001 糸原紅緒、退魔師になる。その1
どうかあなたが、すこやかに、しあわせに、いきていけますように。
生まれたばかりの妹は、小さくて細っこくてふにゃふにゃで、いくつもの管につながれていた。せまい保育器のなかで満足に身動きもとれず、捨て猫のようにか細い声で泣くさまはあまりにも可哀想で、蒼衣はただひたすらに、幼い妹があちら側に連れていかれませんようにと、心から祈った。
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「おい、じじい! 紅緒が退魔師になるって正気か⁈」
糸原蒼衣が乱暴に障子を開けると、祖父の紫苑は白藤色の羽織をきて緑茶を啜っているところだった。
「俺はそんなの認めねーぞ!」
桐の文机を拳でたたき、どかりと胡坐をかく。紫苑を睨みつけると、祖父はふかい溜め息をつき、蒼衣に向きなおった。
「たしかに紅緒はまだ高校生で、若い。だがお前が修業を始めたのもそのぐらいだったろう」
「それとこれは話がちげーだろ! じじいだって、最近ここらに妖魔が増えてるの知ってんだろ」
「ああ。近頃は羅刹がしずまっているからな。低級の魑魅魍魎が蠢いておる」
「だから、紅緒は妖魔をひきよせるから危ねーっつってんだろーが!」
「お兄さま、ゆっくりされていては大学におくれてしまいますわ」
開け放した障子から、白いセーラー服に身を包んだ紅緒が顔をのぞかせる。完璧なナチュラルメイクを施されたなめらかな肌と、漆黒の長髪があざやかなコントラストを成している。マスカラで長く伸ばされた睫毛をまたたかせながら、紅緒はティントで潤んだ唇をほころばせる。
「退魔師になることは、わたくしからお爺さまにお願いしましたの。だからお爺さまを責めてはいけませんわ」
「そうだ。それに、今後のことを考えれば紅緒も自分の身を守るすべを持っていた方がいい」
「だからって、紅緒にはまだ早いだろ……!」
「お兄さま」
紅緒が軽やかな足どりで蒼衣の前に歩みより、膝をつく。彼女がわずかに首をかしげると、絹のような髪が制服の襟をさらさらと流れる。
「紅緒の身を案じてくださって、ありがとうございます。けれどもう、わたくしはお爺さまやお兄さまに守られているだけなのは嫌なのです。わたくしも、お二人の力になりたい」
アイシャドーの美しいグラデーションで縁取られたまるい瞳に見上げられ、蒼衣はぐっと言葉に詰まった。蒼衣はめっぽう妹の「お願い」に弱い。
それも仕方ないのだ。蒼衣が五つのときに生まれた紅緒は、未熟児として生を受け、家族との対面を果たすまもなく医師たちのたえまない処置を受け続けていた。どうか紅緒が元気でうちに帰れますように、という蒼衣たちの祈りが通じたのか妹はかろうじて一命をとりとめたが、その後も紅緒は健康とはいえなかった。
しょっちゅう食事をもどし、高熱を出して寝込み、最近まで紅緒の手足は枝のように痩せていた。加えて彼女は、頑健とはいえない体に、莫大な霊力をやどしていた。
退魔師の能力の優劣は、霊力の多寡によって決まるといっても過言ではない。その意味では、紅緒は退魔師の家系である糸原家において絶対的なアドバンテージを持って生まれた。けれど、幼い彼女はおのれの霊力を使いこなす術も、おのれの身を守る術ももたなかった。
豊富な霊力は妖魔をひきよせる。紅緒の力を我が物とせんと集まる妖魔から、祖父母や両親が紅緒を守ってきた。蒼衣は唇をかみしめた。
「だけど、今は静かにしてるったって、いつ羅刹が紅緒をまた襲うか分かったもんじゃないんだぞ……!」
羅刹。絶大な能力を誇る人喰いの鬼を、退魔師はそう呼んでいる。
紅緒の霊力を求めて集まる有象無象の妖魔のように、羅刹も紅緒を狙っていた。
羅刹は退魔師の攻撃をすり抜け、妖魔や人の魂魄を喰らう。紅緒を守るため、両親や祖母は羅刹と戦い、命を落とした。近年は羅刹の動きは見られないが、どの退魔師も羅刹の討伐には成功していないので、いつまた毒牙が剥かれるか予想もつかない。
祖父が長い息をつき、湯飲みをもって立ち上がった。
「そんなに心配なら、蒼衣、お前が紅緒についてやればいいだろう」
紫苑の言葉に、蒼衣はぱっと顔を上げた。
「俺が? でもじじいが見てやるほうが安全なんじゃ……」
「蒼衣も修業をはじめて五年は経つだろう。もちろん儂の経験には遠く及ばんが、一人で任せられることも増えてきた。それに、儂は妖魔の動きで気になることがある。紅緒にはお前がついていてやれ」
蒼衣は紫苑に向かって深くうなずき、紅緒に向きなおった。妹の細い肩を両手でつかみ、安心させるように笑みをつくる。
「紅緒、何があっても兄ちゃんが守ってやるからな! だから紅緒は、妖魔に対処する方法をゆっくりと覚えていけばいいからな……!」
「でも、お兄さまのお手を煩わせるのは……」
「何言ってんだ。紅緒は大事な妹だからな。分からないことがあったら、何でも兄ちゃんに聞けよ」
肩に乗せた手に力を込めると、紅緒はようやくこわばりを解き、花のようにはにかんだ。
「ありがとうございます、お兄さま」
最愛の妹をぜったいに危険な目に遭わせるわけにはいかないと、蒼衣はかたく心に誓った。