006 花房雫、ストーカーに悩まされる。その1
本質的な孤独に対して、友情にできることは何があるのだろう。
高校の放課後、玄関で靴を履き替えながら、ふと友人の方を見た紅緒は、ぎょっと目を丸くした。
「雫ちゃん、痛そうです」
声をかけられた花房雫は「え?」と首をかしげた。紅緒は雫の右腕を取り、セーラー服の袖で隠れた手首を空気に晒した。
雫の日焼けのない細い手首、その内側に赤黒く変色した痣があった。
「あれ、こんなのいつの間にできたんだろう」
「どこかにぶつけてしまったのでしょうか」
痛ましげに雫の痣を見つめていた紅緒は、ふと眉を顰めた。
一瞬、雫の痣が脈打った気がしたのだ。
紅緒は訝しみ、痣へと指先を伸ばした。肌が触れ合った瞬間、静電気のような衝撃が走る。
「痛っ!」
雫が顔を歪めて腕を引っ込めたことで、紅緒はようやく正気に戻った。
「ごめんなさい、雫ちゃん。不用意に触ってしまって……」
「ううん、紅緒ちゃんは心配してくれたんだよね、ありがとう。気を付けなきゃなあ」
笑いながら雫は言い、内履きからローファーへと靴を履き替える。屈んだ友人の細い肩を見下ろしながら、紅緒は薄暗い不安が胸の中に広がっていくのを押さえられなかった。
*
家に帰ると、大学帰りの兄が台所で牛乳を飲んでいるところだった。
「あ、おかえり、紅緒」
「ただいま戻りました、お兄さま」
紅緒が逡巡していると、グラスを片手に蒼衣が牛乳パックを持ち上げた。
「紅緒も飲むか?」
「いえ、ありがとうございます……」
苦笑しながら視線を伏せ、しかし紅緒は再び顔をあげ蒼衣に向き合った。
「あの、わたくし、お兄さまに相談したいことがございます」
「ん? おう、いいぞ」
蒼衣の部屋に場所を移し、紅緒は座布団の上に腰を下ろすと、クッションを胸に抱えた。ローテーブルを挟んで胡坐をかいた蒼衣は、黙りこんだ妹に水を向ける。
「それで、相談ってなんだ? 学校のことか? 勉強のことなら、兄ちゃんあんまり自信ないけど……」
紅緒はクッションを押し潰すように抱き込むと、遠慮がちに口を開いた。
「実は、わたくしのお友達の雫ちゃんのことなんですけれど……」
放課後の雫とのやり取り、雫の痣が気になることを紅緒はかいつまんで説明する。
「というわけで、もし妖魔の仕業だったら……と懸念しておりまして」
紅緒の話を聞き、蒼衣は眉根を寄せ顎もとに手を当てた。
「うーん、痣か……」
険しい顔で考え込んだ蒼衣は、「その友達は、霊力が高いのか?」と尋ねる。
「いえ、そんな感じはしないのですけれど……」
「じゃあ、妖魔の仕業とは考えづらいな」
そうですか、と安堵の表情をみせた紅緒に、しかし蒼衣はかたい声で続ける。
「だけどもしかしたら、呪いの一種かもしれないな」
「呪い……ですか?」
蒼衣はローテーブルの上で両手を組み、小さな溜め息を一つ落とす。
「人の強い思念は、他者に影響を及ぼすことがあるんだよ」
「お兄さまの言霊のようにですか」
「ああ、俺の『声』は特に強いけど、特別な声がなくたって、強い思い……それこそ恨みや憎しみなんかは、他者を蝕んでしまうことがあるんだ」
紅緒は生唾を飲みこみ、雫の毒々しい痣を思い出した。紅緒にはあれが普通の傷だとは思えなかった。
「その雫ちゃんって子は、最近ひとの恨みを買うようなことはなかったのか?」
兄の言葉に、紅緒は首をひねる。
「雫ちゃんは穏やかで優しい子ですので、ないとは思いますが……」
「まあ、本人に落ち度はなくても、一方的に勘違いして難癖をつける奴もいるからな」
「……一応、明日学校で雫ちゃんに聞いてみますわ」
顔を青くした妹の頭を、蒼衣はテーブルに乗り出しくしゃくしゃと撫でた。
「わっ、お兄さま、どうなさったんですの……」
「だってなあ、紅緒から友達の話を聞くなんて、初めてのことじゃないか」
紅緒は思わず目をまたたいた。周囲の人間に敬遠されてきた紅緒にとって、雫は初めてできた親友だった。満面の笑みで蒼衣は言う。
「兄ちゃん、うれしいぞ。紅緒に仲のいい友達ができて、しかも紅緒が友達のために頑張ってるなんてなあ」
「お兄さま、恥ずかしいですわ……」
紅緒は照れ隠しに指先で頬にふれ、化粧をくずさないように慌てて手を離した。それでも熱くなった頬を隠すために兄から顔を背ければ、兄の笑い声が大きくなるものだから、余計に頬を膨らませた。