第三十七話『痛みと恐怖』
「魔獣だ!」
「逃げろ!」
「止まるな!走れ!」
街中の人々が逃げ惑う混乱の真っ只中、シーナは一人の男の子の手をひき、前に進んでいた。目的地は未だ決まっていない。
誰もが信じようとしなかった魔獣災害が実際に今起こっている。安全な場所などあるのかどうかなど誰にも分からない。シーナが目的地としてまず考えたのは王宮付近だった。魔獣災害は三百年前『石龍』に小石に変えられた魔獣が元の姿に戻り、地中から這い出てきたことが原因。つまり三百年前に魔獣がいなかった場所には魔獣は現れないのだ。
歴史書には三百年前の王宮防衛戦について細かく書かれている。王宮付近の魔獣は三百年前の騎士たちが討伐、その後城下街を取り囲む水路を防衛線として魔獣が城下街に入らないよう決死の戦いが繰り広げられた。
シーナはそのことについて知っていた。そのため王宮付近には魔獣はいないと踏んだのだ。だがシーナの現在地は東区の王宮と離れた東区後方。歩いて王宮まで行くのに数時間はかかる上に、坂道を登らなくてはならない。今のシーナの体力では無理だと悟った。
「それなら……」
シーナはできるだけ魔獣に会わないよう狭い路地を通りながら自宅へと向かう。シーラやカーラのこともある。そしてサンちゃんを自分の部屋に留守番させてきてしまっていた。王宮まで行くことより無謀ではないとシーナは判断したのだ。
「うっ……」
そんな時急に手を引く少年がしゃがみ込む。
「大丈夫ですか?」
「うっ……」
魔獣から気づかれないよう小声で話しかける。顔色が良くない。目の前で父親を魔獣に殺されたのだ。トラウマになっていてもおかしくない。
「ゆっくり深呼吸をしてください。吸って」
「すーー」
「はいて」
「はーー」
「水よここに」
シーナは水の呪文を唱えて少年の口へ水を運ぶ。何度か少年は口を濯ぐと顔色はさっきよりマシになっていた。
「行きま……」
もう一度手を繋ぎ、道を進もうとしたシーナは咄嗟に少年の口を押さえて息を殺す。
魔獣がいた。さっきの肉塊魔獣とは違い黒い毛並みに鋭い牙を持つ犬型魔獣。ずっと聞こえていた雄叫びの正体だ。
ここでシーナは自分の失態に気づく。たしかに小さな路地では魔獣との遭遇はなくなっていた。だが遭遇して仕舞えば一本道、曲がり角はあるものの撒くことは難しい。覚悟を決め、杖を握る手に力を入れる。
「ここで待っていてください。何かあれば今きた道を全力で走って」
シーナは少年にそう告げると魔獣の目の前へ飛び出し、杖で魔法を放つ。閃光は魔獣へと直撃し、紅い血と共に魔獣は吹き飛ぶ。
「やった!」
だがそうは甘くない。魔獣の腹は抉れ、骨が少し見えていたが痛がるそぶりも見せずに立ち上がり、シーナへ鋭い眼光を向ける。気迫に負け、後退りながらシーナはもう一度杖を構える。
魔獣は四本足で地を蹴りながら一気にシーナとの距離を縮め、シーナへと飛びかかる。シーナも負けじと魔法を放つがからぶりに終わり、鋭い牙はシーナの腕を貫く。
「いやぁぁあ!」
足に力が入らなくなり、魔獣から押し倒される形で地面へと倒れる。魔獣は首をふり、シーナの腕の肉は裂けていく。痛みを堪えながら杖を魔獣の抉れた腹に向けて魔法を放つ。
その勢いで魔獣は吹き飛ぶがまだ息はあるよっだった。追い打ちをかけるように頭に数発魔法を放ち、やがて魔獣は動かなくなる。
「はぁ……はぁ…。うっ…」
左腕に激痛が走る。恐る恐る傷を見ると案の定抉れていた。足と手が震え、そして痺れてくる。壁に寄りかかるように座り、もう一度傷を確認する。
うっすらと見える白い骨と服を染める血がシーナを恐怖させた。
「はっ……は……すーーはーー」
過呼吸になりかける自分を深呼吸で落ち着かせ、目を瞑りながら傷口に手を当てる。
「いっ……。癒しをここに。癒しをここに。癒しをここに」
何度も何度も回復の呪文を繰り返し、治療を試みるが無詠唱の回復魔術ほどの効果はない。痛みは続き、血は流れ続ける。頭がくらくらしだし貧血になりかけていた。
そんな時に少年が曲がり角から顔を出す。シーナより歳下であろう少年の顔はこわばっていた。
ーー今ここで死んだらあの子も……
その考えがシーナの意識を繋ぎ止める。
「見ない方がいいです。横に来てください」
痛みに耐えながら少年にそう言うと少年はちょこちょこと歩きながらシーナの横へと座る。
「癒しをここに」
シーナは回復呪文を唱え続けながら、少年の肩に寄りかかる。少年も身をシーナに寄せ、シーナが居心地の良い体勢になるよう配慮した。
「大丈夫です。私が必ず守りますから」
そう少年に告げるとまた回復呪文を再開する。痛みは人の温もりで少し和らいだ感じがした。だが魔獣災害への恐怖は未だに消えることなく、シーナと少年を包み込んでいく。




