第六話
「ふう……」
夜の午後十時前。大きな湯船に浸かりながら、俺は至福のひと時に浸っていた。
季節はもうすっかり春だったが、夜はまだ少し肌寒い。
湯船に張った温かいお湯が体を芯から温めていく。
俺は足を伸ばした状態で手を組むと、それを思いっきり頭上へと掲げ、伸びをした。
ぐぐぐっと伸びていく体が、凝り固まった全てを解きほぐしていく。
この感覚は気持ちがいい。
大きくて綺麗な風呂場と風呂桶が、それを可能としてくれているのだ。
この家に越してきたのはちょうど四年前の今くらい。
その際親父が新築を建てたこともあり、たった四年しか経過していないこの家は未だ新築同然だった。
以前はところどころヒビやカビが生えた洗い場に、浴槽も子供の俺ですらまともに足が伸ばせないほど小さかった。
——だが、今は違う。
洗い場はカビの生えにくい素材に変わり、浴槽も俺が足を伸ばして余りあるほどに大きく長くなった。
昔は親に言われてもすぐにお風呂には入りたがらなかったが、今では率先して入浴するほど——休みの日には二度入ったりするほど——お風呂の時間が好きになっていた。
俺は両手でお湯を掬い上げると、それを思いっきり顔にぶっかけた。
ああ、さっぱりする……。
髪が長い女性ならば手入れも大変なのだろうが、俺は短い。シャンプーでサラサラ洗えばそれで終了なのだ。
「ふう……」
俺はもう一度深い息を吐くと、水面に映る自分の顔に目を落とした。
波紋で歪む、ガキっぽい顔。自分でも中々にいい顔をしているとは思うのだが、しかしどうしてもそこから大人っぽさが見出せずにいる。
大きめな目に二重の瞼。鼻筋はスッキリとして、唇は薄い。
全体的に見れば輪郭は濃くはっきりとしている印象だ。
揺れる水面に合わせてさらに歪んでいく中性的な顔。
それを見下ろしながら、今日帰り際で話していた遊羽との会話を思い出す。
第一と第二の復讐はこの村で起こったものじゃないかもしれない。
恨みを持った人間は東京にいる可能性が高い。
確かに第三の事件がここで行われたからといって、他二つもここで起きたという根拠はどこにもない。
それどころか死んだ本人が元々は東京で暮らしていたのだから、そう考える方が自然だ。
——しかし、なぜだろう……。
遊羽の意見は確かに的を射てるような気がする。気がするのだが、どうしてか……。
あの時は目から鱗が落ちるほどの衝撃を感じでいたというのに、今ではこう……喉に引っかかってしまった小骨のように、飲み込みにくいものとなっていた。
靴の中に入った小石みたいに、中々取り出せないあの感覚……。
もどかしさと言うか、原因不明の苛立たしさが一向に拭いされないのである。
根拠はもちろんない。
だから、この思いを遊羽に言ったところで説得力は微塵もない。
得体の知れない靄が、何かを曇らせ続けている。そんな感じだった……。
しかし、俺の頭でそれが解決できないことはわかっていた。
俺ははっきり言って馬鹿だ。
解く方法がわからないのだから、いくら真実を追い求めたところで答えには一向に辿り着けない。
俺は鼻をつまむと、勢いよく水中へとダイブした。
******
パジャマに着替え、タオルを頭に乗せた状態でリビングに出ると、ちょうど親父がテレビをつけたまま新聞を読んでいた。
映し出されている内容は夜のニュース番組。俺が最も縁遠くしている番組の一つである。
俺はタオルで頭をゴシゴシしながらテーブルへと近づき、その上に置いてあるリモコンに手を伸ばした。
「親父、変えてもいい?」
「ダメだ」
にべもなく断られた。
何だよ。ケチ——。新聞読んでんだからいいじゃないか。
俺は渋々ソファ——テーブルに沿って置かれているL字型のソファ——の親父がいない辺に腰を落とした。
ニュースの内容はどれもつまらないものばかりだ。
どこぞの動物園で飼育されている動物が新しい子供を産んだ話とか、外国と外国が電話を使って会談した話とか……。
中学生である俺には至極どうでもいい内容ばかりが流れていた。
——がしかしそんな中で一つだけ、俺の注目を引く映像が流れ込んできた。
緑の森に囲まれた集落。そのど真ん中に構えた大きな木。
ピンク色に染まったそれは紛れもなく、この村にあるあの桜の木だった。
すると映像はまたも切り替わった。
テレビには若い女のニュースキャスターが現れ、彼女は一昨日起こった殺人事件について話し始めたのだ。
『一昨日の五月二十日未明。G__県、T__郡にある里桜村で発生した、衆議院議員を務める松月正一郎氏の息子、松月咲冴氏が何者かによって殺害された事件。
被害者は包丁などの鋭利な刃物により、身体を数回に分けて刺されており、警察は怨恨の線から捜査を続けているとのことです』
俺は思わず身を乗り出して、そのニュースの内容に聞き入ってしまった。
里桜村で起こった殺人事件。死んでいた男の周辺情報も大々的に報道されていた。
それに付随して、父であり、議員を務めているという正一郎がインタビューに答えている。
彼は顔を曇らせ、悲痛な思いをマイクの前で語っていた。
それからしばらくキャスターは事件について語っていたのだが……。
なぜだろう……、テレビから流れる映像からは一向にあの手紙についての話題が出されないのである。
あんなに衝撃的で、特徴的な手紙が残されているというのに、何の話題にも上がらないのは不自然ではないか。
「どうしたんだ? お前にしてはやけに、熱心に見入っているな」
そう言ったのは先ほどまで新聞を読んでいた親父だった。
親父は新聞を丁寧に折りたたむと小脇へ置き、ニュースに目を移した。
その横顔へ俺は皮肉まじりに返す。
「そりゃあまあ、この村で起こった事件なんだし、気になるのも当たり前だろ」
そうでなくても、俺はこの事件の第一発見者の一人なのだ。気にならないわけがない。
親父は真剣な眼差しをテレビに釘付けにしたまま、
「そうだな。俺たちも、もうこの事件に無関係とはいかない。まだ犯人は捕まっていないようだし、未だにこの村のどこかをうろついてる可能性だってある。お前も、学校の行き帰りには十分気をつけるんだぞ」
「わかってるよ……」
「それから、夜間の外出も禁止だ。この事件も夜に起こったそうなんだからな」
俺はハイハイと、もはやお決まりと言ってよい忠告を右から左へと受け流すと、再びテレビに耳を傾けた。
『それでは続いてのニュースです。——」
ああ、そんなことを言っている間にニュースが終わってしまった。
せっかく事件についての情報を手に入れようと思っていたのに……。
しかし、現段階では特に真新しい情報はこれといって放送されなかったのも事実だった。それどころか、不十分にすら感じられる。
第三の復讐……。あの言葉が一体、この事件の何を表しているのか。
遊羽の言う通り、第一と第二の事件は東京で発生したものなのだろうか。
そう思い一人考えに耽っていると、またニュースが新しい話題へと切り替わった。
『続いてのニュースは、四月五日、東京のM__区で派生した殺人事件について。警察は以前発表したS__区の殺人事件と、何らかの繋がりがあるとして、捜査を続けていると発表しました。S__区で発生した事件は、——」
——東京で発生した殺人事件?
あまりにもタイムリー過ぎる内容に、俺はソファの上で硬直していた。
隣では親父が不思議そうにこちらを眺めているが、とても気にしてなどいられなかった。
遊羽の言っていた東京で起きた殺人事件。それが実際に、二週間前にも発生していたのだ。
それも画面に映るキャスターの話ではその二つの事件は連続殺人の可能性すら浮上しているのだという。
まさか、本当に……?
遊羽の仮説がここに来て、さらなる真実味を帯びてきたのである。
俺の心は一刻も早くこの事実を遊羽に伝えたい気持ちでいっぱいだった。
明日の朝、早速そのことを遊羽へ伝えようと心に決めた俺は、寝坊しないよう少し早めの就寝に着いた。
……。
…………。
………………ッ!