002 糸原紅緒、退魔師になる。その2
祖母が亡くなったとき、蒼衣は六歳、紅緒は一歳だった。祖母の記憶はあまりない。折り紙とお手玉がうまかったこと、棺の中の顔がひどく白かったことしか覚えていない。
両親が亡くなったのは、蒼衣が十歳、紅緒が五歳のときだった。
深夜、屋敷の中がにわかに慌ただしくなり、蒼衣と紅緒がたたき起こされ、二階の物置に押しこまれた。蒼衣の手には懐中電灯ひとつ渡され、両親を恋しがって泣く妹の背をただ撫でさすることしかできなかった。
一晩をかけて祖父と両親が羅刹と交戦し、明け方になる頃には魂魄をぬかれた両親が冷たくなっていた。
紅緒は大泣きしたが、蒼衣は一滴も泣けなかった。
この家にはもう、紅緒を守れる人間は祖父と自分しかいない。その事実だけが重くのしかかっていた。
紅緒も大きくなるにつれ、泣かない子どもになった。
両親の死、祖母の死、それらをかみ砕いて、けれど悲観的になるのではなく、前を向いている。
「紅緒、まだかかりそうか?」
「今、やっとネイルが乾いたところなんです。少しメイクを直したいので、あと二十分待ってくださいませんか」
そう言って紅緒は、鏡台の前に張りついた。
妖魔は人の霊力や現世をさまよう霊魂を喰らい生きている。いわば「死」に近い存在だ。なので、妖魔は人の「生」のエネルギーを嫌う習性があった。
生命力とでもいうのだろうか。健康的な食生活、規則正しい生活、つよい意志、それに歯磨き、爪切り、髪を梳かすことまで、生きることを整える行為は、総じて妖魔を遠ざける。
紅緒は妖魔を寄せやすい体質なので、いっそう気を遣う必要があった。
その一環が身だしなみである。
毎朝二時間かけて完璧にメイクをし、さらにネイルまで施し、アクセサリーも忍ばせる。鏡台に向かう妹の姿はおしゃれというより、一種のまじないのような真剣さを帯びていた。
「お兄さまもお暇なら、ネイルをされてみてはどうです? トップコートのみなら透明で目立ちませんし、爪の保護にも役立ちますよ」
「いや、兄ちゃんはいいよ」
苦笑して答える。紅緒の身内にまで丁寧な言葉遣いも、まじないの一つだ。生活を整え、身だしなみを整え、言葉を整え、所作も整え、そうしてようやく紅緒はひとなみの生活を送ることができる。
しばらくして、ようやく紅緒が立ち上がった。ジーンズに薄手のシャツを羽織り、ナチュラルメイクを施したその姿は高校生よりも大人びて見える。
「お待たせいたしました。準備が終わりましたわ」
「よし、じゃあ行こうか」
紅緒がほほえみ、長い黒髪がさらりと揺れた。
*
糸原の屋敷の結界を出ると、昼間はなりを潜めていた妖魔が夜の世界を闊歩している。
雲にかくれて月の光が弱いせいで、普段よりも数が多い。形の崩れた鳥のようなもの、半透明のアメーバ状のもの、さまざまな色に発光する立方体の集団など、低級の妖魔が紅緒の霊力にひかれて漂ってくる。
視界をさえぎられ、顔をしかめた紅緒に、蒼衣は声をかけた。
「紅緒。低級の奴らは相手しなくていいからな。適当に手で払っとけば、爪に裂かれて消えていく」
「ええ、わかりました」
紅緒が顔のまえで細い手をふると、ピンクベージュのジェルネイルに触れた妖魔が霧散して消える。
退魔師の戦い方は、基本的には肉弾戦だ。爪や歯といった生身の刃が有効な武器になる。それに加え、各々の霊力にあわせた戦い方を習得していく。
水田を突っ切るように伸びる県道沿いを、まばらな街灯を頼りに進んでいく。田畑を抜け、住宅街に差し掛かったころ、紅緒がふと足を止め振り返った。
「いま、何かに服をひっぱられた気がします……」
「変だな、妖魔の気配はしないけど」
首をかしげた紅緒がふたたび歩きだそうとした時、彼女の体ががくんとつんのめった。
「紅緒!」
「これ……なんでしょう」
愕然と紅緒がつぶやく。それは、黒い腕だった。アスファルトから黒い腕が生え、紅緒の足首を掴んでいる。
「妖魔では……ないな」
蒼衣は暗がりのなか感覚を研ぎ澄ます、妖魔特有の邪気は感じられない。
「では、これは……」
悩んでいる間にも腕の本数は増えていき、紅緒の足に絡みついていく。紅緒が試しに爪を立ててみたが、腕は傷を負うことなく掴む力を強めてしまう。
「妖魔でないなら、霊の一種なんだろうが……」
すると、黒い腕が生えているアスファルトの中から、なにやら呻き声のようなものが響いてきた。地鳴りに似たそれは、しだいに数を増し、叫び声にも似た合唱になった。
《喰われた》
《おぞましい》
《鬼だ》
《人喰いの鬼》
《嘆かわしい》
それを聞いて、紅緒はぱっと腕から手を離した。
「お兄さま、これ……、この人たち、まさか羅刹の……」
妹の震え声に、蒼衣はかたく頷いた。
「ああ、おそらく羅刹に魂魄を喰われた人たちの怨念だろう」
紅緒は息をのみ、肩を震わせた。
「わ、わたくしには……」
「大丈夫だよ、紅緒。兄ちゃんがいるから、紅緒はじっとしてて」
蒼衣はそう言うと、紅緒の足元にしゃがみ込み、黒い腕に語りかけた。
「痛かっただろう。辛かっただろう。もう成仏していいんだよ」
蒼衣の穏やかな声に反応し、腕は動きを止めた。やがてぼんやりと淡く発光し、跡形もなく闇夜に溶けていった。
「言霊……」
紅緒がつぶやく。
幼い時から、蒼衣の言葉には不思議な力があった。蒼衣が祈りをこめて言葉を発すると、言葉自体に霊力が宿り、祈りを成就させることができるのだった。
黒い腕がすべて消え去り、妖魔のいなくなった路上で蒼衣は紅緒に笑いかけた。
「初めてでびっくりしただろう。紅緒もそのうち自分の力の使い方が分かってくる。それまで兄ちゃんがサポートしてやるからな」
紅緒はわずかに目を見ひらき、しかしそっと顔を伏せた。
「ありがとうございます、お兄さま……」
蒼衣はうなだれる紅緒の肩に手を乗せた。
「今日は疲れただろう。もう帰ろうか」
こうして、紅緒の修行の一日目は幕を下ろしたのだった。