第五話
今日の授業が全て終わった放課後。
終礼から一時間が経過した今、俺は職員室を目指し歩いていた。
自分の教室がある桜組から三教室挟んだ先、下駄箱を過ぎた辺りにそれはある。
東京の学校に通っている頃、職員室はかなり苦手だった。
別に悪いことをしているわけではないが、入るだけで大人たちに注目されるのが心底気持ち悪かった。
しかし、今は違う。
職員室と言っても、どうせいるのは河津先生だけなので、特に緊張することはない。
それどころか彼女もいなければ、ここの職員室は無人になるのだ。
廊下の外からは真琴や玲、あさぎの和気藹々とした声が届いてくる。
俺はプリントを片手に、それを羨ましげに聞いていた。
六時限目に出されたプリントに少し手間取ってしまった俺は、河津先生に「プリントを提出してから帰宅してください」と言われてしまったのである。
皆が帰宅準備をして教室を去っていく中、俺は急いでプリントを片づけた。
それでも一時間は近くはかかった。
ようやく終えた俺は職員室にそれを提出しに向かっている最中なのである。
教室の前を通り過ぎ、そろそろ下駄箱に差し掛かると言うタイミングで見知った顔と出くわした。
「あれ、遊羽。まだ帰ってなかったのか?」
とうに帰宅したと思っていた遊羽が、下校時とまったく同じ格好で廊下に現れたのである。
他三人は大抵授業が終わると外で遊んでから帰宅しているのだが、遊羽はいつも決まって真っ直ぐ家へ帰る。
だからこんな時間にこいつが学校へいるのはかなり珍しいことだった。
遊羽は俺の存在に気がつくと、すれ違いざまに答えた。
「忘れ物したから、戻ってきた」
「そうなんだ。俺はようやく終わったこのプリントを今から提出しにいくところ」
訊かれてもいないことを話しているのは十分わかっていたことだが、遊羽は俺の事情になど無関心で過ぎ去り、桜組の教室へと向かっていった。
相変わらずのさっぱりとした態度。
無駄なものなど一つもないと言った感じである。
俺はしばし遊羽のその後ろ姿を見届けた後、職員室に足を進めた。
「失礼します」
職員室の扉を開けると、俺はお決まりの文句を口にする。
「あら、染井さん。提出に来たのね」
中にはやはり河津先生しかおらず、彼女はちょうど明日使うであろうプリントを印刷している最中だった。
「申し訳ないけれどプリント、私の机の上に置いておいてくれる? それを提出したら、もう帰宅していいから」
「はーい」
俺は職員室に足を踏み入れると、言われた通り河津先生が使用している机の上にプリントを置いた。
綺麗に整頓された卓上である。几帳面で綺麗好き、教科書に挟んだメモでさえ丁寧な字で書かれている。
誰もがこれを見ただけで、彼女の性格が手に取るようにわかる気がした。
するとその時、俺が入ってきた扉と同じところから声が聞こえてきた。
「失礼します」
「あら、羽鳥さん。まだ帰っていなかったの? 貴方は提出するプリントはなかったと思うけれど……」
やってきたのは遊羽だった。教室で忘れ物を回収したのち、ここへ立ち寄ったようである。
一体何の用があって来たのだろうか。
先生に質問された遊羽は答える前に職員室内をぐるっと見回すと、俺に視線を止めた。
「桜季を、探していました」
ん? 俺に用事?
「どうしたんだ?」
俺がそう問うと、遊羽は何食わぬ顔で、
「プリント提出し終わったら、一緒に帰ろうと思って」
「………………、は?」
俺は遊羽から発せられた言葉がうまく飲み込めず、しばらく思考停止してしまった。
遊羽が一緒に帰ろう? 一体全体、何がどうしてそうなったんだ。
今の今まで遊羽が帰宅を誘った人間なぞ一人としていない。そんな彼が突如、そんな言葉を口にしたのだ。
もしここに真琴や玲がいたのなら、間違いなく一緒になって驚いたに違いない。
「わ、わかった……」
しどろもどろになりながらも、俺はとりあえず頷いてみせる。
返事を聞き届けた遊羽は、すぐに扉を閉めてしまった。
半ば呆然と立ち尽くす俺をよそに、先生はなぜだか……ニヤニヤとしていた。
その顔を見て意識がはっきりとした俺は、ムッとした表情で先生を睨みつける。
「失礼するよ」
ガラガラと音を立てて、またも職員室の扉は開かれた。
先ほど俺や遊羽が開いたところとは別の扉である。
やって来たのは校長の永源だった。
彼は白Tシャツにダボダボのズボンという、昨日と変わり映えのしない出立ちで、麦わら帽子を首から下げていた。
彼はちらりとだけ俺を一瞥すると、すぐに先生の方へ顔を向けた。
「河津君。お仕事中申し訳ないのじゃが、少し来てもらえないかのお」
「どうかされましたか?」
「つい先ほど警察の方がお見えになって、君に話を聞きたいそうじゃ」
「え、警察ですか……。一体どうして……」
「要件はおそらく、昨日の事件のことじゃろうと思う。お願いできんかのお」
「……わかりました。すぐに向かいます」
河津先生は訝しみながらも頷くと、急いでプリントをコピー機から掬い取った。
彼女の了承を得た校長はにっこりと破顔する。
「助かるよ。応接間に待たせてあるから、よろしくの」
「はい」
河津先生は印刷していたプリントを机に置くとそのままの足で、
「それじゃあ染井さん。気をつけて下校してくださいね」
と言い残し、職員室を出ていった。
後に残された俺は彼女の後を追うわけではないが、すぐに職員室を出た。
廊下には当然ながら遊羽の姿がある。
彼は廊下の壁にもたれかかった状態で俺を待っていた。
んー、……何とも、慣れない光景である。
遊羽は出て来た俺に気がつくと、さっと壁から体を起こし、こちらに歩み寄ってきた。
「二人とも、気をつけて帰るんじゃぞ」
いつの間にかそばに立っていた校長が、俺たちに向かって笑顔を向けていた。
その言葉になぜだか妙な気恥ずかしさを感じた俺は、気を紛らわせるように校長へ質問した。
「け、警察は何しに来たの?」
「ん? ……んー」
校長はしばし返答に窮すると、サンタクロースさながらの長い髭をそっと撫でた。
「んーん、さあのお……。おそらくじゃが、儂が彼女のことを東京から赴任してきた先生じゃと説明したのが原因かもしれん」
「東京? それが何か関係あるの?」
「松月君は東京出身じゃったからなあ。警察が何か繋がりがあると睨んでおるんと違うか?」
「松月と河津先生が……。それって本当なの?」
「いや、そんなことはないと思うがのお。警察が勝手に結びつけておるだけじゃろうて」
「校長も警察から何か訊かれましたか?」
この問いは遊羽からだった。
彼はつい先ほどまで傍観を決めていたが、突然間に割って入ってきた。
「儂か? 儂は一昨日の晩のアリバイを訊かれただけじゃ」
「何て答えたんです?」
「儂は一昨日の夜明けまではずっと近所の者たちと一緒におっての、朝まで酒盛りじゃったわ」
「朝まで……」
こいつ、次の日も学校があるってのに、朝まで飲んでやがったのか。
夕方会った時にはそんな気配、まったく感じなかったぞ。
そういえば確かに、あの日は学校で校長の姿を見なかった気がする。
そんなにも校長という立場は自由なのだろうか……。
——いや、そんなことはないはずだ。
校長が自由なのではなく、この人が自由なのだ。
******
それから俺たちは校長へ別れを告げ、早々に帰路に着いた。
途中、遊羽と歩く俺を校庭で遊んでいた真琴たちに驚かれるという場面に出くわしたが、俺はそれらを一切気にしないように努めながら現在、畦道を二人並んでいる。
珍しく誘ってきた遊羽も、今回は初めから隣を歩いていた。
「それで、何で今日に限って誘ってきたりしたんだよ遊羽。いつもは何も言わず、さっさと帰っちゃうのにさ」
俺は彼の真意を確かめるべく、単刀直入に切り出した。
ちらりと隣を見ると、彼はいつもと変わらぬ無愛想な顔をしている。
「桜季に話したいことがあったんだ」
「話したい、こと?」
本日二度目の衝撃である。
——遊羽が話したいこと? 俺に?
「何だよ、話したいことって……」
こいつは一体、俺に何を話そうというのだろうか……。
つい足を止めてしまった俺を、遊羽は振り返り不思議そうに見つめていた。
胸の鼓動が自然と速まるのを感じる……。
血液が全身に廻り、顔が次第に熱くなっていく……。
そんな謎のドキドキを胸にした俺へ、遊羽はいたって平然とした態度で言い放つ。
「昨日からずっと考えていたんだ。——事件のこと」
「……」
「手紙のこと……」
「……」
事件……。手紙……?
「——ッ」
そうか、そう言うことか——。今回のこの下校は遊羽にとって、単なる昨日の延長だったわけか。
確かに機能の遊羽の様子から考えると、この突発的な行動も何ら不思議ではない……かもしれない。
早鐘を打っていた鼓動が、徐々に収まっていくのがわかった。
熱せられた頬が、春の夕風に当てられて急激に冷やされていく。
「どうしたんだ桜季?」
まったく足を動かす気配を見せない俺に、遊羽は可愛らしく小首を傾げている。
「……」
何だろう……。今は逆に、無性に腹が立っている自分がいる。
どうしてこいつはこんなにも、呑気な顔をしていられるのだろうか。
俺は煮えくり返り始めた感情を無理矢理に抑え込むと、再び足を前進させた。
ムッとした表情で追い越していく俺を、遊羽は訝しみながらも着いてくる。
「——それで、手紙については何かわかったのか?」
俺は先ほど言った遊羽の言葉、死体のそばに残されていた手紙について、——少しだけ怒気を孕んで訊ねた。
しかし、遊羽はそれに気づく様子もなく答える。
「あの手紙には第三の復讐と書かれていた。だから僕は昨日、第一と第二の事件が過去行われたはずだって話はしたよね?」
「ああ、したな。でも、校長や関山のおっちゃんも、そんな手紙どころか、殺人事件すら起こったことはないって言ってた」
「うん、そう……。この村で、今回と似たような事件が行われた記録はない」
遊羽は呟き、「となると」と、何だか勿体ぶるような間を持たせてから続きを話した。
「第一と第二の復讐は、この村で起こったものではないのかもしれない」
「え……」
遊羽の思いがけない言葉に、俺はもう一度頭の中でそれを復唱した。
——第一と第二の事件はこの村で起こったものじゃない?
校長も関山も、この村でこのような事件が起こったことはないと確かに言っていた。
しかしそれは、つまるところこの村で起こったことがないだけ——と、遊羽はそう言っているのだ。
第一の事件も、第二の事件も、この村で起こったものではないのだとしたら、校長たちが知らないのも無理からぬことである。
「そうか。だから二人は事件のことも、手紙のことも知らなかったのか」
「可能性はあると思う」
俺の言葉に遊羽は力強く頷く。
「亡くなった松月さんは東京出身だった。昨日も言ったことだけれど、彼の知り合いは断然、東京の方が多いはずなんだ。彼以外に犯人が恨みを持っていそうな人物も、東京近辺にいると考える方がまだ可能性は高いと思う」
「なるほどな」
確かに松月という男は東京出身。
校長も、彼は東京からこの村にやって来たと言っていた。
つまり他事件について考えるべきは、この村ではなく東京の方なのだ。
犯人は松月がこの村にやって来たから殺したのではなく、たまたまこの村に松月がいたからここで殺害したのだ。
犯人にとって、場所などどうでもよかったのだ。
「そうか。そういうことだったのか。——遊羽、お前天才だな」
俺は興奮気味に、遊羽の背中をバシバシと叩いた。
いつも仏頂面で、何を考えているのかわからない男ではあるが、まさかそんな頭の回転力を持っていたとは驚きである。
遊羽は俺の鮮烈な賞賛を体の一心で受け取りながら、苦痛に顔を歪めていた。
少し涙目になっている……。
——おっと、少しやりすぎてしまったか……。
俺は素早く手を引っ込めると、背中をさすっている遊羽に対して反省を覚えた。
しかし夕焼けを背に、暮れ始めた空と一体化する彼の横顔にはほんのりと、空とは違う、別の赤色が浮かび上がっているのを、俺は確かに認めた。