量子力学バースデー
「シュレーディンガーの猫って知ってる?」
向かいからの質問に、私は最後の一口を頬張って一言。
「喋ってないで早く食べたら」
「うわ。今の、恋人なら喧嘩もんの返しよ」
友人の弁当箱に詰まった米を見る。休みが終わるまであと数分。大丈夫かと問うと彼女は眉をひそめた。
「あんたが早いの。早食いは体に悪いよ」
「母さんみたいなこと言う……」
彼女は苦笑して米に箸を差した。食べ終わって暇になり、友人の話を拾ってみる。
「その何とかの猫、『箱を開けるまでは猫が生きてるかどうかわからない』って話でしょ」
「それ、誤用だから。調べてみな」
「ウソ!」
スマホを開く。シュレーディンガー、の、猫、と。量子力学の用語が飛び交うページが現れた。反論しようと勇んだ指は1スクロールで止まってしまう。
「何も分からん」
「簡単に言えば、箱に『生きている状態の猫』と『そうでない状態の猫』が重なり合ってるって話」
だめ。もう分からん。そう思ったのが顔に出たのか、彼女は私を一瞥した。
「変な話よね。箱を開けるまで確定しないって」
「もう少し簡単なお話ししよ」
「でも、それって少なくとも生きている猫が存在してるんだよ」
「ちょっと?」
「私なら箱を開けられないかも。怖いもん」
友人は机に伏して喋り出した。声はお経のように淡々としていて、だけどびっしり言葉が詰まっている。
ただならぬ様子に鳥肌が立った。恐る恐る声を掛けようとして、気付く。
名前、何だっけ。
10カ月も一緒にいた彼女の名が思い出せない。
ぐわんと視界が揺らぐ。景色が絵の具を混ぜたようにぐしゃぐしゃになり、鋭い頭痛に襲われた。
嵐の中にいるみたい。真っ暗で、ごうごうと音が轟く中、彼女の声だけが聞こえる。
「私、本当にこの手であんたを抱きしめられる?」
その声が悲しそうで、私は懸命に手を伸ばした。
大丈夫だよ! 名も知らない彼女に呼びかける。安心してほしい。それだけだ。
手は柔らかい壁にぶつかる。温かくて、抱きしめられたような気分になる。
「葵」
――ああ、それはあなたがずっと呼んでいた私の名前!
そう気付いた瞬間、真っ暗なトンネルに私の体は吸い込まれた。道は狭く、体内にあるものが全部押し流されていく。代わりに空気が流れ込んできて、私は思いっきりそれを押し返した。
「おめでとうございます! 元気な女の子ですよ」