなイメージだったが、風間さんからの返信は早かった。
――――そして何故だろう、文章の他に追加で同額が送られてきていた。
(止めて? 私の月収余裕で超えちゃうから! じゃなくて! 何? あの人金銭感覚バグってるの? なんでこんな家賃お安め利便性悪しのマンションに引っ越してるのよ!?)
そして、その心の叫びのままに、なんでまた送ってくるんですか、と打っている間に……ふと不安になって、もう一本別でメッセージを送る。
鍼灸院の準備で、土曜日であっても朝は変わらず早い。直ぐに返事は帰ってきた。
『お父さん:包まれた封筒だったから失礼して開けたら、確かに10枚くらい入ってたんだけど……』
『のぞみ:ありがとう。大丈夫、お断りするというか、ちょっとオハナシしてくるから』
女性が一人で男性の家に行くというのはハードルが低いものでは決してない。風間さんの人となりがなんとなくわかったとはいえ、私は全然彼の事を知らなかった。
でも、会って、直接話をするという事に、この時私の中で確定したのだった。
その後、行きますから、というやり取りの後で、何故か三度目の依頼が送られてきて「もう!!」と叫んでしまった私は悪くないはず。
◇◆
「ご馳走さまでした! いやー、すっごく美味しかったです」
「いえいえ、お粗末さまでした」
言葉巧みに褒めるというのとは違うけれど、真っ直ぐな風間さんの感想は嬉しい。だからだろう、私がその提案をしようと思ったのは。
成り行きではあるし、縁もあるけれど、流石に嫌な気持ちだったらしないような提案。
「ほんと、会ってからずっと、なんとお礼を言ったらいいか。あ……」
そして、ご飯を食べて、恐らく無意識にであろうお礼を口にして、私が何をしにきたのかを思い出したのだろう。風間さんは「あ……」という言葉の後にこちらを向いて何かを言おうとしていた。
「はい、そのお礼についてもお話があるんですけれど……その前に私から提案があります。聞いてくれますか?」
「はい!」
返事はとても良かった。
でも知っている。この人はいい返事をしながら、更に受領依頼を送ってくる人だった。
「……昨日お会いしたばかりですけれど、うちの実家のお客さんでもありますし、お隣さんでもありますし、この家の状態も見ちゃったので、ご飯、少しの間だけお裾分けさせていただこうと思います」
「……え? いいんですか?」
「はい……もちろん仕事次第では無理な日もありますけれど」
「めちゃくちゃありがたいです! じゃあお礼を……」
「ストップ! スマホを取り出そうとしない、送ろうとしない! もう! だから言いましたよね? 送ったらご飯作りませんよ!?」
「うう……」
私は、なんでお金を払ったらご飯を作らないという脅しで、放置したら飢えそうな人を止めているんだろうか。
ちょっとそんな素朴な疑問が思考の片隅に生えてきて、混乱する。
「……食費って意味で、請求はします。えっと、作製費として、私の分の食材も出してもらいます、二人分買いますから……それ以上は過度です、貰いすぎです。なので、お店に預けてくださったものも、受け取れないですから次に行った時に持って帰って下さい」
「ええ? でも――――」
「持って帰って下さい」
「はい」
しゅん、となる。
大の男がしゅんとしているのは、本来ならどうなんだと思うのだが、容姿の良さと雰囲気のなせる技か、しょげて尻尾を丸めた子犬のような空気を感じてしまった。
「気持ちは嬉しいですよ? 美味しいと食べてくださるのも、お礼をしたいと思ってくださるのも。ただ、何事もちょうど良さがありますっていうだけです」
「あはは……よく極端だって言われます。のぞみさんは、歳もそう違わないのに、しゃきんとしてますね。お休みの朝なのに身だしなみもきちんとしてるし」
きちんとしている。
褒め言葉だろうそんな何気ないものが、私を少しだけ止めた。
休日でも、朝目が覚めたら手早くメイクをして着替えるのは昔からの癖。というよりは母の影響だろうか。
接客業、というのとは少し違うのかもしれないが、父も母も人に接する職業だからか、身だしなみには気を遣っていた。『休日だからといって気を抜くと、そこから何かが抜けちゃうのよねぇ』という母の言で育ったからか、私も休みの日でも出かけられるようにしている。
それは、無理をしているわけでもない、私の中の普通。
だけど――――。
『休みの日くらいさ、ちょっとはゆっくりしたら? きちんとされすぎると、出かけようってプレッシャーみたいで嫌なんだけど』
少しだけ記憶が心を切りつけていく。いつになったら、この、もう存在しない自分で自分を傷つけるフラッシュバックから逃れられるのだろうか。
「綺麗だし、めっちゃかっこいいですよね、のぞみさん。尊敬します!」
「え?」
気を取り直して笑顔を作ろうとしていたところだったから、風間さんの言葉に私は間の抜けた返事をしてしまった。
「ご飯も美味しいし、優しいし、やはり女神なのでは……」
「きちんとしすぎてたら、変じゃないですかね?」
更に褒めようとしてくれているんだろう風間さんの言葉を遮るようにして、私は反射的に尋ねてしまう。
はっとして、変な質問だったと続けようとするが。
「ええ? 変じゃないどころか凄いと僕は思いますけれど? 僕はこんなんなので、ゲームを作れなかったらただの無能ってよく言われるんで、のぞみさんみたいな人には憧れちゃいます。素敵です」
これで裏があったら人間不信になりそうな笑顔で、昨日会ったばかりの隣人が言って。私の心の中のどこかの傷が、少しだけなにか優しいものに包まれた気がして。
ふとした縁で助けた人だけれど、引っ越してきたのがこの人で良かったかなと、私はその笑顔を見ながらそんな事を思ったのだった。
1章 その出会いは腰痛とともに Fin
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