009 花房雫、ストーカーに悩まされる。その4
「お兄さま! 雫ちゃんにごきょうだいはいません……!」
妹の言葉に、蒼衣は表情を凍り付かせた。
男は聞き取れない低い声でなにやらぼそぼそと喋っていたが、声音がだんだんと大きくなり意味を結んでいく。
「雫……僕だけの雫なのに……なんで僕に応えてくれないんだ……君を一番愛しているのはこの僕なのに……君になら殺されてもいいほど愛しているのに……どうして僕の愛情を分かってくれないんだ……雫を殺して死ぬしかないのか……」
男は震える両手で自分の首を絞めていく。紅緒と蒼衣はあまりに異様な光景に怯え、後ずさる。
すると、男の紫色に変色した唇から、黒い液体が顎を伝った。
「ひっ……」
紅緒が兄の陰で体を竦める。男の顎先から黒い雫が垂れ、男の足元に吸い込まれていく。男の足元にあるのは、ただの影ではなかった。それは、漆黒の水溜まりだった。
黒々とした水溜まりを、ぼちゃんと跳ねる影がある。
――魚?
紅緒が目を凝らすと、男の足をよじ登る怪異の姿があった。
姿形は両生類のようで、体表は薄い鱗と粘液に覆われており、長い尾と這いつくばる四つ足を持っている。胴は長くイモリに似て、頭は蛇に瓜二つで、額から長くうねる二本の角を生やしていた。
怪異は素早く男の足を這い上がると、男の首もとに貼り付き、ぱかりと大きく口を開けた。黒くぬめる口内から、黒い霧が吐き出される。男はそれを吸い込むと、白目を剥いて口から泡を吹いた。
「おっ、お兄さま……!」
紅緒が震える声で助けを求めると、蒼衣が厳しい顔で呟いた。
「蛟……」
「なんですか、それは」
「あの妖魔の名だよ。水に棲んで毒を吐き、人間を水辺に引きずり込む」
「それは……この人が、雫ちゃんに呪いをかけているということですか?」
蒼衣が困惑したように眉根を寄せる。
「いや……というより、この男が霊力を吸われている感じだ。生命力が削られている。祓ってあげないと……」
「白菊に食べさせることができるでしょうか」
「分からない……。妖魔なんだろうが、でも邪気はあまり感じないんだよな……」
紅緒は迷いつつも、白菊を呼び出した。男が今にも倒れそうだったからだ。
「白菊、あの妖魔を食べてくれる?」
妖狐は紅緒の言葉に目を細め、すっと男に飛び掛かった。男の首もとに貼り付いた蛟を口に咥え、飲み込む。その瞬間、白菊はぎゃっと悲鳴を上げた。
「白菊!」
紅緒が慌てて駆け寄ると、白菊は地面にうずくまり、飲み込んだ妖魔を吐き出した。アスファルトに打ち捨てられた蛟はびちびちと跳ね、やがてくったりと黒く溶けていく。
白菊はしばらく苦しげに咳き込んでいたが、ようやく気分が治ったのかぶるりと全身を震わせ、一目散に紅緒の中へと戻っていった。
ひとまず安心していると、ぼうっと突っ立っていた男の体がぐらりと揺れた。地面へと倒れ込む男を蒼衣がなんとか支え、建物の壁にもたれかけた。
「この方は、もう大丈夫なのでしょうか……?」
「蛟を祓ったから、しばらくは平気だろうけど……。だけど、この男も大して霊力が高いわけじゃないのに、どこで憑かれたんだか……」
紅緒は眠りこける男を見下ろし、大通りの方へと視線を向けた。交差点には既に雫の姿はなく、途方に暮れた二人はその場を後にし、帰路についた。
*
家に着くと、ぐったりとした疲労が全身を襲い、紅緒と蒼衣は玄関の上り口に座り込むと、そのまま廊下へと倒れた。
「なんなのでしょう、ただの妖魔と戦うよりも、ぐっと疲れた気がしますわ……」
「てか、めちゃくちゃ気持ち悪かったしな……」
乾いた笑いを漏らす兄妹を見下ろす人影があった。
「なんじゃ、若いくせにこんな所で寝おって、だらしない」
紫苑が怪訝な顔で見下ろすのに気付き、紅緒は慌てて飛び起きた。
「お爺さま! すみません、行儀が悪くて……」
恥じらう紅緒をよそに、蒼衣は「げ、じじい」と顔をしかめただけだった。
紅緒は紫苑の知恵を借りようと、雫にかかわる怪異について説明する。
「……あの男性も誰かに呪いを掛けられていたということなんでしょうか」
首をかしげた紅緒の言葉に、紫苑はふむ、と腕を組んだ。
「それは、生霊だろう」
「生霊、ですか」
紫苑が紅緒に頷く。
「そうだ。人の思念が妖魔の形を取って、他者に取り憑き害するのだ」
「それでは、ストーカーさんは一体誰に……」
考え込んだ紅緒に、祖父はちらりと視線を投げ、細い息を吐いた。
「その男を恨んでいる者など、決まっておるだろう。お前の友人だよ」
思わず紅緒は瞠目した。
「え……雫ちゃんが、ですか……?」
固まった紅緒の横で、蒼衣が盛大な溜め息をもらし、体を起こすと紅緒に向き合った。
「明日、兄ちゃんと一緒に、雫ちゃんと話をしに行こう」
「……はい……」
胸騒ぎがした。自分が見ていたのは、雫のほんの一部だったのではないかという恐れが胸を締め付ける。明日、隠された親友の心の奥を暴かなければいけない。祈るように両手を抱え込んだ紅緒の背を、兄の温かい手が優しく撫でた。