007 花房雫、ストーカーに悩まされる。その2
「最近、人から恨みを買ったこと……?」
朝の教室で、紅緒が雫の席まで行き問うと、雫は薄い唇に指先を当てわずかに目を見開いた。
「あ……」
「何か、心当たりがあるのですか?」
身を乗り出した紅緒を席から見上げ、雫は困ったようにぎこちなく微笑む。
「うん、呪われているのかは分からないけど、最近、元彼に付き纏われているみたいなんだよね」
「元彼さん、ですか……」
清廉な雫から飛び出した意外な言葉に、紅緒は少々面くらいながら答える。
「そう言えば、雫ちゃんとはあまり恋愛の話をしたことありませんでしたね」
「うん……ちょっと、恥ずかしい話だから、学校の外で話してもいい?」
学校終わりに、紅緒と雫は帰り道にあるファミレスへと足を運んだ。シート席に向かい合わせに腰掛け、ドリンクバーの飲み物を用意した二人は、肝心の話題を切り出した。
メロンソーダのストローを掻き混ぜながら、ぽつりぽつりと雫は語る。
「半年前に別れた恋人がね、ストーカーみたいになっちゃて」
「ストーカー……」
「うん。メールも電話もラインも全部ブロックしてたら、家の郵便受けに消印のない手紙が入れられるようになっちゃって」
雫は鞄の中から自分のスマートフォンを取り出し、カメラロールを呼び出し、紅緒に見せた。そこには、コピー用紙に印刷された明朝体の文字が写っていた。
その文章を読み、思わず紅緒は顔をしかめた。
『雫のことを理解できるのは僕だけだ。僕と別れたら雫は不幸になる』
画面をスクロールすると、同じような文面の手紙がいくつも並んでいた。
『僕は雫のためなら全てを差し出すことができる。僕の愛情を受け入れてほしい』
『僕は雫になら、殺されてもいい。二人で死んで、永遠の愛を手に入れよう』
瞼を閉じて溜め息をつき、紅緒は端末を雫に返す。
「これは、なんというか、心を病んでいる……という感じですね」
鞄に携帯をしまいながら、雫は言う。
「うん、私もなんだか怖くて。そのうち、手紙だけじゃなくて、タッパーに入った手作りの食事とか、ぬいぐるみとか、指輪とかが投函されるようになって、外でも誰かにつけられてる感じがして……」
えっ、と紅緒は肩を震わせ、自分のグラスに注いでいたアセロラジュースをテーブルに零した。
「ご、ごめんなさい……」
「紅緒ちゃん、大丈夫? 私、ティッシュ持ってるよ」
「いえ、わたくしも持っていますので、お気になさらないでください……」
紅緒は慌ててテーブルを拭くと、シートの上で居住まいを正し雫に向き合った。
「雫ちゃん、怖かったですよね。ごめんなさい、わたくし、何も気づいてあげられなくて」
何も知らなかった自分が情けなくて、紅緒はかたく両手を結んだ。
「雫ちゃん、今は一人暮らしされてるのでしたよね? すごく不安だったでしょう……」
もしよければ、しばらくわたくしの家に、と言いかけた紅緒を遮り、何てことのないように雫は言う。
「ううん、それは平気。気味が悪かったから、今は男の家に泊めてもらってるの」
「あ、新しい彼氏さんがおられるんですね……」
品行方正なイメージしかなかった雫から飛び出した、『男』という直截的なワードに紅緒が戸惑っていると、雫がさらなる爆弾を落とした。
「彼氏ってわけじゃないんだけど、泊めてくれる男が何人かいて」
驚きのあまり紅緒はテーブルに腕をぶつけたが、かさの減ったアセロラジュースは表面を波立たせるだけで、零れることはなかった。ひきつった顔で紅緒は問い掛ける。
「えっと、お付き合いされているわけではないのですか?」
雫は足を組み、ストローでメロンソーダをわずかに吸い上げた。
「うん、別に好きなわけじゃないし、向こうも私のことが好きなわけじゃないと思う。お互い、都合がいいだけで」
ボブヘアーの毛先をもてあそびながら言ってのける雫に、紅緒は呆気に取られた。自分は、この友人の何を知っていたのだろうという怯えが墨汁のように滲んでいく。
「それは……あまりよろしくない関係なのではないでしょうか……」
もごもごと言い、けれど紅緒は話の本題がそこにはないことを思い出す。
「あの、ストーカーさんがいなくなったら、雫ちゃんも自分の家に帰れるんですよね?」
「うん、そうだね」
「じゃあ、わたくしに協力させてください」
意気込んだ紅緒の言葉に、雫はおっとりと首をかしげる。
「えー、いいよ。本当にやばいと思ったら、警察に行くし」
紅緒はテーブルに身を乗り出し、雫の手を両手でつかんだ。
「お願いします。わたくしたち、友達じゃないですか」
水滴のついたグラスを握っていた雫の手は、冷たく湿っていた。
真剣な紅緒の表情を見つめ、雫はふふ、と微笑んだ。
「うん……じゃあお願いしようかな。ありがとね、紅緒ちゃん」
「いえ、まかせてください、雫ちゃん!」
胸を張った紅緒に笑顔で応え、雫は自分のグラスへと視線をおとした。汗をかいたグラスの中、溶けた氷が鮮やかな緑色に透けた液体に溺れ、からんと小さな音を立てた。