表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

湖畔の花泥棒

作者: 酒月沢 杏

光り輝く湖畔の庭、美しくきらめく彼女の髪を、今でもはっきりと覚えている。


その光景は目の奥に焼き付き、部屋の片隅に飾った青写真のような美しさだ。


脳内でこだまする声が、その光を記憶していた。


その手にある、花とともに


「雄也!、私の話聞いてる!?」


怒りを表現した口調で言葉を投げ、俺の隣に立つ少女。


「あ、あぁ・・・聞いてるよ。そんなに怒るなよ」


赤みがかった茶色の髪は今はまとめられてもおらず、自由に宙を舞う。その流れが、風の穏やかな動きを繊細に表していた。


「もぉ、私知ってるわ。その顔は何も聞いていない時の顔よ」


「失礼な、ちゃんと聞いてるって」


「じゃあ、私が何の話してたか言えるのかしら」


「あぁ、えっと、今日の夕食何かな・・・とか?」


ハズレだ。眉間にしわが寄っている。とても怒っている顔だ。


まあハズレて当然だ。適当に言ったのだから。


「花よ!、庭師さんに花をもらったの!!」


そう言って手に持っていた花を突き出した。


美しいピンク色の花。数本納まるその花は、その持ち主の美しさを際立たせるアクセサリーのようだった。


「名前は?」


「私はエイミーよ」


「いや、そういうのいいから」


「つれないわね。ナデシコ、と言うらしいわ。日本では有名なお花なのでしょう?」


ナデシコ。もしかしたら実物は初めて見たかもしれない。


「確かに、名前ぐらいは聞いたことあるな」


「見たことないの?」


「ないわけじゃないと思うけど、ナデシコと認識してなかったな」


「じゃあ、見たことないじゃない」


「正確には知らないが正しいと思うがな」


俺は別に花に詳しいわけじゃない。チューリップとか、ひまわりとか、かろうじてスミレくらいまでならわかるが、あまり目にしないものだと名前は聞いたことあっても、見てそれがなんの花なのか言えるような知識は持ち合わせていなかった。


「ここにはたくさんの花があるじゃない、おば様から教わってはいないの?」


「俺は・・・まあ、こんなんだからな。聞く耳なんて持たなかったよ」


花なんて、特別興味なかった。そもそも俺はここが・・・この湖畔の屋敷が昔から好きじゃなかった。


「勿体ない。おば様、詳しそうなのに」


「そういうお前も、花のこと全然知らないだろ」


「そ、そんなことないわよ。人並みに・・・常識の範囲内ならわかるわ」


多分、俺の知識にちょっと毛が生えた程度だろう。


そっぽを向いて、少し赤くなった頬が、そう物語っていた。


「というか、お前って言わないでって何度言ったらわかるの!?」


「わ、わかってるよ。エイミー」


昔から、誰かの・・・特に彼女の名前を呼ぶのは苦手だった。


いつもお前とか、名前を呼ばずに呼びかけるとか、そういうふうに誤魔化して話す癖が、ついてしまっていた。


「そういえば、なんでナデシコなんだ?、旬とか?」


「んー、庭師のお爺さんは今の私にピッタリのお花だとしか」


「ピッタリ?」


花言葉、だろうか。


このナデシコの花言葉に、エイミーと重なる部分があったのだろうか。


だが生憎、俺も、恐らくエイミーも、ナデシコの花言葉を知らなかった。


「探して聞いてくる?」


「・・・いや、いいんじゃないか?。仕事の邪魔しちゃ悪いし」


半分は噓だ。なんだか、知るのが怖くなった。


これを知れば、なんとなく、今の景色を見られなくなる気がした。


エイミーと、いられなくなる。そんな気がしたのだ。


「そう、ね。じゃあ、一本あげるわ」


「え?、なんで」


「おすそ分け、って言うのかしら、こういうの。私ばっかりこんなに持ってても・・・ね?」


そう言って一本、花を受け取った。


どうしたらいいかわからない。


こんな、気まぐれのようなものでも


贈り物は、初めてだったから


「あ、ありがとう」


「なによ、やけに素直ね」


「なんだよ、人を礼儀知らずみたいに言いやがって」


「そのままでしょ。本当に同じおばあ様の血が流れてるのかしら」


「お家らしい気品がなくて悪かったな」


俺は元々、ここの家に属するように育てられてはいない。


母は、祖母の厚意でこの屋敷にいる。


俺はその付属品だった。


「でも、おば様のお話はいつも憧れるわ」


「まーたその話かよ」


彼女のお気に入りはこういう話だ。


俺の母親は、ある日本人の男と駆け落ちをした。


まあ、家の反対を押し切って・・・という家と対立して角が立つような、そこまで荒々しいものではないが。


だが、家の方針に背いたのは事実。名を失い、相続権を失い、一部の親戚からは白い目で見られた。


それでも、母は俺の父、その男のことを本気で愛していた。


最愛の母、祖母の出した見合い相手を蹴るほどに。


そうして結ばれたこの安っぽい物語を、エイミーはいたく気に入っていた。


こうして、親戚で集まる七月。彼女と顔を合わせるたびに、この話をされるわけだ。


自分の親の、結ばれた経緯の話を


「だって、駆け落ちよ駆け落ち。すごくロマンティックじゃない」


「どこがだよ。本来手に入るはずの幸せを蹴って、一般人になったんだ。ばあちゃんの気持ちも無視してさ」


「そんな、そんな言い方ないでしょ!?」


「じ、事実だろ・・・」


俺は、正直この話が好きじゃない。


本来手に入るはずだった幸せ。大団円の人生。


白い目で見られない、そんな人生。


親戚の食事の席で愛想笑いばかり浮かべている母の顔が、俺はずっと嫌いだった。


この家も、罵るだけの親戚も、みんな嫌いだった。


「私、あっちに戻る。雄也も遅くならないようにね」


「・・・わかってるよ」


彼女の白いワンピースの背中が、花の中に消えていく。


本当は、こんな事言うつもりなんてないのに


いつも家の話になると、特にエイミーの前になると、声も感情も裏返った。


近くにあったベンチに腰を下ろし、その湖を眺めた。


先祖たちが愛したその風景を見ながら、俺は今、屋敷の中のことを考えていた。


今は食事会の真っ最中・・・だと思う。


親戚が集まって、世間話とか、近況報告とか、家のこととか、小言だとか・・・


そんなくだらない話ばかりしている。


だが、俺の居場所はあそこにはほぼないと言っていい。


だから毎年、抜け出している。


そして一人の時は、ほぼ必ずと言っていいほど、このベンチに座って、この風景を眺めていた。


景色だけは、無駄に良いのだ。


ほんと、無駄に・・・


「よお、茉優嬢の坊ちゃんじゃねぇか」


「・・・庭師の爺さん」


「いい加減名前覚えてくんねぇかなぁ」


「覚えてるよ。ハイドンだろ?」


「年上を呼び捨てにするんじゃねぇよ、坊ちゃん」


「坊ちゃんはやめろ。いい加減雄也って呼べよ」


日本語が達者な白ひげ白髪の大柄な爺さん。昔からここをたった一人で管理している庭師の爺さんだった。


「だったら、ちゃんとエイミー嬢のことも名前で呼んでやんな」


「・・・クッソ」


俺は結構、この爺さんのことが苦手だった。


嫌いではない、苦手なのだ。


全てを見透かしているかのようなその口調、言動、それらが妙に鼻についた。


「坊ちゃんは相変わらず口が悪いなぁ。この家でもなかなか珍しいくらいに」


「悪かったな。不相応で」


「誰もそんなこと言ってないだろう・・・まったく、これだから若いのは、早とちりばかりするからいかんなぁ」


そう言って後頭部をかきながら、自然と俺の横に腰を下ろした。


「なに当たり前のように俺の横に座ってんだよ」


「立ってるのは疲れる。あと、年寄りはいたわるもんだ」


バリバリ元気なくせに、と頭の中で悪態をつく。


しかし、思えば本当に元気な爺さんだ。


「爺さん、今年いくつだっけ」


「八十六。それがどうした」


「いや、ボケ防止に聞いておこうと思って」


「しばくぞクソ坊主」


俺の知ってる八十六はこんなに元気じゃない。少なくとも一人でこの屋敷の広大な庭を管理するのは難しい。


「しかしなぁ、坊ちゃん」


「なんだよ」


「あれはないぞ」


「はぁ?、なんだよ突然」


とぼけているわけではない。本気で分からなかった。


呆れている。というあからさまな態度と言葉に俺は苛立ちを隠せずに返す。


「エイミー嬢との会話だ。わしも確かに女との経験は少ないが、あれはない」


「うっせぇな!、爺さんには関係ないだろ!?」


「いーやあるね。わしにはわかる。坊ちゃんのことも、エイミー嬢のこともな」


わざとなのか、どこか子供っぽい言葉遣いでそう言った爺さんの言葉に不快感が生まれる。


なんだか、喉に小骨が引っかかるような、そんな不快感


だが同時に疑問を思い出した。あの花のことだ


「それって、さっきエイミーに渡した花に、関係あるのか?」


「・・・それは、坊ちゃん自身が見つけ出す答えだ」


その返しは、明らかに自分からは言う気はなさそうだった。


「じゃあ、せめて花言葉だけでも」


「わしは教えん。書斎にでも行って調べてこい」


頑なに、爺さんは自分の行動の意味を教えようとはしなかった。


次第に好奇心より、先にエイミーと話しているときに感じた知ることへの恐怖が勝ち始め、俺は追及をやめた。


「なぁ、坊ちゃん」


「なに」


「戻らなくていいのか?」


咎めているわけではなく、心配しているという感じの声だ。


「・・・戻りたくないな。まあ、そもそも俺なんかいなくたっていいし、いても奴らに小言を言われるだけだ」


「それも、そうだなぁ」


爺さんは湖畔の先を見つめながらそう言った。恐らく腐るほど見た、その風景を


「・・・爺さんは」


口から出た言葉に、爺さんは俺の方を見る。


「爺さんは、俺とエイミーの話に、答えを持ってるのか?」


どうしたらいいか。その答えを、この爺さんは持っている気がした。


十六年間、彼女と繋いだ血の、その先を


「ヒントはもっとるかもしれんが、答えはないな」


「そうか」


「ヒントは聞こうとしないのか」


「どうせ馬鹿正直には教えてくれたりはしないんだろ?」


「まあな」


遠くを見る爺さんの目は、どう見ても答えを知っている目をしていた。


少なくとも、俺にはそう映った。


「ただ、こういう願いもある」


視線を落とし、それは願うかのような、懺悔のような、そんな顔


「わしのようには、なってほしくはないな」


その顔は、俺の知る爺さんの顔ではなかった。


「・・・坊ちゃん、今いくつだ」


「十六、知ってんだろ?」


「まだまだクソガキだな」


「喧嘩売るために聞いたのか?あ?」


突然先ほどの年齢の話を返され、俺は爺さんを睨む


「予言してやろう」


「予言だぁ?」


ついにボケたかと、雰囲気をぶち壊した爺さんの言葉にツッコミを入れようとする。


「お前は二十の時、この場所で、その花が盗まれたことに気づく」


意味が分からなかった。俺の手の中にある、一本のナデシコ真剣に見ながらそう言う彼のことを、俺は一切理解できなかった。


「な、何言ってんだよ」


「なに、ノストラダムスの真似事だよ」


「はぁ?」


そう言うと爺さんはベンチから立った。


「坊ちゃん、茉優に心配かけないようにな」


早く戻れ、と遠回しに言いながら、爺さんは去っていった。


恐らく仕事に戻るのだろう。


茉優・・・母に心配をかけぬように、とそう言った。


そう言われてしまうと弱い。俺は抜け出して来た身。あまり長くいると探しに来てしまうかもしれない。


そうなれば、十六の男としても、少し恥ずかしいものだ。


仕方がないと俺もベンチから重い腰を上げ、体を屋敷の方へ向ける。


「・・・とりあえず、エイミーには謝んねぇとな」


悪いのは十割俺である。けじめはつけねばなるまい。


もう、彼女の泣いた顔も、見たくはないのだから。


・・・・・・


今年で十八歳になった。


ナデシコという花の存在を認識したあの日が過ぎてから二回目の集まり。


エイミーも俺もそこそこに大人になり、高校生という肩書も終わろうとしていた。


しかし、何度来ようと、嫌いなものは嫌い。


いつも通り、いなきゃいけない場所だけ何とかやり過ごして、終わったとたんに一目散で逃げてきた。


いつものように湖が一番綺麗に見えるベンチに座り、読みかけの小説を部屋に置いてきてしまったことを後悔しながら、その風景を眺めていた。


ネクタイは緩めたはずなのに、妙に首がしまる。


学校の制服とほぼ変わらないスーツが、今日はやけに息苦しかった。


「またここにいたのね」


「・・・エイミー」


後ろからゆっくりと歩いてきた女性の方を見て、俺はその名前を呼んだ。


「去年ぶり」


「えぇ、去年ぶり」


どこか互いに素っ気なく、他人行儀になった言葉に、少しだけ困惑と焦りを感じた。


・・・なぜ?


「挨拶、ちゃんとできなくてごめんなさい」


「いや、いいよ。エイミーも忙しいだろうし。俺が暇すぎるだけさ。俺よりも下の子たちの方が頑張ってる」


俺は所詮、どこまで行っても部外者でしかなく、ここに俺を必要とする場所などない。


となれば、居心地が良くないのも自然で、逃げるのは癖になる。


この自然に囲まれた美しい風景を見ることしか、ここでは許されていなかった。


「逆にエイミーはいいのかよ。抜けてきちゃって」


「いい・・・と思いたいけど、そんなに時間ないかも。あんまり遊んでると、怒られるかな」


「ハハハッ、じゃあ少し休憩したら、早めに戻りな」


「そうするわ」


エイミーは俺の隣に静かに腰を下ろした。


その動作は、俺の覚えてる無邪気で天真爛漫な少女をかき消して映った。


服装は白がメインのドレスのような服。


太陽の光を受けてそのすべてがキラキラと小さく輝いていた。


「・・・雄也は、戻らないの?」


「俺は戻ったって仕方ないしな。母さんにとっても、気を配らなきゃいけないものが増えて、良くないだろうし」


「そっか・・・」


なぜか、彼女は残念そうな表情でそう返事をした。


俺には、理解できない感情だった。


「まだ、お家のことは嫌い?」


突然そんなことを聞かれて困惑する。


しかし、その質問の意図くらいはわかった。


「まあな。ただ、感謝はしてるんだ。父親が死んで、苦しい俺たちを、何だかんだ助けてくれてるから・・・」


無下にするわけにはいかない。だが、それだけだ


家に思い入れなんてない。あるとしたらばあちゃんと、エイミーくらいだ


「そうね。私も、親戚の人たちのああいうところ、好きじゃない」


うつむきながらそんな本音をポツリともらす。


こんな本音も、自分にだけみせているのだと思うと、優越感が生まれた。


我ながら小さい男だ。


「・・・ねえ」


「どうした?」


「前に庭師のお爺さんがくれたお花、覚えてる?」


「あぁ」


あのあと、なんだかやることもなくて、押花にして栞を作った。


なんだか今も手放せず、やがて愛着が湧いてしまい、常に読んでいる本に挟まっているようになっていた。


「それで、あれのことなんだけど・・・」


どこか言いづらそうに目をきょろきょろと動かすエイミーの方を見る。


言葉はあるのに、詰まってでてこない・・・そんな表情だった。


俺も、何か言わなければ


話したいことが、たくさんあったはずだ。


なのに何も出てこない。


「エイミー!!どこだー!!」


屋敷の方から男の声がして、俺とエイミーはビクリと肩を震わせた。


「そ、そろそろいかないと」


「あ、あぁ・・・じゃあ」


慌てて立ち上がった彼女につられるように、俺もベンチから立ち上がった。


「が、頑張って」


「・・・うん」


また、遠くなっていく。彼女の白い背中が


この背中を見るたびに、日に日に彼女の存在が遠くなっていく気がする。


今さら後悔しても遅いと、その情景が囁き続けている。


この景色の意味を、俺はいつかきっと知ることになる。そんな気がしていた。


辺りを見回してみるが、今日は庭師の爺さんはいないらしい。


こんな広大な庭だ。忙しいだろうし、年も年だから今日は来ていないのかもしれない。


仕方がないので湖に背を向けて屋敷の方へ歩く。


鳥の鳴き声と適度に澄んだ青空が眩しい。


「雄也」


「・・・母さん、こんなとこにいていいのかよ」


「お母さんも休憩したい時もあるの。頭痛くなっちゃって、抜けてきたわ」


珍しい。何か母が抜けてもいいような、重要な話題でもあったのだろうか。


「厨房の方がお茶を持たせてくれたの。一緒に休憩しない?」


「まぁ、いいけど」


俺は母と、あまりに話す機会はなかった。


仕事で忙しく、家を空けることが多かった母。こうしてここに来れば、親戚の相手ばかりしてる姿が、俺にとっては見慣れた母の姿だった。


寂しいと思うことは多い。俺も人並みに子供だ。


「あんまり、一緒にいてあげられなくてごめんね」


突然そんなことを言うもんだから、驚いて一瞬、頭の中が真っ白になった。


「どうしたの、突然」


「ほら、雄也とはこうして話す機会って作ってあげられなかったし、ちゃんと伝えられるときに伝えとこうと思って」


十八の子を持つには少し若すぎる笑顔で母はそう言った。


駆け落ちの話には補足がある。


その補足が、俺に多少の嫌悪感を抱かせていたのだ。


母は、子を身ごもるには少し早すぎた。


父と呼ばれる男が、どんな奴だったかは知らない。皆、口をそろえて「悪い人ではない」と言っている。あの親戚たちでもだ。


だが、十七の少女に背負わせるには、少々大きすぎる問題だった。


俺には、もうその時点で父親がどんな人格者だったとしても、好感は持てない。


母も、それはよくわかっていたと思う。


「別に。高校の話も多少だけどちゃんとしたし、母さんが忙しいのは十分わかってるから。ほら、俺ももう社会人だし」


「そう思わせてしまってるのが申し訳ないの」


「そっか。まあ、謝る必要はないと思うけど。母さんは悪くないし」


意外にも、母がこうして俺にこのことを謝ることは少なかった。


おそらく、俺が若干不快になることを知っているからだろう。


俺に申し訳なさそうな顔をする母は、少し嫌いだった。


「紅茶、飲む?」


「あぁ、ありがとう」


受け取った耐熱のプラスチック製コップに注がれた透き通る紅い水を見ながら、その香りを嗅ぐ。


コップのせいか少し熱いが、持てなくはないぐらいだ。


口をつけるといかにも高そうな香りが口の中に広がり、うちにあるようなティーパックのものとの格の違いを見せつけていた。


「やっぱり今でも、お父さんのこと嫌い?」


「まぁ、そこそこかな」


正直に言った。隠すつもりもないし、誤魔化したところですぐにバレるだろう。


「なあ、母さんはなんで、父さんと駆け落ちなんかしたんだ?」


そういえば、ずっと聞いたことなかった。怖くて聞けなかったのかもしれない。


流れと言っては聞こえが悪いが、聞くならばこの場、今しかないと思った。


「二人で幸せになる道なんて、他にもいっぱいあっただろ?どうして、そんな危ない道を」


「なかったの」


「なかった・・・?」


今まで聞いたことないトーンの声とその横顔に俺は聞き返すことしかできない。


「私たちは、逃げる以外に二人で歩める道はなかった。例えどれだけ後ろ指をさされようとも、二人で歩む以外の道は考えられなかった。それ以外は、私の人生の破滅しかなかった」


「それって、どういう」


「私にはね、婚約者がいたの。お父さん以外に」


「は?、ど、どういうこと?」


「家の人たちが勝手に決めた、結婚相手。式の日も、家も、その先の未来も何もかも、あの大広間の机の上で、知らない人たちによって決められた」


俺が最も嫌いな場所。この屋敷の大広間の大机。


勝手に喋って、勝手に決めて、勝手に人の人生を壊していく、そんな場所。


いま、俺の瞳にも、母の瞳にも、同じものが映っていた。


「嫌だった。私は好きだった。高校で出会ったあの人と、誰か知らない人の勝手で離ればなれになんて、なりたくなかったの」


紅茶の水面に波紋が映る。


それは、母の過去と、今の心情を表しているようだ。


「だから、既成事実として、あなたをつくって逃げた。何も考えなかった。彼との幸せだけを考えていたの。最低よね」


遠くを見る。どこかの誰かを思うように


「あなたを身ごもろうと言ったのは私。逃げようと言ったのも、私なの。彼が体がそんなに強くないことも知っていたのに、無理をさせた。私のわがままで彼は死んで、あなたを傷つけ続けた。だから・・・」


俺の方を、その意図の読めない瞳でしっかりと見つめながら


「責められるのは、私なの。お父さんも、家の人も、おばあちゃんも、本当は何も悪くない。恨むべきなのはお母さんなのよ、雄也」


許しを請う、なんて言葉はきっと当てはまらない。


母は、彼女は許しなど望んではいない。


むしろのその逆。恨んで欲しいと、表情すらそう言っていた。


俺はずっと、父が母を連れ出したものだと思っていた。


少なくとも、親戚のやつらはそういう雰囲気でものを話していた。


事情を知っているであろうばあちゃんも、本人である母も、この話はほとんどしなかった。


できなかったのだろうか。


そこまではわからないが、結果的にこういう形になったのは事実だし、母の願いも、その強欲と傲慢による結果も変わらない。


それらを知って、理解して、実の母に恨めと言われてなお、俺は


「母さん。俺はさ、父さんがどんなんだったか知らねぇし、俺を生んだ経緯がどんな風だったかも聞いた話しか分かんねぇ。俺が生まれてからの母さんの動きも、おそらく世間一般的には褒められたもんじゃないんだろう」


母は少し微笑んで目を伏せる。それが当たり前というように


「だがな」


「え?」


「母さんが父さんが倒れてから必死に働いたのも、絶対に頼りたくないであろう実家に、本気で頭下げて頼ったのも、その先でたくさん後ろ指をさされてるのも。全部、俺のためにしてくれてることを、俺は少なからず理解してるつもりだ」


その呆けた顔も、そういえば見たことがなかった気がする。


俺はそんな母に一発ガツンと言ってやることにした。


「だから、ありがとう。ここまで育ててくれて、俺の親でいてくれて、申し訳ないと思ってくれて。感謝こそすれど、恨むなんて選択肢、俺にはない」


普段ならほとんどしない、強気の口調。


実の息子に恨んでくれなんて頓珍漢なことを言うものだから、こんなふうに言うしかなかった。


「・・・バカね。成人式でも、母の日でもないのに」


「バカとは随分な言い草だな。人がこれほど感謝してるのにさ」


「それがよ。まったく」


母は泣いていた。キラキラと涙を流しながら。


初めて見る親の涙に少し焦るが、自然と母に寄り添う。


「あの人が亡くなったときに、雄也の前では絶対に泣かないって誓ったのに」


「中学の卒業式で泣いてたの知ってるけど」


「えっ」


本気でバレてないと思ってたらしい。割と号泣してた覚えがある。


まあ、隠れてるような素振りを見せていたし、本人は隠せてると思ってたようだ。


「・・・その優しさを、母さんじゃなくてエイミーちゃんに向けられたらいいのにね」


その言葉が刺さる。


「見てたのか?」


「ずっとね」


確かに、来た方向を考えれば帰るエイミーとすれ違う形になる。


屋敷に戻る彼女の姿を見て、母は何を思ったのだろう。


その姿も、彼女の表情も見ていない俺に、それを予測する手段はなかった。


「これを言うとね、まったく反省してないように聞こえるかもしれない。いや、本当は後悔も反省もしていないのかもしれないけど」


そう予防線を張って


「誰もが幸せなラブストーリーなんてないのよ。奪って逃げてしまうことも、また手段なの」


・・・・・・


二十歳になった。空は曇っている。


この庭のベンチから曇り空が見えるのは、なんだか珍しい気がしていた。


去年、ここの管理人であったハイドンが亡くなった。


年一でしかここに顔を出さない俺と母は彼が亡くなったことを、葬儀から何から全て終わった後にその話を聞かされた。


思うところがなかったわけではない。だが、連絡網が限られていることを考えれば仕方ないと思う自分もいる。


この歳になれば、自分が置かれている立場、それによる扱いなどにも理解と共感を、つっかえなく示せるようになっていた。


だが、癖となればいくつ歳を重ねようともなかなか治るものではない。


結局このように外に逃げてきていた。


そろそろ来るなと言われるかと思っていたが、祖母が存命のためかそのようなことを言うものはまだいない。


あくまでもまだであるが。


そろそろ来るなと言われるかと思っていたが、祖母が存命のためかそのようなことを言うものはまだいない。


あくまでもまだであるが。


そういえば、最後までハイドンの爺さんにはこの日の答えを聞くことはできなかった。


また彼も、自身の予言が当たった所も見られなかった。


彼の予言と俺の予想が正しければ、俺は今後ろから来ている女性に、この先の運命を告げられる。


「・・・今回も俺のほうが先だったな」


「どうして私だってわかったの?」


「んー、足音」


「ちょっと気持ち悪いかな?」


「待って、酷い」


クスクスと鈴のような笑い声の主のほうを見る。


また少し大人になったエイミーが、俺のほうを見て笑っていた。


「久しぶり雄也。2年ぶりだね」


「そうだな。久しぶり」


そう。俺は去年、この集まりには来れていない。どうしても外せない会社の用事があったからだ。


とりあえず読みかけだった本を閉じて隣を勧める。


それを見て、エイミーはゆっくりと俺の隣に腰を下ろす。


それから、しばらく沈黙が続く。


久々過ぎてなのか、互いに言葉が出てこなかった。


必死に考えた果て、やっと話題になりそうなものを引っ張り出すことに成功する。


「帰化、したんだって?」


「知ってたんだ」


「今日やっと知ったんだよ」


情報が回ってくるのが遅いのはいつものこと。年下連中が話しているのを聞いて初めて知ったのだ。


「そっか・・・ほら、イギリスにもほとんど帰らないし、生活の九割こっちだから。もう国籍取ったほうが早いなってなったの。本家も、そう言ってたし」


嘘だ。彼女の表情ですぐにわかる。


この提案も、理由づけも、手続きも全て、おそらく本家がトントン拍子で進めたのだろう。


相変わらず、人の人生を好き勝手いじるのが大好きなようだ。


「・・・なにか言いたげね」


「そりゃあ、な」


だが、それを言葉にするのは難しい。お前はどうなんだ。本当に帰化したかったのか。などと無神経に聞けるほど、俺の度胸はなかった。


「私も望んで帰化したの。別に本家の人たちに無理やりさせられたわけではないわ」


聞きはしなかったが、顔に出てしまっていたらしい。


反射的に取り繕おうとするが、結果的に疑問に対しての答えが提示されてしまったので何も言えない。


エイミーもなぜか、先がなく黙ってしまった。


話が妙に続かない。


彼女と話すのは、こんなにも難しかっただろうか。


「雄也」


「な、なに?」


突然話しかけられ肩が跳ねる。


いつもなら笑ってくれるはずの彼女が笑ってくれない。


それだけで俺は、強い違和感と恐怖を覚える。


彼女と話したいはずなのに、これ以上、彼女の言葉を聞きたくなかった。


「私ね・・・婚約者ができたの」


「・・・は?」


きっと、撲殺された被害者はこんな景色を見たのだろう。


目は開いているはずなのに、目の前が白か黒かもわからない空間に投げ出される。


耳鳴りのように世界の音が消え、形を保てなくなった。


「二年前の会議で相手が決まって、去年会ってきた。5つ上の人でとても良い人そうな男の人だったわ」


やけに明るい口調で喋る言葉は、俺の中に入っているようで、入っていないかのように下へ下へ流れていく。


「私、男の人と付き合ったこととかなくて、デートっていうのも初めて行ったの。美味しいお店に連れてってくれたわ」


どうしよう、なんだ。この胸の奥から湧き上がる溶鉄のような・・・


吐きそうだ。動揺している。


冷静になれ、冷静に冷静に冷静に冷静に冷静に


「全部、あなたが悪いのよ。雄也」


ボソリと、まるで違う人間が喋ったような声で、俺を責める言葉が呟かれた


目を見開き前を見る。


潤んだ瞳、人間らしい顔、歪んだ顔。


彼女は悲しんで、怒りに満ちていた。


そんな顔、させたくなかったはずなのに


「好きだった。好きだったのに、私はあなたを待っていたかったのに」


それは、そんなの


「・・・身勝手だ」


エイミーが息を呑むのがわかる。


やっと絞りでた言葉は、彼女を責め返すものだった。


「察してくれなんて、俺はエスパーじゃねぇんだから、そんな無茶なこと、俺なんかに勝手に望むなよ。勝手に期待して、失望して、身勝手すぎるだろ」


やめろ、やめてくれ


ほんとはこんなこと言いたいんじゃない。責めるつもりなんてない


俺は、彼女を、もっと早く


全部俺が悪いはずなのに


「・・・私は」


泣きそうな・・・いや、もう泣いている声。彼女は俺に最後の言葉を告げようとしている。


直感だった。経験と言ってもいいかもしれない


今にでも、俺も泣いて、泣き叫んで、彼女に縋りつくべきだろうか。


そう思う自分がいることすら許せない


もう頭の中はグチャグチャだった。


「あの人と、結婚します。今決めました」


「・・・いま?」


「サヨナラ」


彼女は足を進めた。


歩いているはずなのに、走るよりも遥かに早く、俺の前から姿を消していくように感じる。


気配がなくなって、静かになって、風の音だけがした


息苦しくて、上着を脱いでネクタイを外す。


もう戻らないし、丁度いいだろう。


胸のあたりがずっと傷んでいる。


彼女と喧嘩して、こうやってここで別れたのは初めてじゃない。


なんども、なんども、彼女が怒って、泣いて、屋敷に戻るたび俺は、ばあちゃんのへどう謝ればいいかを相談していた。


自然と空を仰ぐ。自分でも自覚はなかったが、涙を堪えるような図になっていた。


ふと、見て見ぬフリをしていたナデシコの花言葉を思い出す。


純粋、無邪気、純愛・・・


ハイドンは、この日にこれらが俺からも彼女からも盗まれることを知っていた。


まあ、予想したというのが正しいのだろが。


互いに無邪気さ故に、互いに美しさだけを求め、泥臭さを知らず・・・いや、意図的に見なかったのだろうが


結果的に、互いの現実を目の当たりにして、文字通り盗みあった。


愛も、感情も、未来も、夢も、なにもかも


だが、互いにそれを見失って、手元にないから不安で、それを相手のせいにする。


ただただ、愚かだった。


「不思議ですね」


落ち着いた声音に俺は身体を震わせる。


久々に聞いた声。懐かしさとともに、何故か恐怖が浮かぶ


「ばあちゃん、こんなとこ来て大丈夫なの?」


目元を袖で軽く拭い、俺は後ろを振り返らずに聞いた。


「もう、この家に私はいりませんよ」


サラリととんでもないことを口走る。


少しだけ困惑するが、言ってる意味が理解できれば納得することも簡単だった。


「雄也さんは、どうしてここへ?」


あえて、分かりきった質問をしているのはわかった。だが、その意図を俺に読むことはできない。


「ばあちゃんの言葉を借りるなら、俺もこの家にいらないからかな」


いる理由がなくなった。ついさっき


彼女の、エイミーの隣にいるために、俺は嫌々ながらもこの家に毎年来ていた。


嫌なら来ないことだってできた。だが、それでも俺が母に連れて行ってくれと願ったのは彼女がいたからだった。


急に素直になった思考に少しだけ驚く。


今までどれほど、この事実を認めなかったかがよくわかったような気がした。


「・・・少し、歩きませんか?」


小さな提案に、俺は数秒考えて無言で立ち上がる。


後ろを振り返ると、記憶より随分弱々しい雰囲気になった、美しい老婆の姿がある。


おそらく三、四年は見ていなかったが、あっという間にこうも年老いてしまうのかと思ってしまう。


だがその姿にもどこか凛とした風格というか、立ち姿は色褪せず残っているところを見ると、彼女の強さを感じさせられた。


「どこまで行く?」


「あの人の、ところまで」


あの人、というと、ばあちゃんの夫。つまり祖父のところだろうか。


祖父は俺が五歳の頃に他界した。交通事故だったらしい。


よって、長い間、と言っても十五年間はばあちゃんがこの家の指揮を当主代理としてとっていた。


まあ、ここ最近は下の連中が好き勝手やってるみたいだが。


その好き勝手の火種が、たくさんの人に飛んでいるのは言うまでもない。


母も、そしておそらくエイミーも、その一人だ。


レンガなどで綺麗に整備された道をばあちゃんと一緒に歩く。


「そういえば」


ゆっくりとした口調で口を開く。


「私のことをばあちゃん、と呼んでくれたのは、孫の中で雄也さんだけでしたね」


「そうだったっけ?」


そう口にしながらふと思い出す。この人の孫、つまり俺のいとこは沢山いる。俺やエイミーも入れて十人くらい。


皆、ばあちゃんのことをお祖母さまとか、雪子さまと呼んでいたのを思い出す。


ばあちゃんと、一般の家庭のように呼ぶのは、俺だけだったような気がする。


そういえば、気にしたことがなかったかもしれない。何も言われなかったからだろうか。


おそらくは言われていたのだろうが、覚えていないか、俺の耳に入らない場所で終わったのだろう。


そういう意味では、おそらく母に迷惑をかけていただろう。


「私に敬語を使わない方も、少ないですからね」


「そっか」


改めて考えると、すごいことしてたのかもしれない。


周りの空気や円卓の中心で凛と座っているばあちゃんの姿を思うと、本当に失礼なことをしていたのではと思ってしまう。


「だからでしょうか、貴方が特別可愛かったんです」


「え、そうなの?」


心から出た言葉だった。あまり思い当たる節がない。


贔屓、という言葉があまりに似合わないばあちゃんに俺は必死に心当たりを探す。


「貴方はなぜか、いつまでたっても無邪気な少年でしたからね。私が貴方を孫として可愛がることに一切疑いも違和感もなかった」


声のトーンは落ち着いているが、いつもよりどこか明るさを帯びている。


「数少ない、当主代理ではなく、雪子として。一人の人間として接することのできる人の一人でしたから」


そんなふうに思ってくれていたのか。


だから、幼い俺も、他の大人と違い拒絶も迷惑そうにもしていなかったから、何一つ気づくことなく、無邪気に関われたのだろうか。


良くも悪くも頭が足りない子だったのだなと、少し自虐的な感想が頭の中に滲む。


でも、それによって、確かに数少ない楽しい思い出を作ったのは事実だ。ばあちゃんと話す時間に苦痛はなかった。


無邪気だったかどうかと聞かれれば正直あまり自信はないが、それでも、そう見えていたことはばあちゃんにとって良いことであったのだろうと、少しだけ救いになった。


「着きましたよ」


考えていて遠くを見ていたからか、目的地に着いたのに気づかなかった。


ハッとして止まり、辺りを見回す。


「・・・あれ?」


ばあちゃんがあの人というものだから、てっきり旦那さん、つまりじいちゃんの墓参りに行くものだと思っていたが、ここは


「この人は、私にとって本当に大切な人だったんですよ」


墓石には大きく『ハイドン・スーウェン』と彫られている。


「ハイドンの爺さんが、大切な人?」


ばあちゃんは静かに頷く。


それを見て、俺はますます首を傾げる。


俺は、ばあちゃんと爺さんが面識があるなんてほとんど聞いたことがない。


話しているのを見たこともなければ、互いの口から互いの名前が出ることもなかった。


だからこそ、繋がらない。


「私ね、本当は昔から、このお家が大嫌いだったんです」


そういう口調はどこか幼く、少女のような印象を受ける。


俺はその話を黙って聞くことにした。


「生まれたときから人生の九割を決められて、自由に恋することもできない。知りたいことも知れないし、やりたいことも制限されて、就きたい職にだってつけないもの」


それは、きっとこの家の人のほとんどが同じで、その中で少しずつ歪んで、あの円卓の汚い人間が出来上がっていくのだろう。


そう思えば、彼らも被害者だ。


「私もそうだった。決められた学校に行って、決められたことを学んで、決められた職について、決められた人と結婚をして、その職を辞する・・・それが使命だと思ってた。価値だと思ってたんです」


雲が開き、日が強くなる。


ばあちゃんは手に持っていた黒い日傘を静かにさした。


「そんなときに彼と、ハイドンと出会ったんです。彼は留学中の学生でした。とても人当たりの良い性格で誰にでも愛される彼は、周りから怖がられる私とも簡単に仲良くなって、いつしか心を許せる人になっていたんです」


確かに、あの爺さんはやけに人の心を開くのが上手い節があった。


俺がまだここの大人に疑心暗鬼だった幼い頃、爺さんは簡単に俺の悩みや思いまでスルスルと入ってきていた。


それでも相手をほとんど不快にさせないのは、まさに彼の天性の才能だと言えるだろう。


「まだ恋の仕方も知らぬ不自由で不器用な少女には、彼は魅力的過ぎました」


その細い指で、墓石をそっと撫でる。


「私は家に内緒で彼に恋をします。彼は私の事情なんか知らないものだから、私のことを普通に愛してくれました。ですが、私の初恋も長くは続きません」


少し息を置き、そこ傘を百八十度くらい回す。


「・・・私に、家が決めた婚約者ができたんです」


俺は空気が揺れるくらい動揺し、周りに聞こえるであろう形で息を吞んだ。


彼女の、エイミーの歪んだ顔がちらつく。墓の方を向いていて顔は見えないが、ばあちゃんももしかしたら同じような顔をしているのだろうか。


そしてその視線は、いったい誰に向けられていたのだろう。


「どうしたらいいかわからなくなった私は彼にありのままを伝えたんです。そうして彼が出した結論が・・・一緒に母国まで逃げようというものでした」


爺さんが、そんなことを言うタイプには思えなかった。ばあちゃんも、了承するようには見えない。


彼も彼なりに必死に悩んだのだろうか。互いの為になる何かを


「それで、どうしたの?」


思わず、先を急かしてしまう。まるで小さな子どものようだ。


「私には決められなかった。これまで私のすべてだった家を裏切ることはできなかったんです」


ではなぜ、ハイドンは何十年もここにいたのだろう。


その疑問に答えるように、ばあちゃんは続ける。


「幸い、私の結婚相手は理解がある人でした。本当に恵まれていたと思います。彼はここの庭師として、私とこの家に、一生を捧げることになり、旦那も、あなたのお祖父さんもそれを了承しました」


愛する人と結ばれることはできないが、雇い主と使用人という形で一生を過ごす。彼らはそんな結末を選んだわけだ。


「旦那を早くに亡くし、彼との再婚も考えましましたが、周りの目もあり、息子たちへの申し訳無さもあって、結局、私たちが最後まで夫婦として隣に立つことはありませんでした」


そう言ってばあちゃんはこちらを向いた。


「貴方の母、茉優の支援をしたのは他でもない、私です」


突然だったもので、何も返せない。


「私はあの子に、自分がなし得なかった自由を押し付けました」


その顔はほんの少しだけ後悔に滲む。


「そしてその息子、孫である貴方にまで、同じ理想を押し付けます。他でもないあの人の最後の頼みだから・・・」


あの人の、最後の頼み・・・?


あの爺さん、まさかこうなることを予想して?


「『花はもう、知らぬ男に盗まれた』」


「え?」


「あの人が伝えてほしいと。『人は花なぞなくても生きていけるが、その美しさを知れば、一輪は持って置かなければ、もう一人ではいきていけない』だから」


ばあちゃん、いや、花を盗もうとして、それを盗みきれなかった泥棒たちの願い。


「盗め。そして、どうか遠く幸せに』


・・・・・・


俺は走り出していた。ばあちゃんにお礼の一言も言う暇はなかった。


愚か者に、そのような時間は一秒たりとも残されていない。


すべては終わってからでいい。


スーツのジャケットを強く握ったまま。ネクタイも緩んで、シャツもシワがついている。


整えることなど考えてはいなかった。


最後の言葉はどちらのものだったのだろうか。


きっと、二人の言葉であり、成し得なかった悲願であるのだろう。


俺は人生で初めて、この庭から出ようと思った。


箱庭のように閉じたこの庭で、俺は見たくないものを遮断していた。


見たいものだけを見て、入れたい言葉だけ入れていた。


自分の花を、いつの間にか彼女が持っていたことにも目を逸して。


それを許してもらえることに胡座をかいていた。


建物に入る。妙な暗い赤色が視界いっぱいに広がる。


迷わず走り、階段を上る。


すれ違う親戚たちは俺を様々な目で見た。


「エイミー!!!」


恥も忘れて、部屋の前で大声で叫んだ。


俺は今、どんな顔をしているのだろう。


「やっとわかった。俺が本当に欲しかったもの。もう持ってるのに、盗んだっていう事実が怖くて、目を背けてた」


だが、花は摘んだだけでは、ただ時間で枯れる。


それを、俺もエイミーも、きっとどこかで忘れていた。


「最低なのもわかってる。傷つけるのも覚悟の上だ。それでも、俺はお前の全部がほしい!!お前が一番近くにいる未来がほしい!!」


そこまで言うと、ガチャリと扉が開く。


中から目の周りを真っ赤にして、化粧も少し歪んだ顔のエイミーが出てきた。


「・・・わかってるの?泥棒は罪なんだよ」


ぽつぽつと呟くように問う。


この罪という言葉にどれほどの責任と苦悩が詰まっているか、想像するだけで汗が滲む。


それでも


「俺は、どんなものを捧げてでもお前が欲しい。それがたとえ、略奪者の烙印だとしても」


瞬間。顔面の左側に首が持っていかれるほどの衝撃と鋭い痛み。


周りからは小さな悲鳴や息を呑む音。


グーで殴られたとわかったのは多分3秒後くらいだった。


「い、いってぇ!?何しやがる!!」


「今までの分はこれで許してあげる」


そう言ってエイミーは俺の首に手をまわし、体を引き寄せて、大胆にも唇を奪った。


口の中がさっきの打撃で切れたせいで、血の味が口いっぱいに広がっている。


きっとエイミーにも、それは共有されていただろう。


ほんの少しだけ体を強張らせたが、用事を済ませたとばかりに少し満足げな顔で笑い、スッと離れた。


「血の味がしたわ」


「あなたのせいですけど!?」


愛憎溢れる断罪をいただき、ある意味俺の精神は疲弊していた。


「何をしてるんだ!!」


遠くから騒ぎを聞きつけた家のおじさんたちが走ってくる。


「どうする?」


エイミーの声にほんの少しだけ考える。


「・・・荷物は後で取りに来よう。今は全力で逃げてみようぜ」


ほぼ年1の遊びで繋がっていた俺たちには、ちょうどいいスタートだと思った。


このまま手ぶらで逃げるのは現実的ではない。どうせ戻らなければならないなら、多少遊んでもバチは当たらないだろう。


それに、今は彼女と少しでも一緒にいたかった。


「鬼ごっこなんていつぶりかしら」


俺は楽しげなエイミーの手を引いて走り始める。


「捕まったらなんて言い訳する?」


「久々に遊びたくなったって言っておけば?」


「じゃあそれで」


そんな会話をしながら家を走り抜けていく。


やがてそれは庭の花々を抜け、いつもの湖畔へたどり着く。


「・・・エイミー」


止まって、まだ少し上がった息に混ぜて彼女を呼ぶ。


返事はないが聞いているのはわかったので俺は口を動かす。


「俺と一緒に、生きてくれませんか」


まだ、返事を聞いてなかった。


これはしっかりと、彼女に答えてほしかった。


なんせ、俺たちは母と同じように後ろ指をさされても仕方がないほどすべてを投げ捨てて恋人になるしかないのだから。


「雄也、ナデシコの花言葉って知ってる?」


返ってきたのは答えではなく、問い。


俺は少し困惑しながら答える。


「純粋、無邪気・・・純愛」


「ハイドンお爺様が私にこの花を渡した理由。実はあのときに調べて、おぼろげながらわかってたの」


そっとポケットから取り出したのは、俺と同じように栞にされたナデシコの花。


「でも、なんだか恥ずかしくて、どこかで雄也に期待と希望を押しつけて、待つことを選んじゃった」


「ごめん、この花の意味をちゃんと理解できたの、今日なんだわ」


「そんなことだろうと思った。でも、私もお父様から結婚の話を受けてて、焦ってた。それにこのことに雄也が気づいたらきっと助けてくれるかもって思ってた。身勝手・・・雄也の言うとおりだわ」


どうだろう。もっと早く、それこそ二年前、おそらく彼女の婚約者が決まったその日に俺が知ったとして、俺になにかできたのだろうか。


今の俺のように手を引いて逃げる勇気があっただろうか。


「お母様がよく言ってたの。恋は花と同じだって。大切に育てれば実も種もつけるけど、少しでも邪険に扱えば簡単に駄目になっちゃうって」


そこでやっと、エイミーは俺の方を振り返った。


「私の花はずっとあなたが持ってた。ちょっと乱暴だけど、大切に持っていてくれてた。私の花は、とっくにあなたに盗まれていたの」


・・・そっか、もう、欲しいものは掴んでたんだな


それを自信がなくて、あれだけたくさんの人からヒントを貰いながらも気づけなかった。


我ながら恥ずかしいほど情けない。


「返事、まだ聞いてない」


なんだか恥ずかしくて、話をそらしたくて、俺は貰ってない答えを催促した。


それもまた、俺の情けなさを加速させているような気もするが、それを冷静に考える頭は今の俺にはなかった。


「あれだけ色々やったのに、まだ言わせる気?」


確かに、唇まで奪われたし、それっぽいことも恥ずかしくなるほど聞いた。だか、まだ明確に、どうして欲しいか、どうしたらいいか聞いてない。


答えてないのだ。


「俺と一緒に来てくれ。ずっと隣にいてくれ」


そう言って手を出す。


彼女は少し考えてそっと俺の手に、その手を重ねた。


「・・・よろこんで。どこまでも連れて行って。花泥棒さん」


花泥棒。花泥棒か


彼女が俺をそう呼んだのに、妙にしっくりきた。


さて、どこまで逃げてやろう。


誰よりも幸せになってやろう。


もう誰にも、けして渡さない。


そう思いながら、その手を握る。


湖畔の庭には風が走り、多くの花びらを盗んでいった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ