004 糸原紅緒、退魔師になる。その4
白菊と紅緒の出会いは、五年前のことだった。
真夜中、ふと目覚めた紅緒は水を飲むために台所へと向かっていた。縁側に面した廊下を歩いていると、中庭の方から甲高い獣の声が聞こえてきた。紅緒がスリッパで中庭に降り立つと、そこには着流し姿の祖父の姿があった。
――お爺さま。
紅緒は声をかけようとして、息を詰めた。月明かりの下、紫苑の双眸は緋色に輝いていた。
――妖魔。
紫苑の足元には、大きな獣が蹲っている。長毛の毛並みは漆黒。瞳は祖父と揃いの深紅。口元から覗く鋭い牙。それは、黒い虎のようだった。しかし、その獣は毛に覆われた長い二本の尾を悠然と揺らしていた。
「猫又……?」
紅緒に気付いた獣が唸り声をあげる。しかし、それに構わず紫苑はいつも通りの表情で紅緒を見た。
「紅緒、起きたのか」
「ええ、お爺さま」
生唾を飲み込み、紅緒は獣のまえへと歩み寄った。
「……猫又、ですよね」
「ああ、儂の式鬼、『悪食』だ」
紅緒に見つめられ、悪食は牙を剥き、低い唸り声を響かせる。威嚇を続ける獣の頭を、紫苑は皺にまみれた手で撫でた。悪食が口をつぐむと、宵闇の静寂にか細い鳴き声が浮かびあがる。
それは、悪食の前足に踏み潰されていた。
子犬のような小さな体躯。黒い体に、花に似た白い模様が散っている。小さな体に似つかぬ、豊かな白い尾。それは妖狐の幼獣だった。
躊躇いがちに、祖父に問い掛ける。
「……殺してしまうのですか」
表情も変えず、紫苑は言う。
「そうだ。屋敷の結界を通り抜けてきよった。危険だ」
逡巡し、けれど紅緒は小声で申し立てた。
「かわいそうです」
鋭い眼光が紅緒を射抜いた。嘲るように、紫苑は笑う。
「慈悲深いことよの。だが紅緒、この妖狐は今でこそ幼獣だが、成獣になれば霊力を奪うためにお前を襲うぞ」
紅緒は唇をひき結んだ。家族の犠牲の上に守られてきたこの体だ。紅緒には損なわずに生きる義務がある。
しかし、祖父の威圧に抗って声をあげた。
「わ、わたくしが責任をもって飼います。きちんと調伏したら、人に危害を加えないでしょう」
「紅緒や、式鬼を使役するということがどういうことなのか分かっているのか」
紫苑が悪食の首もとを撫でると、悪食は深紅にぎらつく瞳を気持ちよさそうに細めた。
「身のうちの霊力を喰わせる代わりに、妖魔を使役し退魔の片棒を担がせる。聞こえはいいが、つまるところは己と妖魔の境界を曖昧にするということに過ぎん。必ず魂が蝕まれるぞ」
紅緒は両手でぐっと胸元を押さえた。か細い妖狐の悲鳴が薄れてくる。強張る舌を叱咤し、口を開く。
「かならず、打ち勝ってみせます」
紫苑が目を眇めた。紅緒は一歩足を踏み出す。
「いくら汚されようと、毒を飲もうと、わたくしはわたくしを損ないません。かならず全て飲み込んで、強くなってみせますわ」
一瞬目を閉じ、紫苑は表情を険しくさせた。しかし再び瞼を開けた時には、祖父は無表情に戻っていた。
「よかろう。そこまで言うなら、妖狐をお前にやろう」
紅緒が頬を緩めると、釘を刺すように紫苑が紅緒を睨む。
「だが紅緒、お前が悪食から妖狐を手に入れてみせよ」
顔を引き攣らせた紅緒をよそに、祖父は悪食から距離をとった。すると、悪食は妖狐を押さえつけたまま立ち上がり、背の毛を逆立て紅緒を威嚇する。
悪食の体躯は若い熊ほどもあり、全身から立ちのぼる凶暴な妖気が相まってさらにその存在を大きく見せた。
大きな前足が妖狐を踏み潰している。黒い艶やかな体毛から、太く鋭い爪が飛び出ている。その切っ先は今にも妖狐の柔い背を裂いてしまいそうだ。妖獣の声はほそく途切れていく。
紅緒は心を決め、悪食ににじり寄った。
悪食は唸り声を強め、身を低くして飛び出さんと後ろ足で地面を掻く。
紅緒は悪食の目前にてのひらを突き出し、叫んだ。
「動くな!」
紅緒と悪食は睨み合う。気迫に圧された方が負ける。紅緒は本能的に悟った。
当然、紅緒より悪食のほうが断然強い。けれど妖狐を助けるためには対等として振舞わなければいけない。悪食に、そして自分に対等なのだと信じさせなければいけない。
震えるな。自分に言い聞かせる。
てのひらを突き出したまま、妖狐の前足に手をかける。引きずり出そうとしたところ、悪食が吠え紅緒の手を食いちぎらんと牙を剥いた。
紅緒はとっさに手を引っ込め、妖狐を両手で抱えて地を転がり悪食から距離をとった。素早く立ち上がると、悪食が紅緒めがけて突進してくるのが見えた。
「くっ……」
悪食の牙が肌をかすったようで、紅緒の手は血に濡れていた。時間がない。紅緒は血まみれの手を妖狐の口の中に突っ込み、妖狐を呼んだ。
「白菊! 立ちなさい!」
賭けだった。
紅緒の血を口にした瞬間、妖狐の瞳が濃紺に輝いた。瞬時に牙と爪が伸び、白菊は紅緒の腕から飛び出した。
目にも留まらぬ速さで白菊は悪食の前に踊り出し、その鼻面に噛みつく。しかし、悪食は獰猛な雄叫びをあげ、白菊を切り裂こうと前足を振り上げた。
その時、紫苑が鋭く制した。
「悪食、止まりなさい」
凍り付いたように、悪食は動きを止めた。慌てて白菊が悪食から離れ、紅緒の前に降り立った。紫苑がこちらに歩み寄る。
「もういい。悪食、戻れ」
祖父の言葉に、悪食は目を閉じぶるりと全身を震わせると、くあと欠伸を漏らし、その場に丸くなったかと思えば、霧のように姿を消した。
紅緒は力が抜け、その場にぺたりと座り込んだ。そんな紅緒の手を、白菊は尾をふりながら舐めている。
紫苑は紅緒の前に立ち、孫の頭を撫でた。
「頑張ったな、紅緒。おいで、怪我の治療をしてやろう」
祖父の優しい声に、紅緒は思わず涙ぐみ、白菊を力いっぱい抱き締めた。