第十話
「それでは皆さん、各自持ち寄った食材を使用して調理を開始してください」
今日の四時限目の授業は調理実習だった。
各々が用意した材料を使って、完成した料理はその日の昼食としていただくと言うもの。
この学校はもとも中学校だったために、もちろん調理室もちゃんと設備されている。
コンロと流しが一体化した大きなテーブルが室内には4つ。電子レンジや炊飯器、まな板や湯沸かし器などと言った、これまた調理に必要な家電や道具類も、窓付近にはところ狭しを置かれている。
俺たちは前の時間であらかじめ作る品目は決めており、班分けもすでに終了していた。
全校生徒はたったの五人しかいないため、必然班は二つ。綺麗な半々には分けられず、そのうえ問題なのは、料理ができる者がこの中に二人しかいないと言うことだった。
今年高校受験を控えている玲に、いつも家で母親の手伝いをしているというあさぎ。
この二人だけが、料理には自信があった。
班分けはこの二人を中心としてなされ、玲には真琴、あさぎには俺と遊羽がそれぞれあてがわれた。
俺たちが作る料理はすぐにハンバーグに決定した。
理由はあさぎがこれならば自信を持って作れると豪語したため。——そして、彼女の大好物であったためだ。
おそらく、主は後者だろう。
ちなみに玲たちの班が作る料理はオムライスに決まったそうだ。
「調理を始める前に念のため、材料の確認をしてから始めてくださいね。持参する食材以外のものは前のテーブルに並べているので、必要なものを必要な分だけ使用するように。
それから、先生は少し職員室に用があるので席を外します。くれぐれも怪我と火には気をつけるように。いいですね?」
河津先生は相変わらずハキハキとした姿勢でそれだけを言い残すと、調理室を出ていった。
残された俺たち五人はのそのそと顔を突き合わせ、二チームに分かれた。
「よし、それじゃあ始めるか」
「うん」
俺の気合いにあさぎだけが力強く反応する。
俺たちは各自持ち寄った材料をまずテーブルへ並べると、河津先生が用意してくれたレシピ表に目を通した。
「持ってきた材料はこれで全部か。えっと何々……」
合びき肉に玉ねぎ、油、パン粉、牛乳、エトセトラエトセトラ……。
——あれ?
「なあ、あさぎ。ニンジンが見当たらないんだけど……」
俺は開始早々見つけてしまったプリントとの差異をあさぎに報告した。
あさぎは俺と同じようにプリントに目を落とすと、不思議そうにキョロキョロとテーブルの上を見渡す。
だが、何度確認してもないものはない。レシピ表に書かれているはずのニンジンがテーブルの上には存在しなかった。
「えっ……あれ? なんで、どうして……」
「さあ、ニンジンって誰が持ってくる予定だったっけ?」
混乱するあさぎに俺は首を捻り、それぞれ持ってくるはずだった食材を確認し合った。
「あたしはひき肉だよ」
「俺は玉ねぎ。——遊羽は何だっけ?」
「——ブロッコリー」
「……」
「……」
「……」
前回決めた時、確か一人一つずつになるようにと、担当食材を分けた記憶がある。
——と言うことは……。
推し黙る3人。皆すでに察していたことではあるが、あえて代表して俺が口にする。
「もしかして、ニンジンの存在だけ忘れてた?」
「みたいだね……。どうしよう」
涙目で縋りつくあさぎに、俺は苦笑いを見せるしかなかった。
本来人参はハンバーグ作りにそれほど重要ではない。
これは前回話し合って決めたことなのだが、ハンバーグだけでは物足りないんじゃないかという俺の提案に、あさぎが「それならお店みたいに野菜を添えようよ」と言う意見から生まれたものに過ぎないのである。
「ま、まあ……最悪なくても困らないものではあるし、添え物はブロッコリーだけでもいいんじゃないか?」
しかしあさぎはそれでは納得してくれなかった。
彼女は声を大にして不満を口にする。
「ええ——あたし、ニンジン食べたかったー」
「そんなこと言っても、今からじゃあ用意できないし……」
駄々をこね始めたあさぎに、俺は頭を悩ませる。
こいつ普段は大人ぶった態度をとるくせに、こう言う時に限って歳相応のわがままを見せるのはどうにかできないものか。
こうなってしまえば、あさぎはなかなか納得してくれなくなる。
どうしたものかと考えている俺の元へ、遠くから助け舟が出された。
「それなら僕らの方のニンジン、結構余ってるから使う?」
声の主は玲だった。
彼はいつものニコニコ顔で、俺たちに袋を掲げて見せる。
その小さなビニールの袋には大きなニンジンがまるまる一本入っていた。
「正直僕たちもこんなに使わないから、そっちが使えそうなら使ってくれる?」
「本当か——いやあ、助かる」
玲は早速袋からニンジンを取り出すと、まな板の上に転がした。
そしてその場にしゃがみ込み、テーブル側面についた両開きのドアを開いた。
中には大中小さまざまなボウル、片手鍋が積み重ねられており、扉内側に設置された箱には合計三本の包丁が並べて差してあった。
——手前から万能包丁と、おそらく出刃包丁、そして長細い包丁……。
玲はその中から万能包丁を選び取った。
「それじゃあ、先に分けちゃおうか。——どれくらい必要?」
「玲たちはどのくらい使うんだ?」
「僕たちはそんなに使わないよ。——んー、それじゃあこれくらいで分けようか」
そう言って玲は半分よりちょっと左寄りに包丁の刃をあてがった。
——ザクッ、と言う小気味いい音が鳴り、大きなニンジンは二つに分断された。
その大きい方を俺は受け取り、さらに自然な流れで玲から包丁をぶん取った。
「おい。自分のところでやれよ」
米を必要分確保して帰ってきた真琴が、俺を見て不満をあらわにした。
俺はそれでも何食わぬ顔で貰ったニンジンを切断していく。
「いいじゃねえか、ちょっとくらい。——少し貸してくれよ」
「邪魔なんだよ。自分の場所で切れよ」
真琴は米の入ったボウルを流しへ置くと、ぶつぶつと文句を言いながら研ぎ始めた。
「まあまあ、今は使ってないんだし、それくらい貸してもいいんじゃない?」
包丁を使う俺の横で、玲がいつもの笑顔で真琴を宥める。
「けっ——玲はこう言う時に限って甘いよな」
俺がニンジンを切り終わるのとほぼ同時に真琴は諦めたようで、米の水気をさっと抜くと、炊飯器の方へ持っていった。
俺は使った包丁を玲に返し、乱切りにしたニンジンを持って自分の班へ戻る。
「ニンジン貰ってきたぜえ——、ついでに切ってもきた」
テーブルに戻ると、そこには遊羽の姿だけなく、一人熱心にプリントと睨めっこをしているあさぎだけがいた。
「よかった……。今ゆうに米を取りに行ってもらってるから、はるきは玉ねぎを切って」
「オッケー。玉ねぎだな。皮を剥いてみじん切りにすればいいのか?」
「うん、あとそれを炒めて。あたしは他のもの取ってくるから」
そう言ってテーブルを離れたあさぎと入れ違いに、ボウルに米を入れた遊羽が戻ってきた。
遊羽はそのまま流し台へ向かうのを尻目に、俺は自分が持ってきた玉ねぎをまな板の上に置いて皮を剥き始める。
「玉ねぎの皮剥きって、これくらいでいいんだよな」
俺は何枚か茶色い部分をむしり取った玉ねぎを遊羽へ見せた。
遊羽はちらりとだけこちらに目を向けると、小さく「いいんじゃない」とだけ答える。
相変わらずの簡素なやつである。
俺は遊羽の極まった反応にため息をこぼすと、玉ねぎをまな板の上に戻し、
「あとはこれをみじん切りにしてっと……」
その場にしゃがみ込んでテーブル下の引き戸を開いた。
そして扉裏にある包丁差しから一本……。一本……。
「あれっ……」
包丁を取り出そうとした俺の手が止まる。
横では、それを不審に思った遊羽が流しから顔を覗かせた。
「——どうした?」
「あいや……、包丁が……、包丁が一本見当たらなくて……」
「包丁?」
たった今から使おうとしていた包丁。
包丁差しに三本は並んでいるはずの一つ——万能包丁が忽然と姿を消していたのである。
空になった一箇所を除いて、出刃包丁、長細い包丁だけが残されている。
「一体どこに行ったんだ、万能ぼう……」
その時俺の脳内に、ある記憶が呼び起こされた。
どこかで見たことのある、包丁だと思った……。
木製の柄が真っ赤に染まった……ごくありふれた包丁……。
あの時はこんなものどこにでもあるだろうと、頭の片隅にも置いていなかった、あの……。
真っ赤な血で染まった……。
銀色の刃……。
俺は軋むブリキの如く、不器用な動きで首を九十度回転させる。
「遊羽……ま、まさか……だよな?」
流しから顔を覗かせていた遊羽の顔は至って真剣で、醜いものでも見つけてしまったかのように顔を顰めていた。
この事実が何を意味するものなのか……。
俺よりも断然賢いあいつが、それに気づいていないはずはなかった。
「とりあえず……」
遊羽は俺から視線を外すと、流しに向き直った。
「とりあえず、今は料理に集中しよう」
俺は頷き、そしてもう一度だけ今見た光景が夢ではないことを確かめた。
扉の内側に貼りついた包丁差し。そこには確かに二本の柄だけが顔を出し、一箇所のみ空洞を作っていた。
つい先ほど玲から借りた時は何とも思わなかったというのに、今ではあの時——。
真っ赤な血で染まり、死体に深々と突き刺さっていた包丁が、今ではよくよく思い起こされる。
そう……。確かにあの時刺さっていた包丁は紛れもなく、ここ——調理室に置かれているものとまったく同じものだった。
俺は深く目を閉じると、その事実を封印するかの如く、そっと扉を閉めた。
そして両膝にグッと力を込めて立ち上がると、現在使われていないテーブルの包丁を取り出し、黙って玉ねぎに刃を落とした。