死して尚も生きましょう
ジャンルはファンタジーにしておりますがそんな要素は少ないです。固定概念がファンタジーですが、ストーリー展開は現実的になっています。
僕達は学校をサボった学生のような姿で此処にいる。僕も彼女も学校指定のブレザーに身を包んでいるけれど、実際に学校を抜け出してきた訳じゃない。というより、今の状況で機能している学校があるのかどうかも不思議な所だ。
「ほらほら、見てよこれ」
彼女がか細く白い指が示した先を促されたままに見てみる。すると、喉がうっと凍ってしまいそうになるかのような遠く離れた深い底が眩い太陽に照らされて、視界一杯に余すことなく見れた。
僕と彼女が立っている場所は正に断崖絶壁であり、風に揺られる草原の果てでもある。何十メートルも離れた底は海の波が強くぶつかり猛然と自然の驚異を物語っていた。幾年の荒波に揉まれ削られ崖は空腹だと主張せんばかりに弧を描いている。だから、僕の真下は正しくは崖ではなく、海だ。それも、でこぼこの岩が所々突き出た猛々しい海だ。
「うわあ、滅茶苦茶恐いね、これ」
彼女に目線を向けて在り来たりな感想を述べる。
彼女は瞳を子供のように輝かせて無邪気に笑っていた。
風が疾走すると彼女自慢の艶やかなロングヘアーが釣られて舞う。綺麗な髪を鬱陶しそうに手で振り払う彼女は僕に視線を向けて微笑んだ。
「この世の終わりはあそこにあるかな?」
怯んだ様子もなく、冗談でもなく、胸を躍らせて、真剣に彼女は僕を見詰める。
「さあ、どうだろうね」
適当に返事をする僕に彼女はむすっと顔を強張らせて大きく口を開いた。
「こういう時は嘘でも“あるだろうね。けど、君との終わりは見えないな”って言うの!」
それは大いに間違っている気がする。
「どこのキザったらしい男と間違えてるんだよ。
大体僕が甘く囁くように“君との終わりは見えないな”って言ったら君はどうすんのさ」
「そんなの“まじ気持ち悪ーい”ってドン引きしながら君をぶっ飛ばすに決まってんじゃん!」
「凄まじく理不尽だね」
しかもこんな場所でぶっ飛ばされたら一足先に僕は世界の終わりとやらに直行してしまうだろうに。そうなったらなったらで彼女は困る癖に。
僕をからかって満足しているのか彼女はまた無邪気に笑った。
暫く空を眺めていた。こういう時に流れる時間というのはとても緩やかで穏かで幸福だ。
「でもどうせ……無理なんだろうね」
急に彼女の顔がすっと曇る。
崖の底を心配そうに見詰める彼女は既に結果を知っているかのようだった。否、ある意味で知っているのだ。それは経験と知識の積み重ねからする予測でしかないのだけど、幾度にも重ねられた経験と、豊富に積まれた知識が弾き出す答えというのは、単純明快な迷路のゴールを導き出すことよりもずっと容易で、尚且つ確実な物だった。
「今、君の頭の中には何が浮かんでる?」
そう問いかけてきた彼女の顔は切なく、心苦しそうだ。
「君との終わらない絆、かな」
「まじきもいです」
理不尽なまでに一蹴されてしまった。
僕に冷ややかな視線を送る彼女に「でも実際は」と口直しをする。
「一時間後に君が隣にいたとして、どうやって道に戻るかを考えてるよ。まあ、海を歩いていってもいいんだけどさ」
僕がそう言うと、彼女は大きく溜息を吐いて落胆の色を顔に浮かべた。
「どうして君はそう夢がないのかなー」
彼女の言葉を聞いてぷっと笑いが込み上げる。
「夢、夢かー。これでも僕は元来イデアリストなんだけどね。
実際の意味とは大きく違うとしてもさ」
「ふうん。イデアリストねえ……要するにただの夢想家じゃん」
「例えそうだとしても、夢はあるでしょ?
でも、僕達の夢――希望がこんな物かと考えると、丸っきり救われないよね」
「別に、私達に限った事じゃないわよ」
僕の回答が気に入らないのか彼女は訝しげに僕を一瞥して、崖の底へと向き直る。相変わらず崖には逞しい荒波が強く打ちつけられていて、それがとても遠くに見えて体が一瞬、硬直する。
「もしも、また、こうして話すことが出来たらさ――」
もしも、という言葉に悲しくなる。
僕は確かに現実主義者ではない。けれど、幾度も味わったせいでいまいち彼女のように信じることが出来ない。彼女は未だに信じているのか、信じようと懸命なのかは計れないのだけど、それでもどこか彼女の希望は悲痛に感じられて、胸の奥が締めつけられたかのように苦しくなる。
「――その時は、自己紹介しようか」
詰まる所それが何を意味するのか。彼女が僕に声をかけた時に言っていた言葉。それを背景にすればよく解る。
もう、これで終わりにしよう。
彼女は裏にそんな言葉を隠したのだ。
「うん、そうだね。万が一の、その時は」
だから僕も彼女に応えた。彼女の寂しさにも、彼女の悲しみにも、嘘と事実を入り混ぜて、彼女に出来る限り応えてみせた。
彼女はそんな僕の嘘に気づいたのか、にんまりと無邪気に微笑んだ。
「やればできるじゃん」
僕は右手、彼女は左手。それぞれに差し出した手をそれぞれが硬く堅く握り締める。
僕と彼女が差し出した手首を繋ぐ一本の太い荒縄が、僕達二人を分かつことなど有り得ないと断定してくれているかのようで一瞬の安息を感じた。
「やっぱり自己紹介は、どの道しようか」
立ち並んで涼しい風を全身に受けながら彼女は言う。「どうして?」と聞き返すと彼女の言葉は僕を喜ばせるに充分だった。
「この世界だろうと、あっちの世界だろうと、君とは一緒に生きていきたいからさ」
「君みたいな可愛い女の子にそんな事を言われるとどうにも恥ずかしいんだけど、うん。ありがとう」
手をしっかりと握り締めた状態でそんな事を言われてしまってはどうにも緊張が強くなる。そういえば僕、恋愛経験が豊富な訳じゃなかったなあ、と長い人生を考えた。
「それだけ?」
「へ?」
「それだけなの? って聞いてるんだけど!」
うわっ、なんか怒りはじめたぞ。
「女の子に、それも君曰く可愛い女の子にプロポーズされといて君は“ありがとう”しか言えないの? って言ってんでしょうが!」
「ぷ、ぷろぽーず!?」
今のはプロポーズだったのか。当然ながら初めてされたものだから全く気付かなかった。
しかしどう答えたらいいのか解らない。それに段々顔が熱くなってきた。
なんで僕は女の子と手を繋いでるんだっけ――ああ、離れない為か。……いやいや違うぞなんだかニュアンスが違うぞ。確かに離れない為ではあるんだけどそれは物理的な話であって、ってそれはそれで充分に恥ずかしいぞ。あれ?何が言いたいんだ何を考えてるんだ?何がどうなってるんだ?
少し混乱して来たところで僕ははっと我に帰る。気付くと彼女の顔が目の前まで迫っていたから。それ以上近づくことも無さそうだけど、無関係に胸が高鳴ってしまう。
くりっと際立った綺麗な瞳に吸い込まれてしまいそうな錯覚。
「はあ、もういいよ。なんか、君にロマンを求めるのは間違いな気がしてきた」
項垂れた彼女に小さく「ごめん」と呟いた。彼女は何も気にしていないと言い大きく空を仰ぐ。釣られて見てみれば海が転覆してしまったかのような快晴だった。澄み渡る濃厚な晴天に雲の霞はなくて、自然に握り締めた力が強くなる。
「死ぬにはいい日だ」
「君、その言葉好きだねえ」
白い歯を覗かせる彼女は満足した表情を浮かべて前へ向く。
「それじゃあ、いきますか」
何処へ行くのだろう。
何処へ逝くのだろう。
何処へ生くのだろう。
何処へ活くのだろう。
答えは垣間見えないままに答えを求めて、僕と彼女は三十六回目の勇気を振り絞る。
「それじゃあ、いきますか」
同じ言葉で返事をする。僕と彼女を繋ぐ太く逞しく存在感のある荒縄。どうか何処にいこうとも、僕達の絆を繋いでいてください。そんな願いを強く願って、僕達は崖に向かって大きな一歩を踏み出した。
飛ぶ、のではない。純粋に落ちている。奈落の底と言い換える程に暗雲は立ち込めてはいないが、遥か彼方とも感じられる崖の底は予想外にも素早く近づいてきた。一瞬、彼女の顔を見る事が出来た。彼女はぎゅっと瞼を閉じて恐怖を堪えている。そして、祈っている。
――どうか神様、終わりを下さい。
何度死のうと死は馴れる物じゃ無かった。僕達は本来一度の生と死を大切に扱う筈だったのだから仕方ないのかもしれない。それなのに僕達はこうして、幾度にも渡る死の作業を繰り返している。二月を死に向かうべく道を探している。何度死のうと同じ事だった。何度生きようと同じ事だった。
――始まりと終わりは必ずあるよね。なのに私達には終わりが無くなっちゃった。
死なないなら、生きていないのと、同じなのかな。
以前、潤んだ瞳で助けを求めるかのように彼女が問うてきたその言葉に僕は気の利いた言葉を返してあげられなかった。僕も同じ事を考えていたから。否、今世界に生きている、存在している人の大半はその答えを探していて、各々理由を見出そうと必死だから。
自殺はいつの時代でも逃げだった。僕も彼女も幾度も自殺を重ねて、どうにもならない現実から必死に逃げていた。逃げるが勝ちとは言うものだけど、その言葉を考えた人も呆れる程に僕達は逃げていた。逃げて逃げて逃げて逃げて、その先に何があるかなんて考えたことはない。考えないようにもしていた。だけど、僕達は逃げるという道しか解らなかった。現実に立ち向かえる程、強くはなかった。けれど、諦めてしまう程、弱くもなかった。諦めて、廃人のように壊れてしまうことは僕達に出来なかった。
――一緒に逃げよう。
閉塞した閑古鳥の鳴く学校で、授業等ないのに席に座りただただ黒板を見詰める僕に彼女が言った言葉はとても心地よかった。僕は誰かにそう言って貰えるのを待っていたのかもしれない。
彼女もまた、僕と同じで探していたのだろうか。一緒に逃げてくれる人を。一緒に生きてくれる人を。
――名前を今は教えたくないな。
――どうして?
――だって、名前を知ったら本当に死ねた時に悲しい気がするもん。
――ふうん。そんなもんかな。
――そんなもんだよ、きっと。
考えている間に底はもう目の前だった。大きな岩にぶつかる、と思った時にはもう世界は真っ暗だ。
*
僕は夢のような場所で過去を振り返っていた。記憶の旅。もう何度も見た光景に飽きも出る。これは人が死んだ時に見るプログラムのような物だ。僕も、彼女も、今世界に存在して尚且つ死を求めた人は全員同じ境遇にあっている。皆、何度も何度も見尽くしているのだ。あの惨劇を、あの地獄を。
今から二年前。世界に落ちた物は脅威的な卵だった。卵のような形をした隕石だった。卵のような形をした星だった。直径三千四百七十四キロメートルにも及ぶ超弩級の容積。ある専門家はテレビで言った。
「あれは紛れもなく、月です」
月。月が地球に落下してくるという史上最大のハプニング。落下、という表現は適当ではないのだろう。専門家は加えて着陸だと言っていたから。
月が地球に降りてきたにしては被害があまりにも小さかった。普通、あのレベルの恒星が地球に落下すれば確実に地球は滅ぶのだそうだ。けれど地球は滅ばなかった。流石に月が降りてきた周辺三千キロは跡形もなく消滅したのだけど、その程度で済んだ。詳しく被害を言葉にするなら、建造物は跡形もなく消滅したが自然と人間は何一つとして壊れなかった、だ。その上、月と地球はそれぞれに重力を持っているというのに大気に変動があるわけでもなく、極々自然に日にちは過ぎる。
最初から異常だらけだった月の着陸に拍車をかけたのは世界からネットやテレビ等の情報配信機器を通して伝えられた更なる異常。奇蹟の連発だった。
余命一ヶ月の病気で死なない。即死並みの事故で死なない。ビルから飛び降りて死なない。強盗に襲われて死なない。
世界から一切の死が無くなったのだった。それも、死ぬ前の体に戻り、健常者ならどんな怪我を負っても一時間後に完全復活する。それが引き金だった。世界が機能しなくなるには充分な弾薬だった。
横行する犯罪には手がつけられず、虚無感を覚えた人は増えていくばかり。空腹など問題ではない。例え死のうと元に戻る。救われるべきは痛みも苦しみも途絶えていないことだけど、それはより凶悪な犯罪を巻き起こす大きな原因となった。
殺され生き返り尚殺される、痛みも苦しみもそのままの究極の拷問。
偶然にもそんな状況から命からがら逃げてきた人の証言により、唯一の情報発信元となったラジオから世界に伝達された最悪最凶の犯罪劇は世界中を震撼させて、同時に、世界中に蔓延した。この日本にも、多くの行方不明者がいた。永遠の死。それが導き出すのは、今の所考えられる唯一の死。心の死だ。
世界が崩壊するのに一年もかからなかった。誰も彼もが家から出ようとしない。立派な住宅が並ぶホームタウンは、今や不気味なゴーストタウンだ。何が不気味かって、そこに沢山の人がいると解っていることが何より不気味なのだ。
そんな世界で僕達は生きている。否、ただそこに在るだけ。僕達は死なない。だから、生きてすらいない。
*
波が打ち寄せる音が穏かなリズムで耳を触る。体を濡らす海の水が温かくて、眠りから覚めたにも関わらず眠りこけてしまいそうになる。
死んで生き返るには一時間が必要とされる。その一時間の間に運よくどこかの浜辺に流されたのだろう。上半身を起こしてぼうっとした頭で海の果てを見詰めた。
やっぱり死ねなかったか……。
三十六回目の自殺も予想通り終わりには至らなかった。重い溜息が自然と出てしまう。右手で塩塗れの髪を解した時に、僕はようやく違和感に気づいた。
「ん?」
右手の先に、彼女はいない。手首に巻かれた荒縄も、途中で目標を見失ってぷかぷかと海に浮かんでいた。
千切れてる。縄が切れてしまっている。
「っ!?」
縄は岩に当たった拍子に千切れたのか判断はつかないが、どうなっても千切れそうにない物を選びホームセンターから拝借したつもりだった。
「信用ならないな、店長お奨めの札」
もしかしたら彼女が死ねないことに絶望して何処かに行ってしまったのかもしれない。でもそれは、時間の経過からしてもおかしな話だし、なにより彼女が一時の気分であんな言葉を、僕にプロポーズしたとは思えない。つまり彼女は海で離れたか、或いは――その瞬間、海水に塗れた僕の体に違う液体が噴出した。どうしようもない悪寒と共に流れた冷や汗は否応なくネガティブな想像へと行き着いてしまう。
「誰かに……連れてかれた?」
このご時勢に道端で倒れている人を連れて行く心優しい人なんていない。例えいたとしても、心優しい善人が彼女だけを連れて僕を置いていく理由が解らない。彼女は僕の基準としては可愛い女の子だ。学生特有のあどけなさと時折見せる大人びた表情が気恥ずかしくなる位に綺麗な女の子。
だから、焦燥する。どんな時代も特出した者は目立つのだ。良くも悪くも目立ってしまう。そして、きっと今は最悪の時代だ。
僕はいてもたってもいられなくなる。少しでも手がかりはないかと辺りを窺う。すると、二三歩離れた波が当たらない場所から足跡が二人分、浜辺のずっと向こうまで続いているのが見えた。どうしようもない。どうしようもなく、手がかりはこれしかない。
「……行こう」
彼女は僕に言った。“もしもまた話すことが出来たら自己紹介をしよう”と。そうだ、僕はもう死ぬことすらない。死ぬ必要さえない。彼女と生きると決めたのだ。だから早く、彼女の名前を教えて貰わなきゃ……。
足跡を辿って行くと古ぼけた木の家があった。とても人が住んでいる風には見えないけれど、隠れ家とするなら最適な場所ともいえる。潮風のせいか壁の木は傷んでいて生活感が窺えない。この場所を拠点にしているのか、元々生まれ育ったのか。間違いなく前者である気がするが、足跡は吸い込まれるようにこの家の入り口で消えている。ここに人がいることは確実だった。
三段程度の小さな階段を登りドアを前にする。ノックをしようとする手に多少の戸惑いがあった。
世界が機能しなくなってから、世界が壊れてしまってから、人と人は付き合いをなくしてしまった。交流を排除してひっそりと自室に篭った。皆恐かったのだ、きっと。死ねない僕達は死を求めてはいるけれど、唯一の死とされる心の死を迎えることが、恐かったのだ。それでも、僕は恐がってちゃいけない。僕は彼女と生きていくと決めたのだから。
「すいませーん」
ノックをする手にも自然と力が入る。もしかしたら僕は今、地獄の釜の蓋を自ら開けているのかもしれない。もしもそうだとしたら、尚更気張らなければいけないのだけど。
少しも待たない内にぎしぎしと木が軋む音が聞こえた。
「はい」
扉の向こう側に人がいる。物腰の柔らかい女性の声だ。
殆ど何も考えずにここまで来たが、はて、どうしようか。いきなり知らない人に尋ねられて、その上、今のご時勢に人を家に入れるなんて有り得ないのではないか?僕から家に入れて欲しいと言った所で怪しいだけではないか?無策で飛び込んだ自分に呆れ返る。本当に何も考えていなかった。
僕がうんうんと唸って考えていると、返事が無いことをどう捉えたのか扉は勝手に開いた。ドアに近かった僕はぶつかりそうになって咄嗟に一歩、後ろに跳ねる。第一印象だけでも充分におっとりとした雰囲気が窺える女性は僕を見て目を丸くした。
「あら、貴方はさっき……」
言われて理解する。ああ、そうか。足跡は僕の近くにあったのだから、浜辺に流れ着いた横たわる僕の姿を一度見ているのか。
「すみません。近くに足跡を見つけたので付けてしまいました。人気も感じられなかったので……」
女性は怪訝な目で僕を見定めている。見た目よりもずっと大人らしい性格をしているのか馬鹿ではなさそうだ。近くに足跡があったから付けてきました。では道理が足らない。僕は一つ嘘を吐くことにした。
「実は……此処が何処だか解らないんです。自分が誰なのかも解らないんです。自分が何処にいたのかも……解らないんです」
記憶喪失の演技だ。記憶喪失になる条件は充分に満たしている気がするからやたらめったら疑われはしないだろうと踏んだ僕は勢いで畳み掛ける。とにかく家に入れて貰わなければいけない。
「此処に来るまでも誰一人姿が見えなくて……一体何がなんだか解らないんです」
それでも、あまり口を開きすぎるのもどうかと思った。僕は天才でも要領が良い訳でもなく、頭の回転が速いともいえない。語れば語るだけボロが出そうで口を紡ぐ。
「あらあら、それは大変ねぇ」
……この女性、事の重大さを理解していないのか、或いはまだ疑っているのか、判断がつかにが少なくとも大変だとは感じていないらしい。これ以上僕の方から何かを話したくはない。が、アプローチが足らない。どうしたものかと悟られないように考えていると、奥の方から新たな音が近づいてくる。痛んだ木は音を良く鳴らす。
「どうした?」
女性にそう聞きながら顔を出したのは人の良さそうな男性だった。女性と同じ位の歳だろう。こちらはしっかりとした顔つきで僕を怪しんでいる。きっとこの人が二人の頭脳だ。
「お、この子……さっきの子だよな?」
「ええ。記憶がないみたいなの」
女性がなんのことはないかのようにそう言うと男性は驚き慌てだす。
「そりゃあ大変だ! とりあえず家に入りなさい」
良かった。やっとまともな反応を得られた。ある意味でまともではないけど。
「すみません」
一礼してから家の中に入れて貰う。中は外観よりも広く感じられた。部屋はこの一室だけのようだけど、ベッドに机、椅子、ラジオとあって不必要な物は置かないようにしているのか小奇麗な印象を受ける。
丸い机を囲むように椅子は二つあってその内の一つに案内される。もう一つの椅子には男性が座って、女性は男性の言葉に従ってお茶を汲んでいるようだった。
「いやあ、大変だね。こんな時に記憶喪失なんて」
少し、引っ掛かる物言いを感じる。この男性、どうやら僕を信じている訳ではないらしい。
「こんな時、ですか?」
もし今の言葉で僕が頷いていたら“こんな時”を理解していることになるのではないか?子供ながらに考える。明らかに腹を探られているようであまり良い気分とは言えない。
「んん、そうか。解らないんだったね。よし、俺が教えてあげよう。
と、その前に。俺の名前は達也だ。あいつは未来。
君は……解らないんだったな。どうにも記憶喪失の子とは始めて会うから対処が難しいな」
普通そうだろう。記憶喪失なんて御伽噺の世界の話と言われても納得出来る位だ。
「今のこの世界なんだがな、大雑把に言って、生死の概念が無くなっている」
「ええ!? なんですか? なんなんですかそれ!?」
少し大袈裟だったろうか。でも、この位大袈裟に驚いても良い内容だとは思う。世界がいきなり不死者軍団だ。驚いても問題ない、気はする。
「人が死なない。死ねないんだ。今から二年前に月が落ちてきてね」
「ええ!?」
逐一驚きの声を上げなければいけないというのは、しかもそれが演技というのは思いの外恥ずかしい。けれど冗談でやっている訳ではない。心の中で確認する。もしかしたら目の前にいる人間は悪魔なのかもしれない。最も出会ってはいけない人間なのかもしれない、と。
「理由は解らない。誰にも解らない。
ある奴は天変地異だと言うし、ある奴は既に死後の世界だと言う。ある奴は試練だと言った。
けれど、どれも意味がある物じゃない」
それらの話は僕も聞いた。以前、ラジオがまだ定期的に放送されていた頃、DJがこんな質問をリスナーにした。“今の世界はどういう世界か”。突き詰めてみれば奥が深いような、考えるには浅はかな問いに沢山の答えが届いた。けれどどれも浮世離れしている。仕方ない。現実が一番浮いてしまっているのだから。そして、それらの答えを聞きながら僕は思った。だからどうした、と。結局この世界の在り方に答えが出されようと意味は一つも無かった。理解した所で生き方が変わる訳でもない。確かなのは世界中に危険な犯罪者が沢山いて、僕達はそいつらに怯えながら暮らしていくという事だけだ。どう足掻いても死ねない世界で死なない為に。
「簡単には信じられないかもしれないけれど、その内に解ると思うよ。
この先君が死を体験した時、一時間後には綺麗さっぱり元通りになっているのだからね。
ああ、そうだ。一つ言っておくけれど、外を出歩くのは得策じゃない。
今、世界はとても危ないから」
「危ない?」
危険だと当然知っている。そもそも、僕と彼女が行った三十六回の自殺の中で一度も危ない目に合わなかったことは奇蹟と言えるかもしれない。要するに僕達は三十六時間無防備だったのだから。
「テロリストが蔓延っているんだよ。それも、獰猛なテロリストがね」
テロリスト?そうなのか。あの犯罪者達にはそんな名前が付けられていたのか。僕も彼女もここ三ヶ月程ラジオを聴いてはいない。いつの間にかそんな名前が奴らに付けられてもおかしくはなかった。
「テロリストに捕まると命の保障はない、って言葉はおかしいけれどね。
とにかく殺され続ける。何度も生き返るけれど、何度も殺される。
それに、死なないだけで痛みはあるんだ。苦しみも感じる。
そんな中、何度も殺されたら心が死んでしまう。それは……恐いだろう?」
達也さんがどこか自虐的に笑みを浮かべる。その頃になって、ようやく未来さんがお茶を淹れて持ってきてくれた。僕と達也さんにそれぞれお茶を出すと、自分の分のお茶を持ってベッドに腰掛けた。
「だから僕達はこうしてこの家に隠れているわけさ。
まあ、たまに空腹で死んでしまうけどね」
「空腹で……ですか」
空腹で死ぬというのは僕も体験しているし、きっと今の世界で最も可能性の高い死なのだと思う。テロリストと呼ばれる犯罪者達は確かにそこら中にいて、特にコンビニやスーパー等で張り込んでいるという噂だ。人々もそれを知っているのか食料調達に進んで行く者はいない。疎開された各家庭、各個人は飢えで死んでいくことがとても多い。その苦しみの比喩の無さはなんとも言えないのだけど。
達也さんは僕に目を配り、そして、言う。
「こんな時だからこそ、君の事を信用はしていないんだ。
本当に記憶喪失だったら大変では済まない話なんだけど……」
そこまで言われて僕は頷く。この人達は僕と同じ生きることに怯えた人達だ。犯罪者に怯えた悲しい人だ。今の時代からすれば立派な弱者なのかもしれない。だからきっと、この人ではないだろうと僕も思った。となると、彼女は何処に行ってしまったのだろう。早く見つけないと…………早く……。
急に体が重くなる。意識が朦朧とし始めた。持っていたコップが下に落ちる。遠くで甲高い割れた音が
聞こえた。ああ、もう、なんて馬鹿だ。浅はかだった。何から何まで浅はかだった。
「簡単に人を信用しちゃあいけない。こんな時だからこそ、ね。
テロリストと世間は言ってくれるけど、俺達にそんな崇高な志はないんだよ」
達也と名乗った男の勝ち誇った笑い声が響き始めた頃には、僕はもう……。
――君は、お父さんやお母さんはいないの?
――いるよ。けど、いないようなもんかな。早くにおかしくなったから。君は?
――私も一緒。現実を受け止められなかったみたい……だから、一人ぼっちになっちゃった。
――そっか。
――うん。
――……ねえ、君はさ。世界がこんな風になる前は、何がしたかった?
――私は……絵を画いていたかったなあ。出来れば、絵で仕事したかった。
――へえ、絵が描けるんだ。凄いね。
――凄くないよ。絵を画くことは誰にだって出来るもん。本当に凄いのは絵を画き続ける人と、絵で生活している人だよ。君は?君は何かしたいことあった?
――んー。僕にはなかったかなあ。模索中だったかもしれない。でも、そんなもんじゃない?
――そうだね。普通、そうなんだろうね。私は運が良かったんだ。やりたい事を見つけられて。
――そうだよ。それに、諦める必要はないんじゃない?絵を画くことは、今でも出来るよ?
――そう思って最初の内は画いてたんだ。けどね、駄目なんだ。どれもこれも、絵が泣いてる。もう画けないみたい。
――んー、そっか。なんだか難しそうだ。
――私もそんな気がする。なんだか難しいよ。
――……それじゃあそろそろ行こうか。
――うん、行こう。
――じゃあね。
――ばいばい。
彼女と一緒に初めて自殺した夜の事だった。そうだ、彼女は絵が好きなんだ。だから、彼女に絵を画いてもらいたいと、僕は心の片隅で思っていた。今はこんな世界だから僕も彼女も選ぶ道がないかのように生きている――存在し続けているけれど、本当は僕達だって選べた筈だ。本当は、僕達にも希望は、ありふれた希望は有った筈なんだ。
実際に死なない世界になろうとも、犯罪者が蔓延らなければ、世界はまだ希望があった筈なんだ。百年後に絶望が漂うかもしれないけれど、それまではきっと、幸せを目指した筈なんだ。僕たちは奪われたのだか、自ら奪ったのか、一体どう解釈すればいいのだろう。
子供だという言い訳を、僕自身が一番使いたくない。
重苦しい頭で呆然と考え事をしていた。それでも微かに意識が取り戻される。寒気が背中を走っているのは気温のせいだけではない。そうだ、僕は捕まった。最も捕まってはいけない奴に。
とても暗い場所で目が慣れるまでは何も見えなかった。けれど、足に枷が付けられていることがひんやりとした鉄の冷たさで解る。触ってみるととても頑丈そうで、簡単に抜け出すことは出来そうにない。
目が馴れてきた頃、僕は目を疑った。隣には僕以外の人間がいる。この可能性を考えるべきだった。この可能性が最も重大だった筈だ。
僕の横で倒れている人間は多分、黒い髪をしている。真っ暗で色なんて解らないけれど、そうであってほしいとどこかで強く感じていた。髪は、長い。触ってみると塩で軋んでいてがさがさだ。暗闇に目が慣れようとここには一切の光がなくて断定出来ない。手探りで彼女の顔を確認するけれど判断がつかない。この人は彼女なのか?だとしても、彼女は、死んでいた。殺されていた。
がちゃりと音がする。と、同時に真っ暗な世界に光が飛び込んできた。急な光に目を細める。今度は明るすぎて何も見えない。光の方に目を向けると段々と影が濃く見え始めた。逆光で影しか認識できないけど、確かにこの影はあの男だ。僕の考えに裏づけする声が暗い部屋に微かに響いた。
「もう起きたのか」
言われて、怒りより先に望みが溢れる。光に照らされるように隣にいる人間の顔を確認すると、それは紛れもない彼女だった。彼女だ。彼女だった。苦しみに悶絶した彼女の顔だった。
「彼女に何をした!」
僕の言葉が余程嬉しいのか男は喉を鳴らして笑う。
「ほんの数十箇所を刺しただけだ。これでな」
達也が手にしていたのは太く、鋭そうなピックだった。あんな物で数十箇所も刺されては当然死ぬ。問題なのはその痛みだ。幾つ刺された時に死んだのかは判らないが、きっと彼女は何度も刺されたのだ。男に激しい怒りと怨みを覚えた。
時間から考えて彼女はまだ一回しか殺されていない。まだ大丈夫だと思う。三十六回死んだ僕達だから、そう簡単に痛みに狂って死なない筈だ。それは唯一の希望。あまりに儚く切ない希望だった。
「なんで……こんなことをするんだよ」
「なんで? どうして? 馬鹿かお前。当たり前だろう。
普通に考えろよ。極々普通に考えろよ。
今、この世界で生死の概念は無くなった。俺もお前も死にはしない。
死なないってのはつまり生きていないってことだ。だけど、嫌だろう? そんなのは耐えられないだろう?生きていたいじゃないか。そんな最悪の迷路に嵌りたくはないじゃないか。
生きていたいんだよ! だからだ、俺は殺すんだよ。
死ねないなら殺して生きるしかないじゃないか。殺すことで生を感じるしかないじゃないか。
なあ、普通だろう?」
……完璧に狂ってる。この男が言っていることは滅茶苦茶だ。だけど、もしかしたらそうなのか?そんな理由で世界中の犯罪者は今尚人を殺すのか?そんな幼稚な考えで。自殺はいつの時代でも逃げだと思ったが違う。逃げているのはこいつらだ。
「縄で繋がれていたから知り合いだとは思っていたがやっぱりそうだったか。
それに、記憶喪失の演技までするとは念を込めてるじゃないか」
当然、記憶喪失が演技だというのもばれていた。今はもうそれ所ではないけれど。
「安心しろよ、どうせお前たちは心中カップルだろ?
俺が望みを叶えてやるさ。お前達に永遠の死をくれてやる」
男は鋭利なピックを僕の喉に突き刺した。そこから一周するように首を穴ぼこにしていく。尋常じゃない痛みが何度も走って、麻痺する暇もなく痛みが暴れる。何度も、何度も、何度も、刺されて、気付けば僕は死んでいた。死んでいたと認識できる状況に陥っていた。
それから何度も僕は殺された。十回は最低殺された。何度死んでも死に足りないと言わんばかりに生き返る体が恨めしい。けれど、僕はこの時を待っていた。
あの狂った殺人鬼は僕と彼女を交互に殺していた。僕が死んでいる間に生き返った彼女を殺す。そうすれば僕と彼女は会話なんて出来ない。生き返った頃にはどちらかが死んでいる。けれど、あの男にも限界がある。こんな世界になっても欲求は失われてはいないのだ。つまり、奴は眠る。悪魔が眠った時を狙って僕は彼女とようやく再会できる。
時間にして二十四時間も経過していない。それでも彼女と再会できたのは何年の月日が経った後のように心苦しかった。きっとそれはずっと待っていたから。そして、何度も殺されて意識が朦朧としていたからに違いない。
僕が生き返り今までなら数分もしない内に男がやってきたのにその時は来なかった。目を覚まして数十分が経った頃、隣で横たわる彼女が小さく唸り声をあげた。
「ん……んん……」
彼女の髪を優しく撫でて、やっと、僕は挨拶をする。
「おはよう」
勢いよく上半身を起こした彼女は暗闇の中手探りで僕を見つけ出し、存在を確認してから僕を抱きしめる。僕も力の限り彼女を抱きしめた。ずっと隣にいたのにいつも彼女は死んでいた。彼女からしても僕は死んでいた。今初めて僕達は再会したのだ。
「おはよ、うぅ……」
涙ぐんで小さく嗚咽を漏らす彼女を優しく愛でて慰める。
「あまり大きな声を出しちゃいけないよ。あいつが戻ってくるかもしれない」
「うん、うん……」
理性で悲しみと嬉しさを強制することは適わなくて、彼女はずっと泣いていた。ぽたぽたと零れる涙が僕の首筋を這う。
暫く彼女は泣き止まなかったけれど、頭を撫でている内に彼女は落ち着きを取り戻してくれた。
「さて、と。ここから逃げ出そうか」
「でもどうやって逃げるの?」
「もう考えはあるよ。次にあいつが此処に来るまでに僕が自由になっていればいい。
あいつは此処から逃げれると思っていないみたいだからね。
多分、この足枷に鍵はある。あいつは常習犯だ。何度も同じことをしていると思う。
そして、心が死んだ人間はどこかに放ってる筈だよ。
海に投げるにしろ、町に放すにしろ。だから、鍵はある」
「自由って言ったって……この足枷は外れないし……」
「大丈夫。足枷が外れなくても自由になれるさ」
そう言って、僕は近くに用意していた拳大の石を取り出した。この石で何度も足枷を壊そうと試みたけれど、どうやら鉄には適わないらしく壊れやしない。更に、鉄が打ちつけれらる音を聞いて男が慌てて飛び出してくる。
正直、あの達也とかいう男を倒すのは簡単だ。この石を使って一撃でも食らわせれれば、僕はあいつのピックを奪い取って殺すことが出来る。だけど、それでなんになる?あいつを殺した所で足枷は外れない。一緒にいた女性はあれから一度も姿を現していないし、自由のない僕達は八方塞がりとなる。それを解っててあいつは油断しきっているのだろう。例えあいつが僕達に囚われて殺され続け心が死のうとも、もしかしたらそれは、あいつの望む所なのかもしれないのだ。
服を思い切り噛んで、僕は今までのことを思い出す。三十六回の自殺。三十六回の痛み。三十六回の希望。そしてこれは、三十七回目の痛みにして、三十七回目の希望にして、初めての生きる道だ。
今の痛みがなんだというのか。今までの痛みに比べればこの程度の物がなんだというのか。必死に自分を追い込んで、必死に自分を奮い立たせる。
彼女も僕のやろうとしていることに気付いたのだろう。一瞬、僕を止めようと手を出したが、打ち付けた痛みはもう始まっている。彼女は僕の体にしがみつき、精一杯応援してくれているのか悲鳴も漏らさずに傍にいた。
この狂った地獄から抜け出すのは容易ではないかもしれない。それでも答えは明白で、狂った地獄から抜け出したいなら、自分も当たり前に狂ってしまえばいい。
自分を痛めつける拷問としては充分にハイレベルだ。痛いなんて言葉は考えられない。心の中でただただ絶叫するばかりだ。
どれ位の時間が経ったのだろうか。計れないのは暗闇のせいだろうか。何もかもが不確かになる暗闇は僕達から時間すらも奪い取ったのか。
僕達は当然ながら一睡もしていない。眠れば死んでしまうのは明白だったし、それは望む所じゃない。頑固として起き続けて、数時間が経った頃、がちゃりと軋んだ音を鳴らして達也は此処にやってきた。
達也は彼女の姿を確認して、彼女の後ろに隠れるような姿の僕を確認した。
「久しぶりに会えて嬉しかったか? 俺も健気だろう? お前達にこうして再会をくれてやったんだからな」
達也の言葉に彼女が答える。凛と誇らしく、何にも屈することはないように。
「ありがとう。貴方のお陰で私達は生きていけるわ。これ、彼からの贈り物よ」
そう言って彼女は手に持っていた物を放り投げる。弧を描いて緩やかに投げられたそれを反射的に受け取った達也はそれを見る。
「ひっ」
小さく悲鳴をあげてそれを落とした。達也の足元には僕の足首が転がっている。
扉の近くに姿を隠していた僕は男の後頭部に拳大の石を思い切り振り下ろした。
「がぁ……っ」
何度も何度も憎しみを込めて石を振り下ろす。次第に力が入らなくなったのか達也は太いピックを手放した。言う事を聞かない足を無理矢理動かしてピックを手に取った僕は、なんの躊躇いもなく男の心臓目掛けて突き刺した。その周辺を二三度突き刺すと、達也は声も出さずに動かなくなった。
「はあっ……はあっ……」
初めて人を殺した高揚感、というよりは足の痛みばかりが脳裏に浮かぶ。実際、この男は一時間後に何事も無かったかのように目を覚ますのだ。そう思うとまるでこの手が人を殺したと実感が沸かない。
「それじゃあ、行ってくる……ね」
「……うん」
彼女も疲れきっているようだった。無理もない。僕も彼女も最低十回は殺されているのだから。体力的にも精神的にも限界が近い。それに、彼女に物凄くグロテスクな行動をして貰った訳だし。
扉から足を踏み出すとそこは木の家の裏側だった。僕達は小さな小屋の中にいたようで、外観はとてもみすぼらしい。よくこんな小屋で光が一切断ち切れていた物だと関心を示す。
足を引きずって木の家に行く。石で潰して無理矢理切り離した足が砂に擦れると悶絶するような痛みが走る。木の家の扉を無造作に開くと、中には未来という女性だけがいた。
「あら、こんにちは」
椅子に腰掛けて紅茶を飲んでいる未来は首を動かして僕を見て、平然と挨拶をするだけだった。
「こんにちはって……それだけかよ」
足からは未だに血を流し続けていて、よくぞ今まで持ってくれたと自分の血液の量に感謝している。一応服で縛って止血はしているけれどお飯事のようなものだ。そんな僕の状況を見て、未来は平然と挨拶をしたのだ。達也の心配をしている風でもなく。これは天然だとかおっとり系だとかで許されるレベルではないきがする。この女もまた、狂っている。
「鍵は、どこだ」
未来に近づいた僕はピックの先を首元に当てた。いつでも刺せるぞ、という宣言。死に意味は無くても痛みは恐い筈だ。そうである筈なのに、未来は笑う。
「そんなことをしてなんの意味があるの? どうせ死なないのに、どうせ生きているのに」
けらけらと笑い出した未来は笑い終えることを知らないかのように、狂喜する。
「貴方は教えてくれるの? 貴方は知っているの? 私は誰も教えてくれなかったわよ。達也にしたってそうよ。何度私を殺したって、私は死ぬことすらなかったのよ」
この女もあいつに殺されていたのか。不思議ではないけど。
「殺してよ、殺してよ、殺しなさいよ! ……誰でもいいから、殺してよ……」
女は完全に壊れていた。段々とこの世界に壊れていないものがあるのかと疑わしくなる。ああ、なんで僕はこんなことをしてるんだっけ、と既に出ている答えをもう一度求めた。
「僕は彼女と生きていくんだ……」
死なないから生きていないなんて冗談じゃない。生きていても死んでいることなんてあるのだから、同じように生きていなくても生きていることだってある筈なんだ。世界が壊れた。だからどうした。壊れても生きていける筈だ。希望さえそこにあるのなら。
泣き始めた壊れた女を無視して家中を探し回ると、それらしい鍵は思いの外楽に見付かった。
家を出て行こうとする時に、ずっと泣き続ける女に一瞥もくれず一言だけ投げつける。
「死ねないなら生きればいいじゃないですか」
簡単に言う。存外に言う。けれどそれを目指さなければ始まらない。僕達はそんな世界に行き着いてしまった。あとはもう諦めるしかない。受け入れるしかない。この世界で生きていくしかない。それ以外に選択肢がないのだ。
木の家の裏手の小屋はもう目と鼻の先だった。そこで安心したのか足がもたついて転んでしまう。驚いたことに足がもう動かない。当たり前か、今まで動いていたのが奇蹟といえる。執念だけで動かしていたようなものだから。
必死に力を振り絞り、右手に握り締めた鍵を小屋の中に投げ入れた。あまり距離が無かったことも手伝って、投げた鍵は小屋の中に入っていく。ああ、もう、起きてられない。まどろむ意識が心地よかった。どうせならこのまま永遠に眠っていたい。けれど、僕は、今、生きていたい。どうせ世界は変わらない。意識が分散する。考えが纏まらない。足音がする。なんとか瞼を開けてみると、彼女が慌てて駆け寄ってきた。彼女自慢の髪の毛がばさばさだ。どこかでお風呂を探してあげなきゃ……。
*
「ほらほら、見てよあれ」
彼女がか細く白い指で示した場所に目線を移すと、そこには僕達が通っていた学校があった。今では人なんて当然のようにいない場所だけど、僕達はあの場所で以前、勉強をしていた。もうあれから二年経つのだから時の流れは早いもので、僕はもう十八歳となるのか、と思うと老けた気がする。
町中を見渡せる電波塔に階段で四苦八苦しながら登った僕達は、不安定な鉄に座って過去を清算していくかのように思い出の場所を指し示した。
「私と君って同じ中学だったんだねー」
「全く知らなかったよ」
僕と彼女の家はそう離れてはいなかった。中学の時、僕は少し太っていた。中学の時、彼女はもっと大人しかったのだそうだ。それぞれが高校という場所で初めて自分を開き始めて、それでも僕達は世界がああなるまで気付きはしなかったけど、出会った。
「世界があんな風にならなきゃ、私達は出会わなかったんだよね」
「世界があんな風にならなきゃ、僕達は出会わなかっただろうね」
二人で言葉を重ねて、顔を見合わせて笑った。
「まるで他人事だね」
「君だってそうじゃない」
他人事であるかのように扱えればどれだけ幸せか。どうしても世界の成り行きは存在する全てに関係しているけど。
「よいしょ」
と、声を合図に立ち上がる彼女。僕も釣られて立ち上がる。不安定な足場で後ろ向きに倒れないようにバランスを取って、彼女の手を握り締めた。
「パラシュートなしのスカイダイビングなんてそうそうできないよねっ」
無邪気に笑う彼女に小さく溜息を吐く。
「普通やらないよ。死んじゃうからね」
「死なないからいいじゃん」
無邪気に命を軽んじる彼女を、もし神様がいるなら制裁を加えるのかもしれない。この世界に神様がいるなんて到底考えられないけど。
「もうこれは希望じゃない」
「ん?」
僕が言ったことに彼女は疑問を示す。僕はそれに応えるかのように彼女に言う。
「これはただの趣味だもんね」
「うんっ」
彼女も理解したのか大きく頷いた。飛び降りが趣味だなんて冗談にしてはユーモアが足りないかもしれないが、事実なのだから問題ないだろう。
「自己紹介、するね」
彼女の言葉は唐突なわけじゃなかった。彼女はここを目指す時に宣言していたから。だから、僕はそれがいつだろうと想像していた。
彼女にとって自己紹介というのは、紛れもない共生の誓いだ。これから先、生きていきましょうと、手を差し伸べているに値する。
「私は天峰桜。ええと、十七歳。元高校一年生、かな。たはは、なんか恥ずかしいや」
「僕は勝山康孝。僕も十七歳だ。まあ、同い年だってのはさっき解ったけれど、同じく元高一。んー、改めて宜しくね、桜」
名前を呼ぶと彼女は顔を赤くする。そんな風に照れられてしまっては僕もなんだか恥ずかしくなってしまう。二年間ろくに人と交流を行わずに生きてきたから精神的な部分では成長していないのかもしれない。
「それじゃあ、いきますか」
彼女は照れた頭をぶんぶんと振って、取り乱した様子もなく、僕に合図をした。
「それじゃあ、いきますか」
同じ言葉で返事をした僕はただただ広大に世界の果てにまで続いていそうな空を仰いだ。大きく飛び込むようにして前へと体を投げ出す。
世界を飛行しているかのような空の中で、僕と桜の手はしっかりと握り締められている。
二人で永遠の時を噛み締めながら。
とある大賞の応募原稿をどんな風に何を書こうと考えながら書いた一作ですが自分の中で駄作として(解りづらい上に展開に面白みがない)隠蔽しようと思い、ここに公表します。
まあ間違いなくこの程度じゃ一次審査も通らないのでしょうし。
そんな作品です。